誰かが電気を点けるまで | ナノ


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「いいな〜、寿退社」

 デスクに肘をついて恨めしそうにこちらを睨みつける同僚は、昨日の合コンが散々だったと語った。そんな日に、出鱈目とはいえ「今日で寿退社します」とのたまう私は、さぞ憎たらしく映っていることだろう。

「長船くん、私にもイケメン紹介してよね」
「勿論だよ。でも、結構先になるかな。僕たち式してそのまま、海外に住むので」
「えっ、マジ! 海外って!」

 ざわつく社内も、絡み付くような声援も、これが最後だ。
 長船さんは困るような素振りは一切見せず、終始、結婚を間近に控えた幸せな男を演じ切って見せた。単純に嘘をついていることと、実際に私の恋人は彼ではないこと、それに私に嫌な思いをさせないためだけに嘘に付き合ってくれた長船さんへの罪悪感に表情が薄暗く塗りつぶされていた私は、素直に関心してしまった。
 会社を出ると、コンクリートが夕暮れに染まる。同僚がくれたこれでもかという量の祝いの品を、長船さんが気を利かせて持ってくれた。

「……結局、最後までこの嘘をつきっぱなしでしたね。少し、心が痛いです。長船さんのことも付き合わせて、すみませんでした」
「いいよ、気にしないで。僕は正直、君と恋人同士っていう非現実的な状況を楽しんじゃったからね」
「楽しむ、ですか。さすがの余裕ですね」
「いつだって、余裕なんかなかったよ。君は僕のことを買い被りすぎてる。でも……本当に楽しかったよ。今日で終わっちゃうのが寂しいぐらい。お世話になったね、ありがとう」

 蜂蜜色の瞳に夕暮れが流れ込んで、ゆらゆらと揺れている。夕暮れの橙には、どことなく物寂しい印象を受ける。長船さんも一瞬、もの寂しそうに目を細めたように見えたのだけれど、すぐににんまりと笑った。

「最後だしおでこにキスでもしちゃおうと思ったけど、和泉くんに怒られるからやめておくよ。で、今日の夕飯は何が食べたい? あの家で食卓を囲むのは最後だからね、何でも君のリクエストに応えるよ」

 もう、と揶揄われたことに対する不平を訴えながら、長船さんの後を追い掛けた。



「お前の味覚、そっくり婆さんと一緒なんだよな。若えもんはもっとハイカラなもん食いたがるんじゃねぇのか?」
「うるさいですよ。おばあちゃんの料理で育ったんだから、その味で味覚が形成されるのは当たり前じゃないですか。長船さんと堀川くんの料理は、おばあちゃんの料理に似てるから、大好きです」
「おい、うるせえとか言うなよ。俺だって婆さんの味ぐらい再現できるっての」
「もー兼さん、ちゃんと座ってよ」

 鶴丸さんが白飯をごくりと飲み下すと、呆れた顔をして箸を置く。

「おいおい、和泉守も君も、本丸でいきなり痴話喧嘩だなんて御免だぞ。ちっこいのがびっくりしちまう」
「小さい子たちもいるんですか?」
「ああ、今は俺たち以外は“仕舞って”あるがな。全員は顕現させてられん」
「今起きているのは、皆さんだけなんですね」
「これでもすごいことだと思うがな。眠ってもなお、五振りの形を保ってられるのは普通じゃない。君のばあちゃんは懐も霊気の底も、うんと深いお人だったさ」

 鶯丸さんが何かを思い出したようにふっと目を伏せて笑ったのが分かった。

「君が着いたら、名前を呼んでやってくれ。じきに皆起きるさ」

 鶴丸さんは得意げに教えてくれ、再び箸を煮付けに伸ばす。
 皆が囲む、古びた木の机。年季が入っているが、丈夫そうなつくりの柱。この家だけじゃない。遠くを走る車の排気音も、鳥の鳴き声も、スマホを鳴らす友達からのメールもそうだ。私はここを離れて、彼らと共に戦うのだ。
 ぐるりと世界を見回すと、何故だか一筋だけ涙が出た。

「不安か?」

 右隣に座っていた和泉さんが、撫でるような優しい声で私に問った。

「いいえ……いや、分かりません。見たことがないから。行ったことがないから。でも、おばあちゃんが皆のことを、強くて優しい刀たちだと言ってました。皆がいてくれるなら、少し安心できます」
「そうさな。俺たちはあんたの刀だからな」

