誰かが電気を点けるまで | ナノ


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「ああ長船ってさ、俺と同い年らしいよ。あそこに転職してきたのは最近だけど」

 同僚に先日出会った長船さんという人の話をしていたら、向かいのデスクから上司が会話に入って来た。格好いいだろあの人、となぜか自分のことのように得意気な顔をする上司は確かに27だか28だかなので、長船さんも同様なのだろう。優しい物腰と頼もしい体躯から紡がれる雰囲気のせいか、私はもう少し上でもおかしくないと思った。

「うわ、雨降ってきたなぁ」

 上司の一言で向こう三軒両隣の社員は窓の外を見やった。分厚くて濃い灰色が、大切そうに空を隠していた。腕時計を見やり、あと15分以内に退勤することを心に誓う。



 雨が降り出したのが急だったせいか、改札を出ると多くの人が立ち往生していた。幸い、会社に傘を置いていた私は、悠々と交差点を斜め横断する。ふと視界の隅で、鮮やかな看板が存在感を放つ。なんでもないのになぜか鮮烈に、私の中に波風を立たせて去って行ったあの人を思い出して、立ち止まった。お腹も空いたしたまにはいいか、と肌荒れを気にしていたことも忘れて進行方向を変える。
 膝より下には雨が付着して、ストッキングが不快に張り付いていた。それとは裏腹に軽やかな私の足取りは、いつかのファストフード店の、5メートル先ほどでぴたりと止まる。

「い……和泉さん!」

 周りの通行人が振り向くくらいには声を張ってしまったことにすぐに後悔する。でもその代わり、ファストフード店の軒下で腕組みをして棒立ちしている綺麗な黒髪は、ひらりと翻って私を見やってくれた。

「よお、雨に降られちまったよ」

 駆け寄ってみると、彼の真っすぐに長い前髪は微かに濡れていた。手には、この店のテイクアウト用の袋が提げられており、彼は帰宅するところを急に雨に降られた、と見た。
 私は「また会えるなんて」とか「すごい偶然」とか、「返さなきゃいけないものがある」とか、いろんな言いたいことを喉元で必死に押さえつけて、

「雨ですね!」

 と言う。まとまらずに飛び出した日本語に和泉さんは口元をおかしそうにふにゃりと歪めた。

「なんだ? 落ち着けよ」

 笑いの含有量の高い彼の声は私の心をますます躍らせた。同じ場所でたまたま再び会えるという偶然が何よりも嬉しい私に対して、和泉さんのリアクションは当たり前の事象に対するそれで、なんだか空気がちぐはぐになる。

「和泉さんは、今帰るところだったんですね」
「ああ。しばらく中で待ってたんだが、どうも天気が芳しくない、急いで帰ろうと思って手土産の分を注文してたら、もう遅かった」

 和泉さんは恨めしそうに、その手に握られている袋を見つめているけど、私はそんなことより別の部分が気になってしょうがない。

「待ってたって、何をですか?」
「あ? いつか迷惑かけてきた奴が、また来んじゃねえかって。別に確信とかあったわけじゃねえよ、なんとなくだ」
「私?」
「……人に同じことを何度も聞くのは感心しねえな」

 和泉さんは視線を反対方向に逃がしてしまう。面倒臭そうに、でも観念してくれ、と言いたそうにも見えた。あの時、「また来てやるよ」と言っていた和泉さんの言葉は、本物だったのだ。

「あーあ、もう冷めかけちまったな。お前、腹減ってんだろ? 俺たちでこれ食っちまおうぜ」
「え?」

 和泉さんは有無を言わせず私の腕を掴むと、コンクリートの段差を上らせるように引いてくる。店のドアを開けると、一番近い席を見つけてどっかりと座った。

「あの……それ、お土産だったんじゃないんですか?」
「また買えばいいだろ」
「それをアテにして待ってる人がいるんじゃ」
「こないだ、お前が教えてくれて美味かったから持って帰ってやるかと思っただけで、飯を作るやつは他にいる」

 和泉さんは袋から取り出したフライドポテトに早々に手を付けていた。脇には、うっすら濃いブラス色が滲むカップが置かれていて、ああコーラ気に入ったんだな、と思った。

「座らねえのか?」

 いつまで経ってもぼうっと、ファストフードが和泉さんの口の中に吸い込まれるのを立ったまま見ている私に、彼は不審そうに視線を送った。ほら、と向かいの椅子が和泉さんによって引かれて、バンバン、と私が座るべきテーブルの上を手で叩き促している。
私のために用意された空間が新鮮で、嬉しくて、目を輝かせながら恭しく腰掛けた。

「いただきます。それにしても、随分とたくさん持って帰ろうとしてたんですね」
「あぁ、よく食うからな」
「もしかして恋人ですか?」

 もしそうだったらなんだかショックだ、と思ったのに、怖いもの見たさのような衝動から、その質問は口を突いて出てしまった。和泉さんは一度ゴホ、と咳き込む。すかさずコーラで喉を鳴らすと、生理的な涙で少しだけ潤んだ瞳のまま、「は?」と私に言った。ドスの利いた声だ。

「お前、突拍子もねえこと聞くな」
「いや……どなたかと一緒に住んでいるみたいな口ぶりだったので、そうなのかなと」
「いそうに見えるか?」
「和泉さんに、恋人ですか?」

