恋とは停電した世界のようです

『はあ? お茶? ……何を勘違いされているか分かりませんが、僕は多忙なんです。貴女のくだらないおしゃべりに付き合っている暇などありません』
「そこをなんとか。だって一人でその場所に行って……何か起こったら、怖いじゃないですか。何が起こるか分からないのに」
『……切りますね』
「あ、え? ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

 分かってはいたけれど、電話の向こうのアズール先輩は冷たかった。

『くだらない。……読まれたんですね、あの記事』
「はい……」

 本当は今すぐにアズール先輩に尋ねたかった。あの記事を書いているのはケイト先輩なのでしょうか、と。知っているんですよね、と。
 紐を辿ればケイト先輩に会えてしまうかもしれない、と考えてしまってからは、一秒たりともざわつく胸が鎮まらない。

『先に言っておきますが、僕は何も言いませんよ』
「……それでもいいです。自分で確かめますので」

 そう告げれば、彼がため息を吐くのが聞こえる。

『……僕、明々後日はオランピア劇場を視察する予定ですので、その後その付近で、でしたら。大体18時ごろになると思いますが。劇場の場所はご存知ですよね?』
「……あ、はい。え、付いて来てくれるんですか?」
『ナマエさん、貴女が頼んだんでしょう。……ああ、こちらへいらっしゃる前に、劇場の向かいのリストランテにルッコラ・セルパティカを7束ほど届けて頂けると助かります。従業員の買い出しの手間が省けますので』
「おつかいじゃないですか」
『何か文句でも?』

 ここぞとばかりに対価を払わせるアズール先輩のことを、やはりアズール先輩だなんて思いながら「いいえ! それではよろしくお願いします!」と返事をして、電話を終えた。











 アズール先輩は当日の18時きっかりに、何やらスーツの人と話し込みながら劇場から出て来た。多忙だという言葉に偽りはなかったようで、そんな中ワガママを言ってしまったことを少し後悔した。

「お待たせして申し訳ありませんでした」
「いえ、お呼び立てしてすみません。ルッコラは無事届けましたので」
「それはどうも。助かります。それでは行きましょうか」

 迷いのない革靴。どこへ行くかは既に彼の中で決まっていたらしい。
 タクシーを10分程走らせると、さすがアズール先輩のチョイスと言うべきか、海辺に面した、かなり洒落たダイニングカフェに到着した。「近いうちに視察しておこうと思っていたんです」、とどこまでも仕事人の一面を見せる彼のおすすめに従って、いくつか夕食になるようなメニューを注文した。

「で、貴女は何を期待して、あの記事の通りにここに来たんですか」

 赤ワインに上品に唇を付けて、アズール先輩は言った。

「……分かりません。もちろん会いたいですけど、実のところ、会う決意もできていません」
「会いたいとは、どなたにですか?」
「え? ケイト先輩に……いや、ご存知ですよね、アズール先輩は」
「話が見えないので今一度確認したいのですが、貴女はケイトさんのことを好きなんですね?」
「え!?」
「それはそれは。察しが悪くて失礼しました」

 アズール先輩は仰々しく両手を宙に広げつつ、目を伏せて微笑んだ。
 この人、絶対に知っていた。知らないわけがなかった。私が天文台に通い詰めていたことまで知っているのに。どこまでも意地の悪い人だと唇を噛み締める。

「貴女があれからずっと彼のことを忘れられずに想い続けていたのなら、実に六年越しになりますよね。なんとも健気で、僕まで胸が締め付けられるようです」
「……すぐ馬鹿にする」
「心外です。でも、決して短くはない時間ですよ、六年というのは。監督生さんのその想いを遂げるなら、待っているだけじゃ不足でしょうね。運命はそんなに生易しいものだと、僕は思いません」
「……分かっています。でも、アズール先輩の口からそんな単語が零れるとは思ってませんでした。一番嫌いじゃないですか、こういうの」
「ええ、仰る通り。運任せ、他力本願なんてクソ食らえと思っています」
「やめてください、アズール先輩のルックスでそんな汚い言葉言うの」
「……でも運命をただ待つことと、自分で掴みに行くのとは、天と地ほどもかけ離れたことだと思いませんか。今貴女がここに来たことも、ほんの僅かとは言え、一歩進んだことに変わりはない」

