春、膝を抱え込むV

 帰りのタクシーに乗っている間、焦凍くんの口数はいつもより心なしか少なかった。考えごとをしているのか、窓の外のやかましい色の看板に、大した意味もない視線を滑らせている。
 それだけ物憂げな顔をしていても、首に行儀よく寄り添った襟足はなぜか、少年だったころの彼を思い出させた。

「あ、私、次の交差点で降りるね」
「え。お前んち、まだ先じゃなかったか」
「でもそこの交差点で曲がんないと、焦凍くんちまで遠回りになっちゃうよ」
「今更そんなこと気にしてんのか。家まで送ってく」

 ひとつも角のない優しい物言いに、すでにアルコールのせいで火照っていた体がさらに熱を孕んだ。
 行きのタクシーとは違って、運転手は私にも焦凍くんにも、何にも話しかけてこない。ラジオの音量が最適で心地よかった。

「お前んち、たしかあの川の目の前だったよな。桜は……とっくに散ったか」
「もうほとんど散ったけど、綺麗だったよ。焦凍くんは忙しいしそれどころじゃなかったかな」
「ああ、そういや見ずに終わっちまったな。車でちょっと横通ったぐらいだ」

 目まぐるしい日々を送る彼にとって、今年の桜が美しいかどうかなど、二の次なのだろうと思う。なんて呑気な質問を寄越したのだろうと項垂れたくなりながら窓の外を見た。コンクリートに敷き詰められた色褪せた桜の花弁の残骸が、爆豪の髪を思い起こさせた。
 ――そういえば、爆豪に連絡を入れてない。
 そっと上着のポケットの中のスマホを見ると、案の定「何してる」と簡潔なメッセージが入っていた。受信時間は二十時過ぎ。今は二十三時過ぎだ。
 とっさに「しまった」と思ったけれど、爆豪は自分の世話すら自分でできないような子どもではない。自分の家に帰れなくとも、代わりに温かい食事と布団を提供してくれる人間なんて私以外にいくらでもいるだろう。
 そうこう考えている間に、私の家の前にタクシーが着いてしまう。私がいっとう気に入っている白い塗りかけの壁はヘッドライトに照らされて、なんだか日中に見るよりも陳腐に見えた。

「じゃあまた明日な、なまえ」

 焦凍くんの口角がわずかに緩む。笑っている。ただただシンプルに「好きだ」と思う。
 引き留めて、焦凍くんのトレンチコートの裾をつかんで、「うちに来てお茶でも飲んでいかない? もうちょっとだけ話したい」とでも言えればいいのだけど、そうすれば消えてなくなってしまうかもしれない「また明日」が、私にはあまりにも愛おしすぎてしまう。

「……また明日ね。ごはんおいしかった。また行こう」
「ああ、いつでもいいぞ。じゃあ、おやすみ」

 空中で遠慮がちに手をふると、窓の向こうから彼も手のひらで応えてくれる。
 焦凍くんを閉じ込めたタクシーのヘッドライトは大通りに吸い込まれていく。やがて、排気音は混ざって聴こえなくなって、代わりに、聴き慣れた川の水音が残された。私はやっと、顔のそばに掲げていた手をぱたりと下ろした。
 部屋に入ると、一日中空っぽだったそこは静寂に染まり切っていた。どことなく寂しい感じすら空中に漂っているのは、すでに爆豪がここにいない日のほうが珍しくなってしまっているからだろう。
 スマホを取り出して爆豪からのメッセージに

『ごめん、仕事終わってそのままごはん行ってた』

とだけ返したら、驚くほどの速さでレスポンスがあった。

『どこにいる』
『家だけど』

 そもそも一緒に住んでいるわけではないのだし、半ば転がり込んで来ているのは爆豪のほうだ。お互いに予定を共有する必要も義務もないとは思うのだが――そうは言っても今更他人ぶるのも薄情な感じがするし、不自然なことだとも同時に思う。
 テーブルに置いたスマホをすぐに拾い上げて、『そっちは大丈夫?』と何に対してかもわからない四文字を打てば、すぐに通知音が鳴った。

『今から行く』

 え、と掠れた声が落ちる。
 そして爆豪は本当に、十五分も経たないうちに私の部屋のインターホンを鳴らした。
 ドアを開けると不貞腐れ気味に唇を曲げて立っていた爆豪を見て、すこし笑ってしまった。帰りたくもないがここに帰るしかないから帰ってきた、意地っ張りの家出少年を連想してしまった。

