すべらかな異心

 頭も家柄も一段とよかった鶴丸さんは、少年のころから次第に、あちこちを飛び回るようになった。勉学のためであったり、社交のためであったり。
 「次はどこどこに行くらしいんだ」と知らない場所の名前をそのたびに教えてくれたけれど、鶴丸さんの仰々しい話し方はどこまでが嘘でどこまでが本当かがわからなくて、私はおとぎ話を聞かせてもらっているような心地だった。
 そんな鶴丸さんは出発前には決まって、駄々をこねた。「君も付いてこいよ」と繰り返した。
 昔から、兄妹同然に、と言ってもいいほど、彼は私を可愛がってくれる。

「そうか、彼は元気そうだったんだな」
「うん、お父さん。相変わらず元気そうだった。こっちを見るやいなや走ってきて、抱き着いてきたりなんかして」
「はは。彼も忙しいお人だな。小さいころは、俺もよく叱ったものだ。いたずらばかりしでかしていたから」

 今も変わらないよ、と心の中で付け足すと、自然とさっきの鶴丸さんの言葉が思い起こされる。テーブルの上に並んだスープをすくいながら、私は肩をすくめる。

「さっきも、結婚してくれ、だなんて冗談を言われて揶揄われたんだ。鶴丸さんのようなお人が、私なんかに。いじわるだよね」

 父をちらと見上げると、その大きな手はスプーンをしずかに寝かせた。なにかを切り出そうとする様子を察して、向かいに座っている鶯丸さんも手を止める。
 やがて父の視線が向かった先は、私ではなかった。

「……君を小さいころから見てきたが、本当によくやっているよ」

 なんの脈絡もない父からの誉に、鶯丸さんは目を丸くした。数秒後、やっとその唇にゆるいカーブを生んでみせる。

「君だって、鶴丸くんに劣らない才能の持ち主だ。一人でしっかりと生きている君を、亡くなったご両親もさぞ、誇りに思っていることだろう」
「……そうであればいいと思います。ありがたきお言葉です」
「ねえお父さん。急に昔の話なんかして、どうしたの?」

 きょろきょろと視線を巡らせる私を、鶯丸さんの意味深な瞳が捕らえた。安心させるように、ふっと私に笑みを送ると、再び父へ向き直ってしまう。
 分かっていないのは、私だけらしい。お父様は、戸惑う私に構わず続けた。

「君がいれば、なまえのことも安心なんだ。昔からずっと、君となまえが一緒になればいいと思っていた。ほら、君もなまえも、そういう年になったから……。
 もしもの話だが、君がなまえとの結婚を受け入れてくれるのなら、これからも君をご両親の代わりに支えることもできるし、君にももっと多くの経験をさせてあげられる。もちろん、君がよければの話だが」

 雲行きのあやしいお父様のお話に、口を出す暇もなく、私は口をぱくぱくとさせていた。ねえ、と鶯丸さんに助けを求めても、彼はただゆるくゆるく、微笑みながら頷くだけだった。





「ね、ねえ、鶯丸さん。あり得ないよ、こんなのって……」
「ん?」

 火照りに火照った私の顔は、おそらく林檎のように赤い。
 それなのに鶯丸さんとくれば、ひとつも動揺なんて見せずに、しゃんとした背筋で私を見下ろす。
 父があのお話を始めてからというもの、私の好きなメニューもまともに喉を通らなかった。やっとのことで食事を終えた私は、彼を引っ張って外に出た。
 外の冷気とこまかな雪は、すこしだけ火照った顔を冷やしてくれる。

「う、受けるつもりなの……? け、結婚」
「お前の父君のたっての願いだ。俺からは断るはずもあるまい」
「わ、私とだよ……?」
「ああ」
「相手は私だよ……?」
「それがどうしたんだ」

 小首を傾げる彼に、私は言葉を詰まらせる。なんだって私だけこんなに動揺しているのか、ばからしくもなってくる。
 ずっと幼なじみとして一緒に過ごしてきた彼と急に夫婦にだなんて、想像するだけで、いくら深呼吸しても身が持たない。俯いたら最後、顔が上げられなくなってしまった。

「鶯丸さんはほんとうに優しくて、素敵な人。いつも私と遊んでくれて、感謝してる。でも……急に、結婚だなんて言われたら、びっくりして何も考えられないよ。
 ……でも、私は鶯丸さんにはしあわせになってほしい。お父さんの言う通り、もし私と一緒になるのが鶯丸さんのためになるのなら、私は……」
「ああ、分かっている。無理をするな」
「……無理なんて、してないよ。ほんとうに……」

 あたたかい吐息を寒空に吐き出してから、鶯丸さんは私へ歩み寄った。いつものように、平たい手のひらで私の頭をまるく撫でる。すうと、心まで撫で付けられる心地がした。
 一度、まっすぐに結ばれた彼の唇に、すこしのためらいが見え隠れする。

「なまえの気が進まないなら、父君に正直に言うといい。そのときは、俺も付いていって、ちゃんと話そう。ほんとうに、無理だけはするな。自分に嘘もつくな。俺だって、お前に一番しあわせになってほしいんだ」

 困ったような表情をする彼を見て、私は首を横に振る。困らせたくなんかない。あなたには心の底からしあわせになってほしいと思っているのに、あなたはいつだって自分の話をしない。

「……鶯丸さんは、嫌じゃないの?」
「俺のしあわせはここにある。そう言ったら、困るか」

 頭を撫でる手が、そっと落ちる。彼はしあわせのありかを示すように、私の肩をそっと抱いた。
 どちらが吐いたか分からない白い吐息が、またひとつ、寒空に立ち上ってゆく。冷えかけていた顔が、また火照って、憧れていた彼の長いまつげを見ているほかなくなった。

「う、鶯丸さ……」

 鶯丸さんの尖った鼻先が目前に迫って、私は体をこわばらせる。
 思わずぎゅっと目をつむった瞬間、背後でドサリと何かが落ちる物音がした。同時によわくなる、鶯丸さんの手の力。

「おい! ちょ、ちょっと待て! さすがにそれは見過ごせないぜ!」

 聞き慣れた大声に、目を開ける。雪に紛れてうごめく白い人影は、一直線にこちらへ走ってくると、私から鶯丸さんを引きはがした。

「つ、鶴丸さん……?」
「ああ、俺だ!」
「なんだ、こんな夜に。お前には関係ないだろう」
「関係あるさ! 関係しかない!」

 ぜえぜえと呼吸の荒い鶴丸さんの、鼻の先は真っ赤に色づいていた。おまけに、髪には雪がつもっている。

「鶴丸さん、どうしたの、そんな格好で……」

 まだどきどきと脈打つ心臓を隠しながら尋ねると、鶴丸さんはがっくりと肩を落とし、はあ、とどうしようもないようなため息を吐き出した。

「ちょっとな。家出、してきたんだ」
「えぇっ、家出!」

 鶴丸さんは来た道を戻って、放ったらかされていたおおきな鞄を持ってくる。なるほど、さっきの鈍い物音は、その落ちた音だったらしい。

「まあ、聞いてくれよ。……というのもな、家に帰ったら顔も名前も知らん見合い相手のお嬢さんが家にいてな。父が言っていた『話』というのは、それだったらしい。俺にふさわしいお嬢さんだのうんぬんかんぬん言われたが……俺は、君以外のお嬢さんと一緒になるつもりなんて毛頭ないからなぁ」

 喉のあたりで何かが詰まる。うめき声のようなものを漏らす私を、鶯丸さんは腕組みしたまま一瞥した。目元がどこか、愉快そうに見えてならない。

「なあ、なまえ。俺のお嫁さんになること、本気で考えてはくれないか。うんと言ってくれるまで、俺は家に戻らないつもりだ」

 快活に告げられた彼の願い。外套がひらひらと雪気色に舞う。気を失いそうなほどに上昇してゆく体温。足の底からてっぺんまで、余すところなくあつい。鶯丸さんの笑みだけ、意味深にあらゆる熱を冷やしていた。

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