翼なき者の自由
いつだってじっとしていられないくせに、藍色にぐらつく波の模様だけは、眺めていられる彼だった。
「遠くに行けばな、りっぱな人になれるらしいんだ。君、りっぱな人は好きだろう」
鶴丸さんは昔から、水平線のもっと向こうを見ているような人だった。私の生きる世界と、彼の生きる世界はなんだかちがう。私の円と、彼の円を描いたとき、交わるのはほんのすこしの、ちいさな点の部分だけなのだ。
「そんな寂しそうな顔をするなよ。たくさん土産話を持って、寝坊助な君を起こしに帰って来るさ。……なあ、そうしたら君、俺のところへ嫁にこいよ。まちがっても想い人なんか作ってくれるなよ、拗ねちまうぞ」
船に乗り込む日、鶴丸さんはそう言って笑った。私のおでこをこつんと小突いて見えなくなってしまう背中を見て、心のどこかで諦めていた。
◇
鶴丸さんは、きっと宿にいない。彼があんな窮屈なところにお利口におさまっているわけがないのだ。その確信を持ち続けて、私はこないだぶりに港に向かっていた。
ぜったいに、あの白い頭が、じっと波間を睨んでいるはずだ。
◇
「……君は、ほんとうに俺を驚かすのがうまいよなぁ」
港に着いて息を切らす私に、彼は口をぽかんと開けてそう言った。ひとりで来たのか、大丈夫だったのか、自動車に服を汚されなかったか、なんてたくさんの質問を、心配性の母親のように投げ掛けながら、私のまわりをぐるりと回った。
そして、ぴたりと静止すると、今度は肩をがっしりと掴んで諭すようなまじめな顔になる。表情まで、いそがしい人だ。
「……君、こんなところまで来たら、俺は勘違いしてしまうぞ」
「勘違い?」
「ああ、君が俺を……いや、君から聞くまで俺は何も言わない。これ以上困らせるつもりはないからな!」
ぶんぶんと首を横に振る彼が、おもしろくなってくる。吹き出してしまえばきっと彼は口を尖らすだろうから、必死にこらえた。
「……鶴丸さん、そのつもりで来たの」
「え、なまえ……それはほんとうか」
「ほんと」
「……そのつもりとは、そのつもりなんだな」
「聞き方がおかしいよ」
「俺のお嫁さんになってくれるっていう、そういうつもりなんだな!」
大声でそう言われれば、覚悟を決めたつもりでも、一瞬で羞恥にさわられてしまう。
熱くなる顔を覆わないように、強いて深く頷くと、鶴丸さんはゆっくりと息を吐いた。
「……君は、ほんとうに俺を驚かすのがうまいな」
さっきも聞いたせりふを繰り返しながら、噛み締めるように鶴丸さんは唸った。
そして、こないだ船から降りて来たときと同じように、伸びた彼の腕に閉じ込められる。恥ずかしいってば、と腕をたたくと、
「許せ! こんなに嬉しいことがあるか!」
と叫ばれて、なぜか私が気圧されてしまった。
つぶれそうなほど、おおきな愛情が私を覆っていた。彼が私がどこにいても、迷わず私に戻ってきたそれ。
彼が私のそばを離れる前にした約束を守らなかったことなんて、一度もなかったことを、今になって思い出した。
「ひとつ謝りたくて。……私ずっと、鶴丸さんの約束は冗談だって思っていたの。いつも私のことを考えてくれていたのに、ごめんなさい。いつかまた、とおくへ行ってしまうんだろうって、私とはちがう人なんだって、あなたといることをだんだん諦めて……」
夕暮れが、彼の黄金色のひとみに溶けだしてゆく。
ああ、ああ、と私にやさしく頷くことを、彼は欠かさなかった。ひとつひとつを受け止めて、足りない時間を補うように、私は彼に言葉を送った。
「私の世界なんて、鶴丸さんのに比べたら、ほんとにせまくて、つまらないけど」
「そんなことはないさ。君はこうして、俺を驚かせてくれるだろう。そのたびに、俺の世界とやらは、広がっているんだぞ」
「……それに、鶴丸さんにはお父さんが用意した方がいるんだよね……?」
「はあ、君、分かってないな。両親の決めた縁談にあらがえるのは、心に決めた人へのあつい恋心だぞ。君が俺を好いてくれてるってんなら、なんの問題がある。それが絶対で、究極なんだ」
お芝居のように仰々しく、彼は言ってのけた。そうだろ、と紡がれる堂々たる彼の声色に、何度言いくるめられたことか。
「で、他に言い訳は?」
そんなものが仮にあったとしても、彼は次から次へと片付けてしまうのだろう。
「ないなら、俺の胸に飛び込めばいいさ」
「……私、鶴丸さんと一緒にいたい」
「いいんだな。ぜったいに離さないし、どこへでも君を連れて行くぞ」
気負って張り詰めた「はい」を言うと、鶴丸さんは大口を開けて笑った。そんな真面目に考えるなよ、と目尻に涙まで滲ませて、私をまた抱き寄せる。
髪に絡められた指に、心臓ごと、彼のいうとおりどこまでも、持って行かれてしまいそうだ。
(鶴丸編 完)
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