 聞き返すと、和泉さんは黙ったまま頷きで答えた。その意味深な様子に、心臓が勝手に高鳴る。じっと私に視線を向けたまま答えを待つ彼のことを、私も真っすぐに見据えた。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、じっくりと交差する視線から、彼が、私の言葉を待つことに緊張感を覚えていることが伝わってくる。この人の瞳が、悲しいほどに美しくて、深い浅葱色をしていることに、初めて気が付いた。吸い込まれそうなんてレベルじゃない。私は泣きそうになった。

「綺麗な、瞳ですね」

 思わず出てしまった私の言葉に、彼の瞳は急激に揺れ、みるみる内にまん丸になる。

「はぁぁぁぁぁ?」

 がたがたと椅子と地面の間に雑音を立てて和泉さんは吠えた。

「あっ? すみません」
「なんなんだよ……あんたは」

 見当外れのことを言って動揺させてしまったらしい。和泉さんは黒髪から覗く片方の耳を赤く染めていた。余裕があるように見えて、人並みには照れたりする人のようだった。すみません、ともう一度謝ると、全く、と小声で文句を言いながら、彼はコーラを飲み干した。前髪がさらりと揺れたのを見て、乾いてよかった、ということと、あと一つ。重要なことを思い出した。

「あの、和泉さん! 渡したいものが」
「渡すもんだと?」
「これ……あの時はすみませんでした。買い直そうと思ったんですけど、聞けば特殊なものっていうんで……でも、元通りにすることができたので、また、髪を結えると思います」

 バッグの中から、あの時ちぎってしまった組紐を取り出して差し出すと、彼は何も言わずゆっくりと受け取って、長い指の中で吟味し始めた。

「……これ、どうやって直した」
「私は直せなかったんですが、職場にそういうのが得意だっていう人がいて、頼んで直してもらいました」
「へーえ……」

 和泉さんは組紐を伏しかけの目で見つめながら、苦笑した。心地よい感情に基づく表情には見えなく、私は心臓を冷やした。特殊で手に入らないものと聞いていたが、やはり死にもの狂いで同じ物を探し出した方がよかった、と思った。

「……高価なものなんですよね、そんなものを、本当にすみません」
「あ? なんでそんな暗い顔するんだ、気にしてねえよ」
「でも」
「あんただから、これは切れたんだ」

 和泉さんの声は先程より幾分低く、まっすぐに私の鼓膜に響く。こんな喋り方もするんだ、と思う。それよりも、私は彼の言っていることが理解できず、返答に困っていた。見かねてか、和泉さんはにんまりと得意気に笑みを作る。

「気にすんな。結んでくれたら許してやるよ」

 和泉さんから赤い紐を差し出され、反射的に受け取ると、和泉さんはもう私に背を向けていた。

「結い方は任せたぜ」

 目の前には豊かで、艶やかな黒髪が待っていた。人の髪を結ぶなんて得意分野でも何でもない、けれど、彼がこうすることによって、私のしたことを許してやると言った。正しくは、落ち込む私の気を、これによって済ませてくれようという、彼の優しさが見えた。私は彼の髪に指を微かに通し、「上手くできなくても知りませんよ」と前置きすると、組紐を引く。

「……わ、綺麗な髪ですね」
「あ? まあな。さっきから嫌に褒めてくるけどな、何も出ねえぞ」

 大人しく髪を任せてくれている彼の顔は見えないが、きっとさっきみたいに少し照れたような、得意気なような色を宿しているんだろう。近くで和泉さんを見ると、指や、首元や、耳も、この世のものとは思えないほど綺麗な造形をしていた。少し不安になるほどに。

「和泉さんの髪、さらさらしてて綺麗に結うのが難しいですね」
「そうか? 慣れるとそうでもないぞ」
「こないだのは自分で結ってたんですか、器用ですね」
「まあな……さっきの話じゃねえが、結んでくれる女もいねえよ」

 冗談めかしたように語尾が笑っていた。「いそうに見えるか?」という意味深な和泉さんの質問を思い出して、いたずらだったんだと理解する。この、神秘的だけど素直で、射貫くような透き通った瞳をしている人に、愛している女の人がいないこと、それは私をひどく安心させた。どうやら私は相当、和泉さんを気に入ってしまったらしい。

「恋人いないんですね。寂しいですね」
「おい! 怒らせてぇのか?」
「冗談ですよ。私もいません。寂しいですね」
「あんたにもうちょっと可愛げがあれば、考えてやってもいいぜ」
「あ、結い終わったけどぐちゃぐちゃにしようかな」
「悪ぃな、冗談だ!」

 バッグから手鏡を出して和泉さんに見せると、2、3回、角度を変えて結い目を確認して、「いいねぇ、なかなか粋じゃねえか」と褒めてくれた。

「こんな結い方、知らなかった。なぁ、また教えてくれ」
「はい! 勿論ですよ」

 興味津々に結び目を見ている和泉さんは、やっぱりちょっと変わった人だ。窓の外を見ると晴れ間が覗いていて、道行く人も傘を畳んでいた。

「せっかく結ってくれた髪、乱さずに帰れるんだから感謝しねえとな」

 和泉さんはいつだって得意気に笑う。共鳴するように、さっき結び付けた赤い組紐が鮮やかに色彩を放っている。



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