 諭すような真剣な口調に、私は茶化すのをやめた。ちょうどテーブルにこの店の名物であるというトマホークステーキが運ばれてきた。途端に香ばしい香りが満ちる。

「美味しそうですね。早速頂きましょうか」
「あれ……先輩って確か、食べるものにすごく気を遣われてませんでしたっけ。カロリーとか」
「ええ。継続していますよ。だから、10分の7は監督生さんが召し上がってください」
「ええ……こんな大きいのをですか……」
「随分と弱気ですね。学生の頃はよくケイトさんとモストロ・ラウンジに来て下さっていたのに。その時だって、彼ではなくほとんど貴女が平らげていたでしょう」
「なんで覚えてるんですか、そんなくだらないこと」

 ケイト先輩が甘いものを頼みたがるのに、実は食べられないと気付いていたからだ。
 くすくすと笑うアズール先輩は憎たらしいけれど、ステーキの味は絶品だった。

 そのままアズール先輩と他愛もない会話を二つ、三つ交わしたところで、グリーンを挟んだ隣のテーブルに新しい客がやって来た。

 モザイクのように茂る葉っぱの隙間から覗く、僅かな部分しか見えないけれど、チェックのジャケットが似合うお洒落な雰囲気の男性だった。その向かいにも、別の男性が腰掛ける。

「いや〜ごめんなさい、遅くなっちゃって。でも、おかげ様で先月の記事、すっごい反響良かったんですよね。読者アンケートもあの記事のことばっかで! だから次の記事は前回の内容踏まえつつ、ちょっと新しい内容も入れたいな〜なんて思って、ご相談って感じです」

 席に着くなり、よく通る軽快な声が耳をくすぐった。声そのものが笑っているような、この感じ。とてつもなくケイト先輩に似ていると思って、無意識に持っていたナイフとフォークを止めて、聞き入ってしまう。
 向かいに腰かけた男性は軽く笑ったあとに、その名前を口にした。

「僕はなにも。ケイトくんの記事がいいからね。ほら……マジカメだっけ? 若者への影響力もあるし。それに、僕のまとまらない言葉も綺麗にまとめてくれて、嬉しかったよ」
「え〜、ちょっとちょっと、褒めすぎじゃないですか? でもオレ、嬉しいからこれからも頑張っちゃいます」
「はは! ケイトくん、本当に明るいね。一緒に仕事できてよかったよ。まあとりあえず、何か飲むかい?」

 確かに紡がれたその名前も、それに対する返答も、すべてがケイト先輩そのものだった。
 恐らく仕事関係の人と食事に来たのだろうということは雰囲気から冷静に察知したけれど、本当に今、すぐ隣に彼がいるのだということがまだ信じられず、心臓がばくばくとうるさくなる。

「……収穫、あったみたいですね」

 アズール先輩の声ではっと我に返る。

「ど、どうしましょう……本当に会える、なんて」
「何もかも僕に聞くのはやめてください。最初にお伝えしましたよね、何も言いませんと」

 まるでここにケイト先輩がやって来るのが分かっていたかみたいに、アズール先輩は落ち着いていた。フォークを持つ手が、ナイフを持つ手が、にわかに汗ばんで震える。

 とりあえず落ち着かなければと、唯一の水分であったワインをごくごくと飲むと、アズール先輩が生ごみを見るような目付きになった。

「ちょっと貴女……」
「だって、こうでもしないと冷静でなんていられません。占星術のページ読むだけでもお酒の力を借りたのに!」
「貴女、意外とシャイなんですね。ケイトさんの前での話でしょうけど」
「な、名前。聞こえるじゃないですか!」

 アズール先輩の口を塞ごうと咄嗟に立ち上がってしまう。がたんと、ヒールが引っかかったテーブルが揺れて音を立ててしまった。やばい、と思って顔を伏せる。案の定、グリーンの向こうから視線を感じて「終わった」と思ったけれど、アズール先輩の「問題ありません」という囁き声で、恐る恐る目を開けた。

 少しだけ、白色の光の残骸が見える。アズール先輩の魔法だと思った。

「別の人間に見える魔法を使いましたが、恐らく同じ魔法士である彼には『魔法を使った』ということまではバレてしまうでしょう。怪しまれないようにしてください」
「す、すみません……ありがとうございます」
「本当に貴女って人は……呆れますね。会いたいのですか、会いたくないのですか。気付かれたいのですか、気付かれたくないのですか。はっきりして頂かないと僕もフォローをするか否かの判断に困るのですが」