「近くにいたの?」
「たまたまな」
「……爆豪、ほんとに自分の家戻るの嫌なんだね。知らなかった。ごめんね」
「あ? バカにすんなクソが」

 語気は荒いくせに、意外にもスニーカーは利口に揃える。こういう変に折り目の正しい部分がもし彼になかったら、私はたぶん彼を断固拒否している。

「コレ冷蔵庫入れとくぞ」
「なにそれ?」
「おめーが食うやつ」

 教えてくれなければ見せてもくれない。
 けれど、バタンと閉じる冷蔵庫のドアから、見知ったピンク色の箱がちらりと見えた。

「えっ、それってさ、もしかしてアレ? 買って来てくれたの?」

 一週間ほど前、眠る前にスマホで見ていた、ちょっとお高いけど美味しそうなチーズケーキの箱。実店舗は木椰子にしかなくて、開店から行列を携えているらしい。取り寄せは二か月待ち。気軽には食べられないと思うとなんだかますます食べたくなるよね、と眠気でとろけた声でひとりごちたのを、律儀にも覚えていたらしい。

「嬉しい、ありがとう、爆豪」
「……うっとおしい、コッチ来んな」
「ていうか、並んだよね。どのくらい並んだ?」
「ルセェ、シャワー貸せ」

 折り目正しいという言葉は撤回だ――もはや自ら棚のタオルを取ってシャワールームに消えていく図々しい彼のことを、機嫌のいい私はまんまと見過ごした。
 ふたりともがシャワーから上がったら、ちょうどよくケーキも解凍されているだろうか。爆豪も食べるかな。いや、食べないかも。
 それにしたって爆豪はご機嫌取りがうまい。何気なく発した一言を覚えられているというのが、他人の気分をこれだけ浮つかせることを知ったうえでやっているのだろう。
 『ほらこれ、おいしそうじゃない?』と、真っ暗な部屋には場違いな煌々と明るいスマホの画面を爆豪に向けたとき、彼は『クソどーでもいい』と言っていたし、その顔だって眩しさと煩わしさでひどく歪んでいたのに。



 ひとりで眠っていた朝方、どこか遠慮がちに玄関が開く音で目が覚めた。次に、重ためのスニーカーが揃う音。きっと爆豪だ。
 ――あれ、でも、鍵閉めてたはずなのに、なんでうちに入れるんだっけ。
 ぼんやりとした思考回路をうまく辿れず、私はゆったりと起き上がることにした。目を擦りながらうすら明るいシャワールームのほうに向かうと、すでに彼はTシャツを乱暴に脱ぎ捨てたところだった。

「来たんだ。もう今日は来ないかと思って寝ちゃってた」
「……起こしてワリィ。寝とけ」
「うん、二度寝する。こんな時間までお疲れ様」

 お疲れ様。おかえりと言うのも変だからそう言ったのだけれど、やはりこれも変だったらしい。わずかに眉を顰めた爆豪は居心地悪そうに「おう」とだけ返事をする。
 私は吸い込まれるみたいにして再びベッドに飛び込んだ。霞んだ視界の端にデジタル時計が映る。起きるにはまだ早い。シャワールームから漏れるくぐもった水音は、雨音に似ていてやけに眠気を誘ってくる。
 そのままうつらうつらと意識を彷徨わせていると、やがて布団のなかに一人分の質量が割り込んできた。
 仰向けではなければうつ伏せでもなく、壁側に背を向けて眠っていた私の隣に、爆豪はよりによって向かい合わせになるよう横たわっていた。うっすらと瞼を持ち上げたとき、圧迫感すら漂う逞しい胸板がすぐ目の前にあったので、思わずブランケットを体で巻き込みながら壁側に向かって寝返りを打った。

「何を今更」

 爆豪がそう呟いて、私のことを鼻で笑ったのが聞こえた。

「……別に、恥ずかしいとかそういうのじゃないってば」
「アッソ。つーか起きてたんかよ」

 彼の声はいまだ私の後頭部に向かっている。壁側に向かって眠るのはなんだか気分じゃないというか、しっくりこない感じがするけれど、爆豪と恋人同士がするみたいに鼻先を突き合わせて眠るよりは、まだ落ち着いて眠れそうだ。

「ていうか、爆豪ってなんでうち入れるんだっけ。私、合鍵渡したっけ」
「……なんで覚えてねェんだよ」
「あれ、ほんとに渡したんだっけ。なんか、記憶があいまいで」
「……ンなこったろーと思ったわ。テメー、けっこう飲んでたときだったしな」

 爆豪は苛立ちながらも経緯の説明をしてくれた。
 彼は、その日は私が「事務所のサイドキックの人たちと飲み会をしてきた」とずいぶん気分良さそうに言っていたというので、あああの夜か、と合点がいく。たしかにあの日はすこし飲みすぎた。焦凍くんの事務所のサイドキックには、なぜだか飲むのも乗せるのも好きな子が多いのだ。
 そして、仕事終わりの爆豪が私の家の前にやってくると「鍵を失くした」と青ざめた顔で言ったらしい。
 もちろんその出来事はぼんやりと覚えているが、他人の口から聞けば、普通にドジで最悪な女じゃないかと頭を抱えたくなる。
 結局は、居酒屋の席にストラップごと鍵を落としていたのをサイドキックの子が見つけてくれていて、間もなく「これなまえさんのじゃないですか? 通り道なんで、そっちまで持って行きますよ」と電話がかかってきて、何を逃れた。危うく、爆豪まで家なき子にしてしまうところだった。

