誰かが電気を点けるまで | ナノ


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 和泉さんの細やかな横髪と、指の先端が、私を名残惜しんでくれた。そう見えた。唇が離れた後、何も言わずにもう一度、彼は私を閉じ込めた。くるむような優しさに、喉元のあたりで行き場を失った酸素が死んでゆく。



「よお、今日も寒いな」

 ひたひたと廊下を歩み進める途中で、肩を竦めた赤い着物と鉢合わせた。ずずと鼻を啜って、和泉さんは私を見下ろす。ちょっと慳貪な視線。けれど多分、私も同じ顔をしている。くぐもった和泉さんの低い声が、朝の、ひりひりと冷たい空気を揺らした。

「……なんだよ、返事ぐらいしろよな」
「おはようございます……」
「覇気がねえぞ、覇気が」
「ぐっ……」

 追い越したと思ったのに、豪快な足音はすぐに私に追いつく。視界の隅にちらつく糸のような黒い前髪。無意識に、熱っぽい視線や指先が思い出されて、私は思わず、顔を背ける。

「なんだよ、あんた」

 服の裾を引っ掴まれて、私はぐるりと、強いて踵を返させられる。はあ、と吐き出される吐息はまだ白い。わずかに歪んだ彼の柳眉が、嫌に冷静で。

「避けてくれるなっての」
「そ、それを和泉さんが言いますか!」
「……あれは、その。いろいろ、すまなかったと思ってる」
「別に、もう悲しんでませんから、気にしないでください。それに私のこれは、照れているだけですから」

 自分で言っておいて、この台詞は馬鹿みたいだ、と思った。唇をぐにゃぐにゃと擦り合わせて、言い澱んでいる私に、和泉さんは丸くしていた目をいじわるに細める。

「へえ、なるほどな」

 得意気に間延びする声に弄ばれている気がして、癪だ。居間に近付くに連れて、ほんのり温厚な匂いが鼻腔に染みてくる。朝ごはんはお吸い物だとあからさまに独りごちて、いつもより大股で廊下を進んだ。

「おい、無理すんなよ。足、まだ良くねえだろ」
「大丈夫ですよ。ずっと付きっきりの、過保護な和泉さんのおかげです」
「……人が心配してんのに、あんたってやつはよ」
「冗談ですよ。ありがとうございます」

 はたと立ち止まって、深々と頭を垂れる。ぱっと体を起こせば、私のにんまりとした笑顔に釣られて、和泉さんも笑う。おう、と簡潔な返事に込められた彼の優しさを、私はもう知っている。



「おはよう、なまえちゃん。和泉くん」
「長船さん、おはようございます」

 食卓には久しぶりに全員が揃っていた。鶴丸さんは欠伸混じりの、よく聞き取れない挨拶を私たちへ寄越す。茶碗やお皿を机に運んでいると、制服の堀川くんが、寝癖ひとつない完璧な丸い頭を、ひょっこりと現した。

「おはようございまーす! あれ、あはは。なまえさん、寝癖ついてる」
「えっ、どこ。梳かしてきたんだけど……」
「真後ろだよ。見えにくいでしょ、僕が直しましょうか」
「ごめん、お願い」

 はーい、と明るい返事をしながら堀川くんが後ろに回り込んでくれる。朝に聞くに相応しい、柔和な声と手付きだった。彼の指先がどう働いているのかは見えないが、明らかに梳かす以上の動作が髪に加えられる。やけに手付きが慣れていると思っていたら、

「兼さんの髪が長いときも、よくこうして梳かしてあげてたんです。ね、兼さん。懐かしいなぁ」

 と、堀川くんは言った。筋向いで頬杖をついている和泉さんは、じっとりとした視線を這わせてくる。

「代わりができて、良かったじゃねえか」
「もう、ムスッとして。兼さん、拗ねてるの?」
「はあ? 別に俺には、髪結いなんかもう必要ねえよ」
「そうじゃなくて、こっち。なまえさんの髪、綺麗だよ。いつもなまえさんにお世話になってるんだから、兼さんも少しは恩返ししたら? はい」