 煩わしそうにナプキンで口元を拭くアズール先輩の言葉は一字一句その通りで、反論の余地もなく私は肩を竦める。
 絶えず聞こえてくるケイト先輩の笑い声や、敬語だっていうのに間延びした語尾。久しぶりに耳にしたその全部が愛おしくて、今にも「あー!」と叫びだしそうだ。

 私よりもかなり控えめな大きさにステーキを切って口に運ぶアズール先輩を、ちょっとかわいいところあるんだな、とぼんやり思いながら私は答えた。

「……会いたいです。でも私、ケイト先輩との約束を破ったから、受け入れてもらえるか分かりません。もしケイト先輩に『裏切った』って思われてたらと想像したら、怖くて」
「裏切りだなんて大袈裟な。あなたは一応、僕たちのことを考えてその選択をしたと仰っていたじゃありませんか。たとえそれが空回りでも、あなたが悩んで決めたことなら、説明すればいいだけでしょう。僕にしたのと同じように」

 アズール先輩はいつも、大それたことを涼しい顔で言ってのけてしまう。

「アズール先輩は、理解できないって」
「……大事な人間が急に目の前から姿を消してしまうだなんて、貴女は想像したことがありますか? 残された僕たちは行き場のない怒りや悲しみを、貴女以外の何にぶつけろと言うんですか。理解できないなんて言ったのは、建前です。あなたの口から理由を聞けば、すぐに思い出しましたよ。
 ……そうだ貴女は、そういうどうしようもない人だったなって」

 いつも彼が含んでいる棘はそこにはなかった。
 しばらく言葉を失っていると、アズール先輩は眉を寄せて「……何か返事しなさいよ」と声を荒げた。照れているのだろうと気付いて、笑ってしまう。
 思ったよりも彼も、世界も、優しかったのかもしれない。











 アズール先輩のおかげでいくらかリラックスした私は、食事をしながら、さっきより何倍も冷静に、自分がどうしたいのかを考えることができた。

 ケイト先輩が約束を破った私のことを許してくれるかどうか分からない。嘘を吐いてあの場所を去ったのに自分から戻ってくるだなんて、自分勝手が過ぎると分かっている。

 それでも私は、もう一度信じてみたかったのだ。

「アズール先輩、私……」
「そういや、プライベートの話になるんだけどさ、ケイトくんは彼女とかいるの?」

 真っ先にアズール先輩に聞いてもらいたいと口を開いたと同時に、隣のテーブルからそんな声が聞こえてきたので、続きの文字を失ってしまう。
 アズール先輩も同じで、ぴくりとその横髪を揺らした。

「え、オレですか? 彼女か〜……残念ながら、当分いないんですよね〜」
「またまた。君のスペックでいないなんて、現実味がないよ。もしかしてとっかえひっかえ?」
「違いますぅ! 実は、高校時代好きだった子にこっぴどく振られちゃって、ちゃんと付き合うの、ちょっとしんどいかな〜ってのがいまだに拭えてないっていうか」
「ほんとに? 意外と繊細なんだね、笑ってごめん。でも、ケイトくんみたいないい男を振るなんて、分かってないなあ」
「はは、ホントですよね〜!」

 私のこと、なのか。ケイト先輩の口から出た「好きだった」っていう言葉が嬉しくも、辛くもある。そして「こっぴどい振られ方をした」、という言葉は、純粋に胸を締め付けた。

 この先を聞いていたくなくて視線を泳がせる私を見抜いて、アズール先輩は「逃げないほうが貴女のためだ」と言った。

 今にも泣き出しそうなのに、ケイト先輩たちの会話は続いてしまう。

「じゃあ今は、狙ってる子はいないの?」
「……あー、いますよ」

 少し考え込むような間のあとのケイト先輩の返事に、ずきりと胸が痛んだ。アズール先輩が私の手首を掴む。

「へえ、いいじゃないか」
「あはは。けっこうアピールしてきたんですけど、あんま手応えなくて。でも実はこの後、その子と会う予定だったりして〜」
「いいね、青春だね。僕も奥さんと会ったころ思い出すよ。それなら今日は話もまとまったことだし、おひらきにしようか」
「え〜! オレお酒足んないから、緊張して喋れないかもなんですけど」
「軽口叩けるなら十分だよ。健闘を祈ってるよ」
「あはは……次のアポのときにはいい報告できるように、せいぜい頑張っちゃいますね」