「――ンで俺がさんざん危なっかしいだマヌケだっつったら、ヤケになってテメーが『どうせ来るんなら片方はそっちで持ってろ』っつったんだ」

 爆豪は拗ねたみたいにそう言った。記憶がはっきりとした輪郭を帯びてくる。

「そうだったよね。なんか、勢いで渡しちゃったから忘れちゃってたのかも」
「……『勢い』ってテメー、誰彼構わず自分ちの鍵なんざ渡してンじゃねえぞ」
「いやいや! たしかに酔っぱらってたけど、信用できる爆豪だから渡したはず……だよ。でも、使わないなら持ってても仕方ないだろうから――」
「使ってんだろうが。さっきだってピッキングで入ってきたとでも思っとンか」

 衣擦れの音とともに、ベッドの上の質量が蠢く。

「……返さねー」

 呟くみたいにそう言う爆豪の声が遠くなっていたので、彼が反対側を向いたのだとわかった。

「うん。いいよ」

 彼が反対側を向いたから、やっと私も寝返りを打てた。なんとなくしっくりこなかった壁側とは反対方向にごろんと身を返す。
 爆豪が私の背中に向かって話しかけていたさっきまでとは反対に、私が彼の背中を向くかたちになる。すこし大きめのTシャツに包まれた広い背中が丸まっている。
 じんわりと温かい彼の足先が、私の膝の下に触れた。その爪先は、私の肌を柔く引っ掻くみたいにして、まだ起きているぞと知らせてくる。
 じんわりと触れた部分から、爆豪の高い体温が移るのがわかる。

「つーか文句言わねーのかよ。拍子抜けだわ」
「……合鍵の件? だって、文句とか特にないもん。もはやなんなんだろう、とは思うけど」
「……何が」
「爆豪と私が」

 べつに大それた答えを求めて言ったことじゃないのに、爆豪はこっちに向けたばかりの背中をぐるりと返した。
 瞬く間に、また間近に爆豪の不機嫌そうな顔が迫ってきて、「ひ」と声にならない声が漏れる。
 枕と首のあいだにむりやり滑り込んでくる、逞しい腕の温度。薄暗い部屋の中で私を捉えようとする、鈍い赤の瞳。
 頭のうしろから回ってきた指が私の頬をすり、と一度だけ撫でる。

「……なんにも考えてねえ顔してるクセして、そーゆーことはクソ真面目に考えてんだな」
「考えてはないよ、思うだけ。考えないようにしてる」

 爆豪は黙った。
 私は頬に添えられた彼の指をそっと握って、目を瞑る。

「……だって、本当は好きな人とだけするようなこと、ぜんぶ爆豪としてる」

 ――変だよね、と呟いた。
 私を両腕で抱えたまま返事もしない爆豪に気付いて、うっすらと瞼をひらく。鋭い瞳はたしかに私のほうだけを見ていたのに、どこか遠いところを見ているような感じもした。まるで恋人同士がするみたいに見つめ合っているのに、視線がまっすぐには通わない。
 ただの同級生はおろか、友達にだってふさわしくない、こんなにも近い距離にいるのに、爆豪が何を考えているのかわからないときがある。

「……ぶつくさ言わねーで、寝ろ」

 やがて爆豪の瞼がふっと伏せられた。中途半端に指に絡んだ私の手を、ねじ伏せるみたいに上から絡め直して、ベッドに縫い付ける。
 爆豪はたまに、私の言動の何かしらが苛立ちのスイッチになって急いたように私を求めることがある。それなのに今夜の爆豪は、いつになく凪いだ表情だった。
 眠っている時間すら惜しむように私を閉じ込めて離さない腕の中。体を重ねたあとならあまり気にならなかったのに、ただ「おやすみ」を交わしただけの今はとてつもなく居心地の悪い空間に感じてしまう。
 ――今日の私たちは、ますます歪だ。
 おかえりを言えない。体を重ねない夜に戸惑う。こんなのはたぶん、袋の中に紛れている形のおかしいクッキーみたいな感じだ。表には出せない。目に付かない、ふさわしいところで、ひっそりと生きるしかない。

「……明日はお前より早えーから、冷蔵庫にテキトーなもん作っとく」

 そんなのいいよ、と答えたつもりだが、爆豪にもちゃんと認識できる音として届いたかは分からない。
 落ち着かないと思っていたはずなのに、眠る前にだけ彼が発するいつもより穏やかな声とか、なにかを確かめるようにたまに髪を透いていく指とかは、不思議なことに私の体には馴染んでしまっている。そのせいで、すぐに眠くなってしまう。
 やっぱりこんなのは変だ、そう思いながらも意識はぼんやりと重くなっていく。「おやすみ」と聞こえた気がするが、それが夢の中か現実だったかを判別できなかった。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -