うつつのアアチ

 いつもいつも、たかい塀の上へ、力強く一本の腕で引き上げてくれるのは鶴丸さんだった。そして、そこから元いた地上へ帰る時、やわらかに伸ばした両の手で下ろしてくれるのが鶯丸さんだった。
 私に手を貸すことで二人の仕立ての良いお洋服が汚れてしまうのを心配して、「私を置いて遊んできたら」、と何度も言ったのだけれど、彼らは一度たりとも私を欠いて楽しい場所へは行かなかった。何年経っても。





 談話室にあるのはだいたい、ページをめくる音と、カップを皿に置く音だけ。鶯丸さんはいつも私のとなりに座っているけれど、彼のほうから言葉をよこしてくることは、ほとんどない。

「鶯丸さん」
「なんだ?」
「おととい借りた本、とっても面白かったよ。おかげで、寝不足だけど」
「それは良かったが、やっぱり良くないな。お前が居眠りをしたら、父君に怒られるのは俺なんだぞ」
「大丈夫。だからってもう本を貸さないなんて言わないでね。しっかりするから」

 私が胸を張ると、鶯丸さんは目を細めて笑う。

「約束できるか」
「うん」

 小指同士を絡ませる代わりに、彼は私の髪を撫でた。
 彼の緑茶と、私のココアはまだまだ温かい。吸い込んだ白い湯気すら、あまやかな気がした。ページを捲るその合間に鶯丸さんが緑茶を飲む、その伏したまつげが長いのが、ずっと羨ましい。

「……そろそろ、『あいつ』が戻る時間か」

 壁掛けの時計をちらりと見やって、彼が言った。

「そうだね。一緒に迎えに行こう」
「ああ。ここで待っているから、父君に声を掛けてくるといいぞ。外は寒いから、暖かくしてこい」
「うん、わかった」

 頷いて本の背表紙をやさしく閉じる鶯丸さんを背に、父の書斎に向かった。
 デスクに向かって筆を走らせる父の背中。仕事中と思われるその姿に、「出かけてくる」と簡潔に報告してすぐに去ろうとした私に、「待て」が下された。
 筆を置いた父が、珍しく玄関まで出て来たことに、私は首を傾げるばかりだったけれど、濃いグレーのコートを着込んで私を待っていた鶯丸さんは、父の存在に気付くと、にこやかに一礼する。
 父の肩越しに見る鶯丸さんは、いつもとは少し違う顔をするのでおもしろい。

「やあ、いつもなまえの遊び相手をしてもらって、すまないね」

 玄関に立った父は私ではなく、鶯丸さんを見据えて言った。

「いえ、そんなことはありません。お世話になっているのは俺のほうです」
「相変わらずいい子だ。……できれば、少し君と話をしたいんだが、今夜、一緒に夕食はどうかな?」
「喜んで。これからなまえさんと出掛けるところなので、それより帰ればいくらでも」
「ああ、今日は『彼』が帰る日だったかな」
「その通りです」
「そうか。それは楽しみだ、よろしく伝えておいてくれ」
「おそらく明日には、本人がやってくると思いますよ」
「たしかに、そんな気がするな」

 長らく会っていない「彼」だけれど、三人ともが彼の同じような姿を思い浮かべたことがおかしくて、淡い笑い声を立てた。

「では、二人の帰りを待っているよ」

 父はそう言うと、気を付けて行ってこい、と私の背中を叩いた。そのまま書斎に戻ってゆくのを見る限り、用事は済んだらしい。
 ブーツに足先を滑り込ませると、鶯丸さんは屈んで、細い紐をていねいに編み、結んでくれる。

「今日は夕食も一緒なんだね」
「ああ。でも、一体どうして、今日の父君は変に気合が入っているな。お前の好きなメニューだといいんだが」

 紐が結びあがった合図に、彼はまた私の髪を撫で付ける。立ち上がると、ブーツのおかげでいつもより少しだけ近い、彼のまつげ。地面を埋めつつある雪に転びそうになるたびに、鶯丸さんは私の腕を支えてくれる。

