誰かが電気を点けるまで | ナノ


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 どうして思い出せなかったんだろう。
 あれは、私がもっと幼かった頃。祖母の家を訪ねると、決まって祖母は、私の遊び相手になってくれた。あやとりをしたり、折り紙で鶴を折ったり。私の描いた絵に、お話を付けてくれたりした。
 どうして、思い出せなかったんだろう。
 彼女は、しきりに私の名前を呼んでいた。何度も、柔らかに、なまえ、なまえと。私はそれに答えられたのか、はっきり分からないうちに、彼女は私に何かを語り始めた。ずっと前から見ていたはずの、夢。やっと鮮明に、私は彼女の言葉を聞き取ることができた。

「なまえにね、あの子たちを任せたいのよ。私が永い眠りにつくことになったら、あなたにあの子たちを振るってもらいたいの。あの子たちは本当にいい子たち。強くて、優しい刀。だから、任せるなら、同じように優しいあなたがいいわ。もしあの子たちの主人になってくれるなら、その時のために覚えてほしいことがあるの。大丈夫、忘れても、きっとあの子たちが思い出させてくれるから」



「……お前、今、俺に何した」

 引き戻されるように瞬きをすれば、声を震わせながら私の手を引っ掴む、和泉さんの姿があった。彼を見て、私は息を呑む。出会った時と同じ、ゆるるかに流れ落ちる黒髪を、一束掬い取って、指に絡める。

「どうして今まで、思い出せなかったんでしょう。ずっと、知っていたはずなのに」
「なまえ」

 和泉さんが私の名前を呼ぶ。彼のくすみのない双眸。
 祖母は私に、他でもない私に、かけがえのない彼らを託したのだ。本当は、どこかで気付き始めていた。彼らの至るところに、彼女の温かさの名残を感じる。

「皆さんの主さんのことや、皆さんのために力を使う方法。ずっと知っていたはずなのに、いつの間にか忘れていて……今やっと、思い出せた気がします」

 和泉さんの細やかな黒髪がここに戻ったのが、何より強く、確信を植え付けた。
 あの縁日の日、私を守ってくれた彼が失ったであろうそれ。和泉さんを初めて治すことができた日、あの時には治しきれなかったそれ。今は、揺るぎなくここにある。

「なまえさん、主さんのこと、思い出したんだね」

 堀川くんが掠れた声で、歓喜を私に届ける。ゆっくりと頷くと、鶯丸さんが微かな笑みを零した。



「はぁ……」
「……あんた、いい加減にしろよ。人に顔をそんなにじっとり見られて、何度も溜息吐かれる俺の気持ちになってみろってんだ」
「だって」

 和泉さんの髪から、目が離せなかった。うっとりとするほどに美しく、何より、また彼のためになれたという実感が得られた。今までに伝えるべきだった数々の「ありがとう」を、少しでも伝えられた気もするのだ。

「そうだ。あんた、ちょっと待ってな」

 和泉さんは畳にべったり寝かせていた体を起こすと、壁際の桐箪笥の一番上の段を開けた。「確かここに……」なんていう小さな独り言をしながらごそごそと、彼はそこから何かを取り出した。
 くるりと私を振り向いた彼の指先から垂れるものを見て、あっと声を上げる。どこまでも深い彼の黒髪に、その赤は際立ちながらも馴染んでいた。初めて彼を見たときに、必死にそれを手の中に掴んだ私の、瞼に焼き付いている色だった。

「結んでくれるんだろ」

 ん、とぶっきらぼうに和泉さんが組紐を差し出すので、両手を差し出す。音もなく手の上に落ちたそれを、掲げてみた。

「やっぱり綺麗ですね、これ。和泉さんがこんなに大事にしてるのも分かります」
「約束だっただろ、あんたとの」

 正座していた私の前に広い背中を見せて、彼はどっかりと胡坐をかく。ほらよ、と言わんばかりに私に後ろ髪を差し出すこの背中が、過去の光景と重なる。笑ってしまうぐらいに、あの時と同じだった。

「……ふざけた結い方したら承知しねえぞ」

 笑い声を漏らす私を、怪訝そうな声で彼は窘める。べっこうの美しい櫛を髪に這わせながら、たまらない気持ちになった。この人が好きだ。
 無防備で素直な背中に、ふいに体を預けると、やはり僅かに動揺したらしいそこは、ぐわんと盛り上がる。滑り落ちた私の頬は、緩んでいた。