 頭に和泉さんの手のひらがぽんと雑に置かれる。俺はあんたの刀だ、と彼がもう一度口にする。これほどまでに頼もしい言葉を私は知らない。
 その夜は、しんとした中庭に静かに立つ大木を、和泉さんと眺めた。地響きが聴こえそうなほどに神聖で、美しいその木が恐らく彼らの世界のものだと、ここに来てすぐになんとなく感じたのを思い出す。

「あんたはただ、ゆっくり眠ればいい。目瞑ってりゃ、俺が連れてってやるから。それから俺らも、いっぺん眠ることにする。あんたがいつもみたいに、起こしてくれりゃいい」

 子守歌のように優しい声だった。彼もこんな、優しい声をするんだ。
 ゆったりと瞼に降りてくる重みに身を任せれば、彼のすべらかな手のひらが髪を撫でてくれる。私が眠るまで。



 目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。天井は高く、窓は開け放たれ、長い廊下が白い日に照らされていた。庭には様々な緑が植わっていて、淡い黄緑色の鳥も見えた。ここにも、鳥はいるんだ。まずその事実を心の中に書き留め、起き上がる。畳の香りが鼻を擽っていくが、周りには誰もいない。私が真ん中で横たわっているだけにしては大層広く、不釣り合いな広間だった。

『あるじ』『あるじさん』『主』

 どこからともなく、声が聞こえてくる。恐らく私を呼んでいる。声に手招かれるように部屋を出て、重そうな木の引き戸に辿り着く。両手でがらりと開ければ、いくつかの鈍色が、ぎらりと光を反射した。

 ――「君が着いたら、名前を呼んでやってくれ。じきに皆起きるさ」――。

 鶴丸さんの言葉を思い出して、私はその部屋に入った。暗く、音もない。けれど確かに、いくつもの見えない視線が私を見ていた。絡み付くようなそれらは決して不快ではなく、どこかわくわくと地を踏みしめて待ち焦がれているような気がする。
 ぎらりと、私の歩調に応えるように光ったその刀を見て、私は唾を飲み込む。拳の中に滲んだ汗を握って、からからの喉で、私は名前を呼んだ。

「鶴丸国永」

 白い着物が目の前いっぱいに翻る。雪のように色の落ちた美しい桜の花弁が、びゅうびゅうと舞い、私の髪を吹き上げた。思わず目を閉じると、聞き覚えのある声がくすりと笑う。つま先から降り立つ姿が、さながら鶴のようで、そのあまりの美しさに言葉を失った。

「この俺を真っ先に呼ぶとはな、びっくりしたぞ。くく、君はやっぱり分かってる」
「鶴丸さん、よかった……」
「さあゆっくりしている暇はないぞ、さっさと皆を起こしてもらわないとな。君の力が保つかどうか」
「はい、頑張ります」

 私は彼らの名を呼んだ。ここには四十振り余りの刀がいる。それでも、祖母が弱ってきた頃には顕現を控えていたそうで、まだここにいない刀もたくさんあるそうだ。鶴丸さんがおかしそうに私の横を付いてきながら教えてくれた。
 「へし切り長谷部」「加州清光」「歌仙兼定」「薬研藤四郎」、順番に名前を呼ぶと待ち焦がれていたように姿を現す刀たち。どれも美しく、強く、優しい眼差しをしていた。一振り一振りと視線を交えるたびに、紛れもなく彼らが祖母と共にあった刀なんだと感じることができた。

「三日月宗近」

 その名を呼ぶと、いっとう眩い光が部屋を満たした。鶴丸さんを初めに呼んだときのように、思わず瞼を臥せってしまう。
 無数の桃色の花弁とともに、泣きたくなるように優しい、月光に似た白い光が指した。恐る恐る目を開くと、彼は柔和な笑みを浮かべている。瞳の中の月が揺らめいていた。

「君が主か」
「三日月、久しぶりだな! 主、これが君の祖母の近侍だった刀だ」
「いかにも。三日月宗近だ。話は先代からうんと聞いているぞ、何十年もかけてな。よろしく頼む」
「よろしく、お願いします」
「はは、初々しいな」

 三日月さんは口元を袂で隠し、上品に笑った。その三日月の瞳の裏に、何百年もの時刻が刻まれているのが分かった。なぜ近侍である彼が、私のところへ来なかったのか分かった。最期のときまで、誰よりも祖母の傍にいた刀が彼だったのだろう。すべてを飲み込む海原のように深い瞳に、何だか泣きそうになる。

