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「なまえさん!」
家の少し手前で、瑞々しい声が、私を呼び止める。振り向かずとも誰だか分かった。
「堀川くん、おかえり。ちょうどだね」
「坂のふもとからなまえさんが見えたんで……駆け上がって来ちゃいました。なまえさんも、おかえりなさい。一人なの、珍しいね」
「うーん……長船さんが、今日は終わるの遅いから先に帰ってって」
「ふふ、そっか」
この長ったらしい坂を駆け上がってきた割に、一寸の乱れのない堀川くんの声。彼らの普通と違うところを、こんな他愛もないことで再確認したりする。丸い頭は私の横に並んで、何かを伺うように、視線を寄越してくる。
「……なんか、カタくないですか? なまえさん」
「か、カタい?」
「何かにどきどきしてるみたい。朝の兼さんと一緒だ」
その名前が何の躊躇いもなく彼の口から零れるから、私はどぎまぎして受け取り損ねる。コンクリートにころころと転がって落ちてゆくような彼の言葉を、見ないふりしていた。堀川くんがそれを見過ごすほど、実は生易しくはないことを、知ってはいたのだが。
「――兼さんのことだから、何でもかんでもちぐはぐなんでしょ。それでもきっと、たくさん考えてるから……僕、家に帰ったらずーっと夜までお昼寝する予定だから。ね、なまえさん。よろしく」
堀川くんはそう言って、綺羅星の飛び散るようなとびきりの笑顔を見せた。もうすぐ玄関に着くっていうのに、ぱたぱたと駆け出して先に玄関に吸い込まれて行ってしまう。
彼がやけに高らかに私に宣言した“昼寝”の意味を考えて、悶々とした。
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じっとしていられなかった。和泉さんにどの表情を見せればいいのかも分からなかった。結果として、早々に厨に立って鍋を火にかけていたら、ものの数分で、居場所は覚られる。
「……おい、帰ったんなら、居間にぐらい顔出せよ」
「い、和泉さん……!」
厨の入り口で仁王立ちする和泉さんに「すいません」と謝っているうちに、手に持っていた醤油を、不覚にもどぼどぼと鍋に垂れ流す。音で気が付いて、ぎゃあと悲鳴を上げたときには、鍋の中はほぼほぼの黒に変化していた。
「馬鹿。何やってんだ」
「こんなはずじゃ」
「ったく……俺から逃げるからだろ。罰が当たったんだ、罰が」
「逃げてはない、です」
ただ、どんな顔で会えばいいか分からなかっただけで。会いたいのに、会いたくないだなんて、面倒臭い感情を、上手く処理できなかっただけで。
慌ててやってきた和泉さんが、ノブを回す。炎が消え際に、私と和泉さんとの間に沈黙を縫い付けていく。既視感だ。あの時だって私は、和泉さんのことを考えて、鍋の中をぐつぐつと煮立たせていた。馬鹿な私こそ、煮て食われてしまえばいいのに。
「あんたに何を、どう伝えればいいのか、ずっと考えてた」
掠れた、真面目な声色に、私は肩をびくつかせる。
「考えるなんて、柄じゃねえって笑うかもしれねえが……おかげで、順番も何もかも、ちぐはぐになっちまってよ」
淡々と紡がれる言葉。でもその端々に、躊躇が滲んでいる。
和泉さんはその間に、まな板の上にあった野菜を、包丁でさくり、さくりと切り出してゆく。慣れているようには見えないのに、でもどことなく到達点を分かったような、迷いのない動作だった。
ふいに、彼はそっと包丁を擡げる。きらり、反射した刃の平らは、和泉さんの伏し目がちな浅葱の色を映す。
「……こういう風になりてえんだ。変な喩えだけどよ……笑うなよ。あんたの生きてる普通の時間にも、傍に置いてもらいてえって」
「ほ、包丁ですか……?」
