嫌ってくれるな

 ナイフとフォークがぶつかる、かすかな音。私の家で鶯丸さんと一緒に食事をすることは多くても、ぺらぺらといろいろを話すわけではなかった。私も、彼も。
 ただ今日は、心で処理できないことが多すぎて、逃げるように口を動かしていた。

「でね、このあいだ私が面白いって言ってた本があるじゃない? その本がね……」

 続きの文字が出て来ずに鶯丸さんのほうを見ていると、彼もフォークを止めてこちらを見やった。

「……ん、終わりか?」
「いえ、鶯丸さんが笑っているから」
「今日は、いつもよりお前がお喋りだからな。おかしくて」

 堪えきれずに漏れだす笑みまで拭うように、ナプキンで口元を上品に拭く彼。
 きっと彼には、私がひどく動揺していることなんて最初から見透かされているのだろう。それなのに、決定的なことはなんにも言わない彼のことを、私はちっとも分かれない。

「なあ、なまえ」
「なあに?」
「お前ともあいつとも、一緒に過ごして長い。だからこそ、分かるんだ。お前が今、何を考えているのかも、あいつが今、どうしているのかも」

 ゆっくりと頷けば、満足そうに彼も頷いた。去り際に、鶴丸さんの見せた笑顔が、強いて作られたものであるということ。そんな簡単なことは、私が彼が、いちばんよく知っていた。もしかすると彼本人よりもずっと。

「……食べ終えたら、行ってやれ。俺はここで待っている」

 伏せたまつげは、それから上を向かなかった。それが、すこしだけせつない。ナイフとフォークを置くと、銀に反射した光の筋が、きらりと彼の頬を這った。





 今朝、鶴丸さんが言っていた、街のはずれにある宿。おおきくりっぱな宿の前に来てみても、彼の姿は見つけられなかった。白い髪や、目を離せばどこかへ行ってしまいそうなあの風体は、そこにいればすぐに見つけられるはずなのに。
 まさか、家に戻ったのだろうか。来た道を戻ろうと振り返ったとき、壁のようなものに衝突した。

「きゃあ、なに……」
「お、おい、急に振り向くなよ!」
「鶴丸さん!」
「ははは、驚かそうと思ったんだが失敗だ。一体どうしたんだ、こんなところまでひとりで」

 旗が風に吹かれてはためくような、そんなようすだった。やっぱり、この人は笑っているほうが何倍もすてきだと思う。

「あの……私、なんと言っていいか分からないんだけど、鶴丸さんには笑っていてほしくて。すこし、まだ……心を整理する時間がほしいんだけど……」
「ああ。それを言いに来てくれたのか。君は、やさしいな」

 そう言って頷く鶴丸さんの表情のほうが、よっぽどやさしかった。
 朝に身に着けていたものと同じ外套を、私の肩に掛けてくれる。いつくしむように、はあ、と白い息を吐き出したあと、彼は眉を下げた。

「……君たちに、祝いの言葉を言えなくてすまん。あんなひどいことばっかりじゃなくて、ほんとうは、もっと別の……。いや、なんでもない。
 もちろん、君がしあわせになってほしいさ。でも、どうしてもすぐに諦めるのは嫌だったんだ」

 ためらいがちに、途切れ途切れに、紡がれる声は繊細で。誰よりも脆くて、じょうずに素直になれない彼の姿を見るのは、何年ぶりだろうか。

「嫌いに、ならないでくれよ」
「……ならないよ。なるわけない」
「ああ。俺は、ずっと君が好きだ。ずっと、君をしあわせにできたらと思って生きてきた。俺は、君のことを振り回してばかりいたけれど、君がなにを選んでも、君がしあわせでいるなら俺はしあわせだ。……勘違いしないでくれよ、君が、好きだからだぞ」

 まっすぐに私を溶かそうとする琥珀色のひとみ。彼が今までにいくらの楽しいものを与えてきてくれたのか、そこに映るようだった。紅潮した頬にはにかむように、彼は白い歯を見せた。彼の、いちばんすてきな表情だと思った。