 ケイト先輩にはもう、好きな人がいた。まさにこれからデートに行くような親しい人が。
 二人が立ち上がってテーブルが空になるまで、私もアズール先輩も黙っていた。もう彼らはいないだろうと確信すると、どっと何かが降りてきて、頬に熱いものが流れる。

 アズール先輩は私のほうをちらりと見て少したじろいだように見えたけれど、すぐにマジカルペンを取り出して、小さく振った。
 睫毛から零れた涙は、それと同時に宙に浮いて溶けていく。まるで水中で泣いているみたいだ。

「ア、アズールせんぱ……ごめんなさ……」
「……人前で泣かないでください。まるで僕が手ひどく泣かせているみたいじゃありませんか」

 そうは言いつつも、私の手首を掴んでいた力は緩まり、代わりに一杯の水が差し出される。それを嗚咽混じりに飲み干したあと、少しだけ普通の水とは味が違っている気がして。

「ああ、その水。貴女がはやく落ち着くように、ちょっとした魔法をかけました」
「ありがとう、ございます……何から、何まで」
「こんな時に丁寧にお礼を言われましても」
「……でも、アズール先輩のおかげで、分かりました。私が夢見すぎていただけなんだって。あんなにひどいことをしたし、嘘まで吐いたんですから、当たり前ですよね。
 アズール先輩、ここに付いて来てくれて、ありがとうございました」

 水の効果か、早くも嗚咽が消えて行って、まともに話すことができた。
 アズール先輩に頭を下げるけれど、どこか釈然としないような表情で私を見下ろすばかりだ。艶やかな唇は私の肩が振るわなくなったのを確認して、やっと擡げられる。

「……貴女、どこまで馬鹿なんですか?」
「え……何で今、悪口言われなきゃならないんですか」
「彼は何も、好きな女性が『貴女じゃない』とは言っていなかったでしょう」
「……いや、そんな屁理屈みたいなこと」
「貴女、本当にあの記事を読まれたんですか? 信じたいんじゃなかったんですか?」

 問い詰めるというよりは、説得するような物言いだった。まなじりから零れた涙は、まだふわふわとアズ―ル先輩の近くを漂っていた。呆れるようにそれらを片手で払って、アズール先輩は立ち上がる。

「僕たちも、帰りましょうか」
「え?」
「……彼のネクタイピンが素敵でしたので」
「は?」
「品の良いゴールドが彼のスーツによく似合っていました。僕も今すぐ似たものを探しに行きたいので、解散しましょう」

 海のような瞳が私を見た。
 支離滅裂な言葉にまた掠れた母音を漏らしそうになったところで、はっとする。

『そんな言い訳みたいのいらないってば。オレ、すっごい嬉しいのに』

と、私が贈ったそれに、肩をゆするように力説してくれたケイト先輩のことを思い出す。
 私がやおら立ち上がると、アズール先輩が「ご理解頂けたようで」と口角を引く。

「ああ、お会計は任せておいてください。貴女の一億倍は稼いでますので。お約束があるなら、すぐに行ったほうがよろしいのでは?」
「アズール先輩、ありがとうございます……!」
「造作もありませんよ。ではまた」

 にっこりと微笑むアズール先輩に頭を下げて、店を出る。でも、一億倍は言いすぎだ。

 あんなに泣いてしまったのにちっともメイクが崩れている感じがしないのは、アズール先輩の魔法のおかげだ。なんだかんだ世話を焼いてしまう人なのだと、不格好な優しさに触れてまた泣いてしまいそうになる。

「今日の19時から24時にかけて」。あの記事に書かれていた時間だと、残り40分ほどしかない。もう一つのワードである、「水面」という場所に心当たりはない。ダイニングカフェが面していた海には人影はなかった。

「ケイト先輩」

 唇だけで呼んでみるけれど、当然返事はない。
 もしケイト先輩を見つけられなかったとしたら、また二度と会えなくなるような気がしていた。焦りは鼓動を早める。思わず駆け足になってしまう私を、すれ違う人たちは煩わしそうに避けた。

 あの贈り物を使うとき、少しでも私のことを思い出してくれたのなら。

 一度踏みにじった運命を、それでも信じていてくれているのなら。

 一目でいいからもう一度会って、「ごめんなさい」と、手紙越しなんかじゃない「大好きです」を伝えたかったのだ。




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