「おい……なんだぁ、真面目にやれよな。そんなに楽しいんならな、今日から毎日やってくれたっていいぜ」

 和泉さんだって私につられて含み笑いする。弾むような声色や、得意気な口元が、あの時から愛しかったのかもしれない。同時に、ぞっとするほどに美しいと感じたのは覚えている。彼が私にとってずっと鮮烈だったのは、彼が実は普通の人間ではなかったせいだったのか、それとも。
 髪の上を迷うように滑る私の指先を、察してか知らずにか、和泉さんは捕まえた。

「あんたを見付けて傍にいるのが、婆さんが俺にくれた仕事だった。これが最後の指令だなんて、とんでもなく縁起の悪いこと言いながらな。婆さんはもう眠っちまったけど、最後に俺たち五振りをこっちに送るだけの余力を残して、眠ったんだ。あん時はよりにもよって、なんて重大な仕事任せてくれんだと思ったが、あの時のあんたの顔を見たら、すぐに分かった。あんただって。たぶん……。俺はいつまでだってこいつの傍にいるんだろう、ってよ」

 答えを彼がぜんぶ言ってくれた。はい、と頷くと体ごとこっちを向いてくれる。

「結えないじゃないですか」
「今だけだ。俺は、あんたがあんたでよかった。あんたが、ここにいてくれてよかった」
「……そんな哲学みたいなこと」
「あんたはなあ、そうやってすぐ俺のこと茶化しやがって! よっぽど怒らせてえみたいだな……」

 ごめんなさいと謝っても時すでに遅しで、和泉さんに話しかけても、しばらくはじっとりとした視線しか返してくれなかった。髪を引っ張ったり、思いつく限りのギャグを放ったり、様々な努力も虚しく、和泉さんは背を向けたままだ。
 それならば、と息を吐いてだんまりを決めていると、やがて彼はこっちを一瞥する。一分だってもたないところが、彼らしい。満面の笑みでそれを待ち構えていたのを和泉さんは悟って、「だー、もう!」と頭を抱えてみせた。

「……和泉さん、久しぶりに食べに行きませんか。お詫びに奢りますから」
「お、アレか。アレならいいぜ」
「ふふ、粧してきますね」
「いいけどよ。あんた、俺の髪のことすっかり忘れてんだろ」
「和泉さんも着替えますよね? 崩れるから着替えた後で」
「へーへー」

 彼の部屋を出て、自室に戻る途中で、ふよふよと少し頼りなさげに歩く鶴丸さんを前方に見付けた。足音にこちらを振り向いた彼は、「お」と明るい声を上げて、私が追い付くのを待つ。

「鶴丸さん。数日ぶりですね、お疲れ様です」
「ああ、疲れた。だがこの生活ももうじき終わりか。聞いたぞ、君。主のことを思い出したんだろう。力の使い方も」

 鶴丸さんは少し目を細める。はい、と頷けば、彼は満足気に白い歯を見せて笑った。ますます目が細くなって、無邪気な笑顔だ。

「秋ごろだったか、君とここで飲んだ酒は美味かった。紅葉が綺麗だったろう」
「そうでしたね。私がここに来てすぐのころ」
「ああ……もっと時間が必要かと思っていたんだが、さすが“君”だな。思うところはあるかもしれんがな、何かが変わるわけでも、何も変わらないわけでもないさ。君は君らしくしていればいい。向こうに行ったら、また酒に付き合ってくれよな。酒の弱い和泉守では役不足だろう、ははは」

 飛び出したその名前に狼狽する私の背中をばしんとひとつ叩いて、鶴丸さんは部屋に向かって歩き出した、かと思えば、くるりと白い着物を翻してこちらを振り向く。

「……いや、違ったな。もう君が俺らの主だ。よろしく、主」

 うやうやしく胸に手のひらをあてて膝を折る鶴丸さんは、どこか切なげに、けれどいっとう柔らかに、その目尻を緩ませた。
 向こうに行ったら、なんて曖昧な物言いを彼はしたけれど、不安はなかった。きっと、私は彼らと一緒なら、どこにいたって温かな気持ちを持っていられる。祖母がそうであったように。



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