「ごめんなさい。恥ずかしいよ、すぐ転んじゃうのが」
「なに、雪なんかなくともお前は昔から、塀も登れなかった。見ていて飽きないからそのままでいい」

 少し膨れる私を見て、彼はくすりと笑った。
 やがて、目指していた港が見えてくる。藍色にぐらぐらと揺れる波の上に、おおきな船が二隻、どっかりと座っていた。
 見送りか、出迎えか、たくさんの人がひらひらと手を振るなかで、わたしたちは迷いなく、「彼」を見付ける。
 海風にさらわれてしまいそうな白い風体に、私は呼びかけた。

「鶴丸さん、こっち!」

 白い髪を翻して、鶴丸さんはこっちにやって来た。
 遠慮もなく人並みを掻き分けて駆けてくる彼は、一見その年に不相応で、少年のようで。
 それでも、異国帰りの船舶から降り立った若い彼をうらやむような、賞賛するような、そんな視線がずっと付いて来ていた。

「なまえ! 帰ったぞ、俺だ。君の元気な顔がまた見られて嬉しい」

 鞄も放ったらかして、私に飛びつく鶴丸さんを、鶯丸さんは「人となりまで異国に染まったか」と揶揄った。
 鶴丸さんの顔を見るのは、実に一年ぶりであろうか。見送ったときよりも、いくらか目鼻立ちが大人びてしまったように見える。

「鶴丸さん! こんなところで恥ずかしいよ」
「すまんすまん、つい」

 それでも、あいまいに笑って頭を掻く姿は、幼いころから知っている「彼」そのもので、ほっと安心した。

「……頭がいいと、大変だね。あちこちに行ったり来たりなんだもん」
「ああ、本当にそうだ。できるだけ君を可愛がっていたいんだがなぁ。ま、あちこちを飛び回るのもこれが最後らしいが」
「え、そうなの?」
「いや、知らん。知らんが、ここへ戻る二日前に父からそう知らせがあった。帰ったら詳しく話すとよ」
「そう、いいお話だといいけど」

 私がそう言うと、鶴丸さんは声を低めながら、指先を顎に添えた。

「よい話、か……なぁ、ここに帰ったら、君に聞きたかったんだが」
「なあに?」
「俺との結婚、考えてくれたか?」

 思いがけない鶴丸さんの言葉に、顔が瞬時に茹で上がる。思わず手のひらを頬に当ててみれば、自分の肌と思えないぐらいに熱かった。

「け、結婚! その話、本気だったの……?」
「おいおい、俺がここを発つとき、考えておいてくれって言っておいたろ!」
「そんな突拍子もない話、冗談だとばっかり……鶴丸さんは昔から、そうやって私を揶揄って」
「心外だぞ! ……とも言い切れないか。でも、こればかりは本気なんだがな」

 ため息に混じる鶴丸さんの声はいやにまっすぐで、心臓の音は余計にうるさくなる。

「もう……私なんかが、鶴丸さんみたいな頭も育ちもいい方とは、あり得ないよ」
「そこまで言わなくたっていいだろう、そんなのは関係ない」

 口を尖らせる鶴丸さんを見て、これ以上相手をするのはよしておこう、と私は顔を背けた。
 いつもいつも、私を驚かせることばかり考えていた人が突然そんなことを言っても、信じられるはずがない。
 それに、彼の口先だけの冗談にまんまと正面切って問答してしまった自分が、すこし情けない。

「そこまでにしておけ、行くぞ」

 おかしそうに、鶯丸さんは口元を緩めていた。
 すでに少し先を歩き出す鶯丸さんの手には、地面に放ったらかしにされていた、鶴丸さんのおおきな鞄がぶら下がっている。「片方持ってくれるのか」と嬉しげな鶴丸さんを見て、私も笑う。目前に並ぶふたつの背中に、昔を思い出して、じんわりと心が温まるのだった。

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