春、膝を抱え込むT

 私が住んでいるアパートのベランダの前には、川がある。
 大して築年数も浅くないし、細い道路に面した一階の部屋ではあるけれど、ここから聞こえる水の音と、ここから見えるカーブミラーはなんとなく好きだから、ここでの暮らしはそれなりに気に入っていた。
 何をするわけでもなくベランダの手すりに上半身を凭れて、ほとんど散ってしまった桜の隙間から向こう岸を眺める。
 しばらくすると色褪せた花弁よりも霞んだ色の、誰かの頭が見えた。

「爆豪」

 だらけた声でその名を呼んでみると、白茶けた頭は上下する。
 もう一度「爆豪」とボリュームを上げて呼んだら、心なしか慳貪な歩調は早まって、ベランダの手前の曲がり角で姿が見えなくなったら間もなく、背後のドアが開いた。
 入ってきた爆豪は、耳からイヤホンを引き抜きながら私を睨んだ。

「近所迷惑だっつの、ボケ!」
「でも、誰も歩いてなかったよ」
「関係ねー。ゼッテェ隣にも聞こえてる」

 彼は部屋に上がるなり首にケースにしまったイヤホンをテーブルに置いて、唸るような息をついて寝転がる。
 この部屋は一人暮らし用に借りている。たいして広くもないリビングのほとんどは、爆豪勝己という男ひとりの質量で瞬く間に埋まってしまった。

「広がらないでよ。足の踏み場なくなっちゃう」
「お前んちが狭えだけだろ」

 天井を見上げて上下する喉仏。その二の腕をちょいちょいと爪先でつついてみても、びくともしない。果たしてどれくらい刺激を加えればこの怪獣みたいな男は起き上がるのか、怖いもの見たさで試したくなる。

「すぐ寝るでしょ。ベッド使ってもいいよ」
「オメーは」
「さっき起きたところ」
「いっつもならまだ二度寝してる時間だろ」
「……今日はもう眠くないから寝ないけど、邪魔しないように静かにしてるよ」

 目つきの悪い男はそれを聞くとのっそりと立ち上がり、「シャワー行く」と低く呟く。

「わかった。タオル」

 広い背中に折り畳んだタオルを適当に投げつければ、爆豪は後ろ手で器用に受け取った。背中に目でもついているのかと思うほど鮮やかな動作だった。ふとした瞬間に腹が立つほど、本当にこの男はなんでもできてしまう。
 私は風呂場から水音がしているうちに、冷蔵庫のなかにあるもので適当な料理を作った。
 お風呂から帰ってきた爆豪はまだ髪の先を湿らせたまま、それを言葉少なく平らげていく。適当とはいえ、自分の作った料理が大きく開いた口の中に次々と放り込まれていくさまを見るのは気持ちがいい。

「ウマかった」
「お粗末様でした。あ、食器置いといていいよ。爆豪が寝てる間に洗うから」
「こんなんすぐ済む」

 流しに立って手際よく食器を洗う爆豪のタンクトップはいつも黒の無地だ。好奇心でたまにその数を数えるが、そのたびに増えている。今となっては私の家に八枚も棲みついているそれらは、私の服と同じ柔軟剤のにおいにすっかり染まっている。

「……爆豪、自分ちどうなってんの? 今」
「知るか。帰ってねえ」
「家賃もったいなくない?」

 返事の代わりみたいに、茶碗が流しにぶつかる音がした。
 おそらくあと二、三度この話を振れば、爆豪の機嫌はみるみる悪くなり、こめかみに血管が浮くのだろう。
 理由はわからないが、爆豪は自分の住んでいる部屋のことを思い出すのが相当いやらしい。
 しばらく前、雄英の同窓会で再会してから、爆豪は私に気まぐれに連絡を寄越すようになった。仕事終わりに私の事務所の近くにいるからとたまに食事に誘ってくるようになり、それになんとなく付き合っているうちに、今度はその帰りに私の家に寄って一緒に映画を観るようになった。
 エンドロールが終わると、爆豪はとっくに終電がない時間でもタクシーで家に帰って行ったが、違ったのはひどく雨の降る夜のことだった。
 画面に没頭するために電気を消した部屋の中。エンドロールが終わるかどうかのタイミングで隣に座っている爆豪に名前を呼ばれて、なに、と爆豪のほうを向いたらキスをされた。
 あ、これはだめだ、と漠然と思ったときにはもう遅く、私の体は爆豪の逞しい腕の中にいたし、何よりその高い体温に溶かされるみたいにして、思考もあいまいになっていた。
 その夜、はじめて彼は私の部屋に泊まった。
 今思えば、ぜんぶ爆豪の策略だったのかもしれない。彼が持ってきたブルーレイも、私がうっかり「それ観たかったやつだ」と漏らしたものばかりだった。
 爆豪が私と会うことで自分の家に帰らなくて済んでいるのであれば、ひどくいいように使われていると自覚するのはたやすいことだ。
 それでも私が爆豪を拒まないのは、ただただ楽だからという理由だった。爆豪と一緒にいるあいだは、私は余計なことを考えなくて済む。
 足りないところを手早く補い合うだけの関係に、カロリーのかかる言い合いだとか、詮索は不必要なものなのだ。

