ひとみの孔雀石

 彼と過ごした時間のほとんどは、私の家の談話室にあった。私が好きになりそうな本を、読み終えるたびに一冊ずつ貸してくれる。ページを捲りながら、ぽつり、ぽつりと言葉をかわす。彼との時間に、余計な言葉はなかった。それを彼は後悔していると言ったけれど、言葉がないなりに、他の方法で、彼は私にたくさんの愛をくれていた。
 だって私は、彼の貸してくれた本を、一冊一冊、鮮明に思い出せる。





 鶯丸さんは、私の家から北に二十分ほど歩いた一軒家の二階を借りて住んでいた。
 十、十一のころに彼の両親が他界するまでは、もっと近くの家に住んでいたけれど、彼は今、あの二階にひとりだ。
 首をもたげると、温和な色の電気が灯っているのが見える。玄関に入ると出て来た大家らしき女性に「鶯丸さんは」と尋ねるとしばらくして、物珍しそうな顔をした鶯丸さんが下りてきた。

「なまえ? どうしたんだ、こんなところまで。珍しいな」

 外に出るときとはちがう着流し姿が、新鮮ですこしまぶしい。
 まあ上がれ、と案内されて、やさしい木目の階段を遠慮がちに上がった。
 鶯丸さんの部屋に上がるのはこれで、たったの二度目だった。一度目は、彼がここに引っ越してすぐに、ひどい風邪をひいたときだ。
 ちょうど彼も思い出していたのか、すこし笑みをふくんだ声で「前に来たときは世話になった」と言った。

「……あのころ、ひとりになった俺を気遣って、お前の父君がしょちゅう家に呼んでくれていたんだ。今となっては、すっかり入り浸るようになってしまったな」
「入り浸るなんて聞こえが悪いよ。鶯丸さんといる時間は、私の宝物だから」
「……宝物か、そうか」

 低く、おだやかに笑う鶯丸さんの背後の文机。その上に、文字が書きっぱなしの紙と、それに筆があるのを見つけた。
 なにを書いていたのと尋ねれば「いろいろだ」といじわるな顔で言うだけ。

「べつにいいよ、教えてもらわなくたって」

と拗ねてみると、彼は「子どもみたいだな」と私を揶揄ったあと、

「いいさ、お前にならいくらでも見せたっていい。書いたものは、ぜんぶそこにある」

そう言って、目線の先で文机の脇の、大きな本棚を示した。

「……すごくたくさんの本が揃ってるけど、ここから鶯丸さんの書いた本を探せってこと?」
「本だけとは限らない」

 腕を組んで、本棚の前に立つ私を見る彼のひとみは、期待とすこしの不安が入り混じったような色をしていた。
 そっと畳を踏みしめて、指先で、水色や緑や茶の、うすい背表紙をそっとなぞった。彼の息づかいまで、聞こえるようだ。

「ねえ、鶯丸さんは今まで私に貸した本がどれだか覚えてる?」
「一冊欠かさず」
「だよね。鶯丸さんって、ほんとうに私の好きな本を見付けてくるのがじょうずだもん」
「それなりに苦労したからな」

 お前は知らないかもしれないが、と付け足されるのを聞いて、私は苦笑した。きっと吟味に吟味を重ねて、私に持ってゆく本を選んでくれていたのだろう。
 彼のこまやかなやさしさに気付かなかったことに申し訳なさを感じながら、私は本棚から一冊の本を引き抜いた。一冊、また一冊。
 きっと彼は、私が引き抜く本たちの共通点に気が付いている。

「鶯丸さんって、食えない人だよね」
「……お前こそ、もったいぶるな」

 今までに彼が私に持ってきてくれた本たち。その背表紙から二枚目と三枚目の間、あるいは、外箱の奥に、彼の書き物はあった。
 本をそっとさかさまにすると、ひらりはらりと、桜の花弁と似たはやさで舞い落ちる乳白色の薄い紙。そこにしたためられた言葉は、どれもおなじものだった。

「お前を愛してる」

 たおやかな文字に私が目を這わせると同時に、鶯丸さんが紡いだ。いくつもの書き文字と、たった一度のその言葉。そこに彼の愛がどれほど詰まっているのか、今になってやっとわかる。
 乳白色の紙を手の中に包んだまま彼を見る。困ったように眉を下げて、彼もまたこちらを見ていた。

「……私が読み終わったらすぐに本を閉じてしまうって知ってて、ずるいよ」
「でも、気が付いたんだろう」
「先週借りた本が、はじめて。気付いたのもついおととい。鶯丸さんのことや、鶯丸さんが貸してくれた本について思い出してたの。
 ……あなたのことだから、今までずっと、なにかの方法で、伝えようとしてくれていたんじゃないかって」

 鶯丸さんは俯いた。長い前髪の下で、そのやわらかな唇がカーブを描くのが見える。

「……お前が気付いたって、気付かなくたって、どちらでもいいと思っていた。お前が本の背表紙を閉じるたびに、ああそうかと思うだけだった」
「……ごめんなさい」
「いや。今の今まで知らなかった。お前にこの感情を知ってもらうのが、こんなに嬉しいんだと」

 乳白色に溶けるような彼の文字は、おだやかな愛情を、いつもいつも綴ってくれていた。ふたたび顔を上げた彼の白い頬に、血潮が透けている。しあわせだと、思った。

「もう知っていると思うが、俺はずっとお前が好きだ。一緒にいてくれないか」
「……ありがとう。約束する」

 彼の手のひらが、私の髪をまるく撫でる。覚えるほど味わったその感触が、ひどくあたたかいもののような気がした。
 尖った鼻先を触れるほどに近付けてきた彼は、私の真っ赤な顔を見て笑いながら遠のいてゆく。口づけなんて、まだまだ先だ。
(鶯丸編 完)
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