「それに、あいつのしあわせもな。……はは、俺ときたら、幼なじみのことが好きで好きで、しかたないんだよなあ。困ったもんだ」





 家に帰り着くころ、雪を溶かしそうな橙の夕暮れは消えて、どんよりと暗い青が空を塗りつぶしていた。足早に辿り着いた家の軒先に、彼が立っているのを見つける。いつもしゃんと伸びている背筋が、寒さにすこし竦んでいる。

「……なまえ」
「帰ったよ。……鶯丸さん、もしかして外で待ってたの? 寒いのに、どうして」
「いいんだ。俺が待ちたくて待っただけだ」

 ごめんなさい、と言ってそのまま歩み寄る。玄関の扉に手をかける前に、体の自由が奪われた。腕ごと、縛るようにきつく、彼の腕に包まれた。首元に埋められる鶯丸さんの顔。切羽つまったぬくもりに、身動ぎのしかたも忘れてしまう。

「う、鶯丸さん。もし誰かが通ったら――」
「大丈夫だ。あとすこしだけ」

 なんの根拠もない「だいじょうぶ」で流すのが、鶯丸さんはとんでもなくじょうずなのだ。きょろきょろと周りを見渡しては羞恥に顔を俯ける私に、彼はささやいた。

「……後悔していたんだ」
「後悔、ですか。なにを」
「あいつとは違って俺はお前に、自分の気持ちをなんにも伝えてこなかったからな。今になって、お前を送り出したあと、ひどく怖かったんだ。ばかみたいにな」

 自嘲的な、かわいた声が首筋をなぞった。

「……俺はなんにも気にしないふりをして、あいつのことはどこかで、すこし羨ましかったんだろう。だからこそ、あいつがどれだけ悔しいのか、痛いぐらいに分かっているつもりだ。あいつが俺に言ったことは、言いがかりなんかじゃない。俺は俺でずっと、どうすれば自分がお前をしあわせにできるのか、考えていた」

 やがて、ゆっくりと鶯丸さんは体を離す。名残惜しそうに、せつなさの束がまばたきをした。鶴丸さんと、鶯丸さんは、ぜんぜん似ていない。けれど、そっくりだ。

「……頼むから、嫌いになってくれるな」

 私は思わず、こそばゆい息を漏らす。

「ならないよ。なるわけないよ」
「……お前には、何を取り繕ったって意味がない。俺のしあわせは、ほんとうにお前なんだ。お前のしあわせも、俺であればいいと思う」

 今までたいせつに箱にしまわれていたような彼の言葉を、たしかに私は受け取った。
 馬車の走る音が一本先の道から聞こえる。すこし視線を逸らした彼は、もしかしたら照れているのかもしれない。たまに見るいつもとちがう彼の表情。どれをとっても、私の傍におだやかに息づいていた。





 いつもいつも、たかい塀の上へ、力強く一本の腕で引き上げてくれるのは鶴丸さんで、そして、そこから元いた地上へ帰る時、やわらかに伸ばした両の手で下ろしてくれるのが鶯丸さんだった。
 私に手を貸すことで二人の仕立ての良いお洋服が汚れてしまうのを気にして、「私を置いて遊んできたら」、と何度も言ったのだけれど、彼らは一度たりとも私を欠いて楽しい場所へは行かなかった。何年経っても。
 
「お前のしあわせを、選ぶといい」

 夜、父は私の部屋の前でそう呟いた。ふかふかの布団の上で、目をつむる。
 私のしあわせが、彼らのしあわせなんだと、彼らは言った。
 ――じゃあ、私のしあわせとはなんなのか。
 そう自分自身に聞いてみると、最初に思い出されるのは、あの光景なのだ。たかいたかいところまで、連れていってくれたあの人と、どこに行っても、元の場所にやさしく下ろしてくれたあの人と。
 私のこたえは、そこにある。

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