「……お前に言われる筋合いねえわ」

 現に爆豪の広い背中は、私の無責任な言葉を拒絶していた。
 証拠もなにもないけれど、爆豪がここまで家に戻りたがらない理由は、痴情のもつれとか、女絡みではないか――と私は踏んでいる。
 何がどう拗れれば自分の家にすら帰りたくなくなるのかは分からないが、プロヒーローの若手注目株としてしょっちゅう取り上げられている彼のことだ、ちょっとやっかいな女の人のひとりやふたりが周りにいたっておかしくはない。それを根堀り葉堀り聞くつもりはさすがの私にもない。
 そうだね、と大人しやかに頷いておいた。
 それなのに、爆豪の表情は――何が気に入らなかったか――氷面にひびが入るように強張る。
 ごつごつとした手が、すすぎ終わった皿の最後の一枚をシンクに立て掛ければ、その繊細くさい動作とは一転して乱暴に、彼は私に歩み寄る。

「窓、閉めろ」

 それが何を意味するのか、ある程度察しがついた。だって、彼と「こういう雰囲気」になるは初めてではない。

「……怒ってるままなの、いやなんだけど」
「怒ってねーだろどう見ても」

 もたつく私の代わりに、爆豪は窓とカーテンをもぴしゃりと締め切ってしまう。
 夜通し任務にあたっていた爆豪とは違って、ぐっすり眠って目覚めたばかりの私の気分は清々しかった。まだ九時まで届かない時計の針を横目に、朝らしさを失った部屋の暗さを案じる。
 あんまり気分じゃない、とあけすけに言うかわりに、私は俯いた。意外と他人の機微には敏感な爆豪が、それを察せないわけがない。

「……どこ見てんだよ」

 思ったよりも爆豪の不機嫌な声はすぐ近くにあって、鼻先と鼻先がぶつかる。爆豪の吐息がすでに熱を帯びていたせいで、彼に投げ返す言葉は喉元で詰まってしまった。
 ――やっぱり、怒ってる。
 爆豪がするキスは、絶対にこちらがうわてになれないようなキスだ。何回したって変わらない。気が遠くなりそうなぐらい甘ったるく舌を吸われたかと思えば、唇が触れ合うだけのキスに逆戻りして、もどかしくて、分かっていても翻弄されてしまう。
 始まれば最後、爆豪のペースに搦め取られるのはものの一瞬だ。キスをする直前までは残っているすこしの理性も、この関係自体もかんたんになし崩しにしてしまう。
 気が付けば、月額サービスの解約を毎月忘れるみたいに、爆豪は自然とこの部屋に住み着いていた。

「あんま声出すな」
「……わかってるよ。まだ九時だもん」
「わかってんならいい」

 少し上がる口角。どうやら嫌味だったらしい。するりと忍び込んできた手のひらにTシャツが捲られて、晒された肌はひんやりと冷えた。
 桜は散ったとはいえ、朝はまだ寒かった。

「……寒い」
「んなもん、どうせすぐ忘れる」

 もう、と厚い胸板を押し返したけれどびくともしない。最初からなかったかのように爆豪は私の至るところに触れ続ける。
 「どうせすぐ忘れる」、その通りなのは知っていたから悔しかった。
 カーテンの隙間から漏れる朝日が、ベッドのうえに力なく横たわる私のところまで届かなければいい。
 ゆるやかに筋肉が隆起する、恋人でもない男の腕に抱かれて、あられもない声を出して、なにもかも暴かれる。
 私に覆い被さっている男が恋人だったら、この後ろめたさはなかったのだろうか。テーブルに置いていたメイクミラーにちらりと写る彼と自分の顔を、下劣な獣のようだなんて、思わないのだろうか。

「オイ……集中しろっつったろクソが」

 途切れ途切れに、彼がそう言う。爆豪は怒っていた。行為をしている間、私が何を考えているのかなんて、彼もずっとずっと前から知っているからだ。
 白茶けた爆豪の髪は、焦凍くんのそれとは違う。意外と柔らかな爆豪の髪。
 焦凍くんの髪はどうだか、知らない。だって触れたこともない。

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