 堀川くんの手が後ろから伸びて、和泉さんの前に櫛を差し出す。素っ頓狂な声を出してしまった私を和泉さんは見逃さなかった。

「……なんだよ、俺には触らせたくねえってか。あんたはとことん、俺を見縊ってくれるねぇ」

 好戦的に擡げられる口角。どうして何をするにも、喧嘩腰なんだ。返事をするまでもなく、堀川くんと場所を立ち替わる和泉さん。どうぞ、好きにしてください。私は自らの髪を、和泉さんに委ねた。こんなことなら、もっと念入りに梳かしておくんだった。そんなことなんかも、考えてしまう。

「そういや、あんたにも髪を結ってもらったことがあったな。あんたに結い方教わるって約束、俺はまだ覚えてる」

 頭上から降ってくる撫でるような彼の声が、新鮮だった。

「私も、覚えていますよ」

 彼の髪がいつか元に戻ったら、今度はまた、私がその艶やかな隙間を、梳りたい。零れるような気品を指先で弄んで、咎められたりなんかして。いつの間にか閉じていた瞼をそっと開くと、零れるような笑い声が、堀川くんから発せられる。

「ふふ、良かった。なまえさんと兼さんが、仲直りしてくれて」
「な、仲直り? 私、和泉さんと喧嘩なんかしてないよ」
「えー、本当ですか」
「国広?」
「わ、怖い怖い。兼さんは怖いなぁ。でも僕、ずっと心配してたんだ、二人のこと。兼さん、もうなまえさんの前で意地張るのやめなよね」
「……ち、お前はいつも余計なんだ」

 舌打ちが聞こえるけれど、堀川くんはまどろんだ表情を続けていた。
 「できたぜ」という和泉さんの得意気な声と寸分違わず、私の髪は美しく結い上がっていた。手鏡で角度を付けて、どこからでも見ていられた。間抜けな感嘆詞しか、私は喋れなくなってしまうぐらいに。

「こ、こんな可愛い髪型で会社行ったら……どうしたのって言われますよ……」
「別にいいだろ。なんたって粋だしな」
「粋と仕事は関係ないんですけどねぇ」

 ははは、と新しい笑い声が加わったと思えば、傍に弁当箱が置かれる。長船さんの今日の弁当だ。お礼を言うと、「なまえちゃんの好きなの入れといたよ」と、中身をぱっくり、公開してくれる。午前の仕事へのモチベーションが、むくむくと上がった。

「髪型も、可愛いよ。和泉くんも意外と器用なんだよね」
「……まあな」
「なまえちゃん、似合ってる」
「あ、ありがとうございます……」
「おうおう、褒め殺しか。こいつを褒めたってなんも出ねえぞ」
「ふふ、そうだね」
「な、何笑ってやがんだ」

 朝ごはんを食べ終えて、歯磨きをして、玄関でパンプスの踵をこつんと鳴らす。鏡でもう一度、和泉さんの結ってくれた髪をチェックした。くすぐったいような、でもとんでもなく嬉しいような。心臓の底を爪の先でゆるく引っ掻かれているような、そんな気分だ。
 変わらず出社を共にしている長船さんが、ジャケットを取りに行っているのを待っている間に、玄関に腕組みをした和泉さんが現れた。

「あんた、もう仕事行くのか」
「はい、長船さんの準備が終わったら。今日も頑張ってきますね」
「……ああ、せいぜい、頑張ってきな」
「せいぜいって」

 噴き出す私を和泉さんはじっとりと睨む。何か言いたげな口元なのは分かった。何やら逡巡して、躊躇と戦っているような和泉さんは、とうとう私に背を向けて、そこでやっと口を開くのだった。

「……いつまで仕事、続けんだ。って、こんな言い方もあれなんだけどよ。どうせ近いうち、離れなきゃなんねえだろ」
「……そうですね。すぐに穴を開けるのもなんですから、きりのいいタイミングで辞めるつもりです」
「ふうん、そうか」
「あの、すぐに辞めたほうが皆さんに都合がいいのなら……」
「いや、別に。あんたのタイミングで一向に構わねえよ。けど俺は……いい気はしねえな。あんたが毎朝あいつと一緒に家を出て、一緒に帰ってくんの……見てて苛々すんだ」

 すこしの棘は含むものの、素直な物言いに、私は目を丸くした。返事をしないで、その俯きがちな首元を見ていると、せっかちな彼は痺れを切らして、私を振り向く。

「嫉妬、してんだ。あんたが今日帰ってきたら……言いたいことがある。ちゃんと。待ってるからよ、聞いてくれ」



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