「だーから、笑うなっての!」
「ごめんなさい。続き……聞かせてください」
「……だから、あんたの。傍にいられたらって思ってた。けど、そんだけじゃねえんだ」
はあと息を吐いて、和泉さんは包丁をまな板に寝かせる。
「あんたが俺らにとって誰なのかも分かってるつもりだ。特定の誰かだけじゃなく、全部を大事にして生きてることもな。それでも、いや……そんなあんただから、俺はあんたの特別になりたい。あんたが好きだ」
和泉さんの瞳に息づく熱量が、明瞭に形を持って私に触れる。失われた髪の代わりに、彼の首元を、ずっと抱いていた焦げかけの恋で飾った。和泉さんの瞳に溶かされているうちに、痺れを切らしたような、切羽詰まった声で貫かれる。
「……あんたは」
掴まれた手首が、切実だった。
「……好きですよ、ずっと。知ってるくせに」
やっぱり私の気持ちを知っていたかのように、さんざめく二つの瞳。得意気に弧を描く口元に、何度も何度も、焦がれてきた。
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「どうにかならんのか。あいつら二人がいると、炬燵に入れない」
鶯丸さんは急須と湯飲みを持って、恨めしそうに炬燵から跳び出る二つの頭を見ていた。
「気付けばぐうぐう寝てますよね、なまえさんと兼さんって。けど、もう炬燵も仕舞っちゃいますよ。あったかくなってきたし」
「仕舞う、のか」
「はい、仕舞っちゃいます」
表情には出さないものの、鶯丸さんの落胆の色がはっきりと分かって、少し可笑しかった。とぼとぼと定位置の椅子に腰かけて、鶯丸さんはお茶を淹れなおす。珍しく僕にも差し出されたお茶に驚きつつも、お礼を言った。鶯丸さんは頷いてから、目を細める。
「俺には関係ないが、あいつらが幸福なら、いいことだ。そう思う」
その視線は、さっきと同じ、炬燵の方向に向けられる。
「そうですね。こうなるんじゃないかって、どこかでずっと思っていましたけど」
「土産話ぐらいにはなるか。あいつらは怒るだろうが。まあ、それもどれほど先の話になるか知らんがな。あいつの力に関してはまだ、あれから変わりないのか」
「はい。燭台切さんを治してくれた時に、ちょっと何かを掴めたって言ってましたけど。やってみないと分からないから、何ともって……」
「わああああ!」
劈くような悲鳴に、僕と鶯丸さんはぎょっとして居間を見る。さっきまで快適そうに寝そべっていたなまえさんが、ぜえぜえと肩で呼吸をしながら、宙を見つめていた。
「ど、どうしたんですか、なまえさん。悪い夢でも……」
「なんだぁ、うるせえな……人が気持ち良く寝てたのによ」
のっそりと体を起こす兼さんを、なまえさんは視界に入れて、はっと息を呑む。その表情に特別、恐怖などは宿ってはいないようには見えたけれど。
水でも飲みますか、と声を掛けても、返事はない。何かを頭の中で必死に巡らせているようななまえさんを、皆が凝視していた。
そしておもむろになまえさんは兼さんに詰め寄り、その頭ごと、その腕の中に抱え込む。
「わ……っ、あの、なまえさん……!?」
「はぁ? バッカお前、何すんだ! は、離せ! 人前でこんな!」
僕たちの前であらぬ行動に出るなまえさんが寝ぼけているわけでないのは、その視線の鋭さで分かった。きっ、と僕と鶯丸さんの方を見据えると、告げる。
「夢を、夢を見たんです。出来る気がします。今なら」
凛と紡がれる声が終わると同時に、空気が震え、明滅する無数の粒子が、彼女の手元を取り囲んだ。白い指が、兼さんの髪を梳いていった。潤沢な、糸のようなそれは、魔法をかけられたように、なまえさんの指の中で豊かさを取り戻してゆく。
魂そのものを支配されたように、僕は瞬きを忘れた。