「して、主はいつまで彼奴のことを焦らすつもりだ。気の長い刀ではないからな、拗ねても知らんぞ」
「あ、えっ?」
「はっはっは、三日月は本当に、気配に敏い」

 鶴丸さんが大口を開けて笑い、ちらと私を見る。「早く呼んでやれよ」と穏やかに私に告げる。三日月さんには、早くも恋仲が知れてしまったらしい。
 彼の名を呼ぶのを、勿体ぶっていたわけじゃなかった。誰よりも早く会いたかった。けれど、誰よりも早く、主としての姿を見せたかったのだ。ずらりと並んだ祖母の、そして私の愛おしい付喪神たちが、最後の一振りの顕現を心待ちにしていた。
 すうと息を吸い込んで、私は彼の名前を呼んだ。

「和泉守兼定」

 やがて目を眩ますような鋭い光と、濃く色付いた梅のような花弁が、何とも彼らしい現れ方だと思った。視界の端でしか捉えることができなかった浅葱の羽織と、糸のような濡羽色の髪が宙に散らばって、私は彼を引き留めてしまったあの交差点を思い出す。あの時と同じように私を見て、柳眉を寄せる。

「あんた、どういうつもりだ。この俺が最後だなんて。また随分と待たせてくれたな」
「……だって、一番に見てほしくて」
「ああ、しかと見届けた。確かに、俺の主だ」

 和泉さんは私の前に立つと、ぎらりと浅葱の瞳をさんざめかせた。

「くっくっく、和泉守のやつ、すっかり俺の主だなんて抜かしているぞ」
「まあ、『俺たちの主』に頼もしい番犬がいるに越したことはない」

 鶴丸さんと三日月さんが意地悪な大人らしく揶揄う。和泉さんが「誰が犬だ」と怒鳴りつけて、吹っ切れたように私の肩を乱暴に寄せた。
 何を言い出すのかと思えば、

「新しい主も来たことだし、今夜は宴だな!」

 ともう片方の腕を振り上げる。刀たちがわっと騒ぎ出す。数名が駆け寄ってきては、今一度自分の名を告げてくれたり、不便があったら声をかけるように言ってくれた。あたふたと返事をしながら、和泉さんの手の促すほうへただ付いていく。

「ねえ、主さん!」
「あ、乱、藤四郎くん?」
「そ! ボク、ちょっとした勘なんだけど、聞いてもいーい? 主さんと和泉守さんって、付き合ってるんでしょ?」
「えっ? あ、ええと」
「ちっこいのは黙ってな。主は用事があんだ」
「あ〜和泉守さん、はぐらかした! やっぱそうなんだぁ」

 煩わしそうに、けれど短刀たちを邪険には扱えない和泉さんは頭を掻きながら、私をある場所に案内した。行先を察したのか、いつの間にか私と彼だけになっていた。長い廊下の奥の、しんとしたその部屋。

「もしかして、おばあちゃんの部屋?」
「ああ。婆さんがあんたに残したものがうんとあるそうだ。三日月が、あんたをここに案内しろって言付かってたらしい」

 引き戸を開けて中に入ると、全身に染み入るような懐かしさに満ちていた。幼い頃の夕暮れに、昼寝をするような、そんな心地よさだ。
 和泉さんは私の傍に腰を下ろす。一緒に暮らしていた家よりもずっと、そこに馴染んでいるようだった。

「あんたの気の済むまでゆっくり見な。夕餉まで時間はあるからな。一緒にいてやる」
「……ありがとう、和泉さん」

 文机や、棚に置かれた空の花瓶を眺めながら、私は和泉さんに話しかけた。

「ここを私の部屋にしてもいいんですかね?」
「何の問題もないだろ。何なら、俺からもおすすめする。俺の部屋から……近いしな」
「ふふ、いつでも遊びに来てください」
「……二言はねえだろうな」
「勿論です。それにしても……ほっとしました。皆が受け入れてくれそうで。正直、ちょっとだけ不安でした」
「当たり前だ。あんたなんだからよ」

 理由にならない理由を、まるで大昔からの定理であるみたいに、彼は口にする。それが何よりも私にとって重要で、大切なものだった。私は彼の、こういうところにいっとう惹かれている。

「……でも、忘れてもらっちゃ困るぜ。あんたには俺がいるんだからな」

 ちょっと口を尖らせて彼は言う。生きている普通の瞬間にも、傍にありたいと彼は言ってくれた。頭の中で大切に読み返してみればみるほど、至上の愛の告白ではなかったろうか。

「はい、傍にいてくださいね」

 得意気に浅葱の瞳が細められる。ずっと私を捕らえて離さないそれ。この先もずっと雁字搦めにして、私の最後のときまで、その青の深くまで沈めていて。
 私の静かな願いは、肌に馴染む、少しくたびれた畳のにおいと混じり合って、この部屋に滲んでいった。



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