誰かが電気を点けるまで | ナノ


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 恐らく時間にして数秒間、私は指一本動かせず、和泉さんの腕の中にいた。



「はは、どうした。随分とひどい顔だなあ」

 鶴丸さんは大口を開けて私を笑う。不服だが、そりゃあそうだろう。なぜなら昨晩は転寝しかできなかった。ここに来る前、こっそり居間を覗くと和泉さんの姿はなく、代わりにいつもの椅子で本を読む鶯丸さんと、炬燵でテレビを観ている鶴丸さんが居た。和泉さんとはとてもじゃないが顔を合わせられないと思ったので安全地帯に見えたここに入ってみたが、この揶揄われようと言ったら。鶯丸さんも含み笑いをしながら尋ねてくる。

「どうして朝餉に出て来なかったんだ?」
「いや、それは……ちょっと寝坊で」
「俺たちは声を掛けに行こうとしたんだが。あいつが、遅くまで看ていてくれたから寝かしておけと、必死に言うものでな」
「必死にな」

 鶴丸さんによる強調。あいつとは誰なのか、どうしてそんな事を言ったのか私には予測できた。私に口付けなんてしたのは自分なのに、より一層肌と顔に熱を籠もらせていた人物が一人、思い当たる。顔を合わせられないのはお互い様のようだ。

「まあ君、良くやってくれたと思うぞ。君のおかげで、体調はすっかり良さそうだったからなあ」
「え、そうなんですか?」

 試してみるか、という和泉さんの熱っぽい声が脳内で反響する。もしかして、あれは“成功”してしまったのだろうか。だとすれば、あの行為に正当な理由が付く。和泉さんの風邪を治すための、“霊気の供給”。

「ああ。人間の体はつくづく面倒だよな。風邪なんかも、君の力で治せれば苦労はしないんだが」
「えっ?」

 素っ頓狂な声を上げる私に、鶴丸さんは目を丸くする。

「風邪は、私には治せないんですか」
「何を言ってるんだ、君は。俺たちを何だと思ってる」

 この体は君たちと同じだぞ、と鶴丸さんの馬鹿笑いが始まった。呆然と立ち尽くしたままもう一方の刀を見る。彼は、口元だけ、にやりと可笑しそうに笑んでいた。
 休みが明けても、私と和泉さんとの間のぎこちない空気は柔らがなかった。顔を合わせると、あの光景と感覚がフラッシュバックして、まともに顔が見れなかった。対する和泉さんは何か言おうとしていた気がしないでもないが、治せないはずの風邪に「試してみるか」なんて言った真意が分からなくて、悩んで、結局は向き合うことができなかった。



 考え事が尽きない。仕事に打ち込んでいる今は辛うじて冷静でいられた。少し休憩でもしようと携帯を確認すると、打ち合わせで来たからランチをしようという長船さんからのメールが来ていた。返信し終わったところで、何か企んだような顔の上司が接近してきた。

「みょうじって、長船と付き合ってるの? 朝、一緒に出社してるとこ見たんだけど」
「し……え!? 付き合って、ないですけど?」
「隠すなよ、社内恋愛じゃないんだから」
「本当に違いますって。家でお世話になってるだけです」
「え!? 一緒に住んでるの!?」



「はぁ、やってしまいました。すみません。勿論、否定はしたんですけど、長船さんの会社にも変な風に回って、何か言われてしまったら……」
「もう、そう気を落とさないでよ。僕はほら、いつ辞めても構わないんだしさ、君とそういう噂になったって、困ることなんて一つもないから。君は嘘なんて吐いてないんだから、堂々としていればいいんじゃないかな」

 諭すように長船さんは言う。テーブルに広げたのは今朝、長船さんが持たせてくれたお弁当だ。急な打ち合わせで出来た急なランチの予定せいで、向かい合った私たちは同じ弁当を広げている。

「君だって、心が決まれば辞めたっていいんだ。僕がいる限り、美味しい食事には困らせないしね。それとも、僕とそういう風に見られるのは嫌?」
「いや……そんな事はありませんが」

 ありませんが、妬みやっかみが出てきそうですね。というのは喉の奥に引っ込めておいた。満足そうに笑ってから、長船さんはお弁当に箸をつける。今日も今日とて、彩りも良く、味も最高のお弁当だ。

「あー、やっぱり付き合ってるじゃん!」

 突然聞こえた、あまりに不躾で大きな声に、卵焼きを落としそうになる。さっきの上司がよりにもよって部下を数人連れてまで、私たちを指さしている。確か長船さんのことを過去に褒めていたので、面識があるはずだ。長船さんとは同い年と言っていたか。

「ああ、お久しぶりだね。6月の会議以来かな」
「長船、俺、みょうじと同じ部署なんだけど。直属の上司、上司。こいつ、口割らないんだよねぇ。本当のところはどうなの? 朝、一緒に出社してるよな? よく見たら弁当も同じだし、やっぱ同棲してんだ?」

 頭が痛くなるような質問攻めに、口を挟む暇もない。ええ、と彼に連れられた部下たちが歓声を上げる。箸を乱暴に置いてみたが、私の不快感には気付かないようだった。うるさい口は、まだ閉じることはない。

「みょうじ、男の影マジでなかったもんなぁ。このままじゃ行き遅れるぞ、うちの部署のあの人みたいに。お局になる前に、長船に貰ってもらえよ」
「……本当に違うんで、やめて下さいよ」
「同棲までしてて、違うってないだろ。それとも、突っ込んじゃ駄目な、爛れた関係だった?」

 その言葉に、怒りで目が熱くなる。冗談と弁解されても、許しがたい言葉だった。いくらなんでも人前でこんなことを言うなんて、大人気がなさすぎるだろう、と私は拳に力を込める。上司だということも忘れて、熱に任せて、言い返そうと口を開いたとき。

「冗談が過ぎるよ、君。俺とみょうじさん、実は婚約してるんだよね。仕事のことはどうするかまだ相談中だから、黙ってただけ。君が思ってるような関係じゃないから。だからね、そういう事言うの、よしてあげて」

 長船さんの台詞は、緩やかに流れる川のように、カフェテリアの中を流れていった。唖然とする私に目を合わせると、少し困ったように笑いながら「ね」と言う。言葉を発っさないまま、高速で頷くことしかできなかった。



「なんかみょうじさん、最近疲れた顔して帰ってきますよね。お仕事、大変ですか?」

 流し台に堀川くんと並んで洗い物をしていると、至極心配そうな表情で顔を覗かれた。

「ううん、仕事は別に好きだけど。ちょっと色々あって……」
「色々? い、いじめられたりですか?」
「大人なんだしそんなじゃないよ。どっちかと言うと、色んな人に四六時中祝われててしんどいかな……」
「祝われる?」

 堀川くんの真ん丸い目がぱちくりと瞬いた。実は、と先日の出来事と、長船さんのしてくれたフォローを順を追って話した。そのせいで、会社中にめでたいめでたいと祝われ続けていることも。

「こ、婚約!?」
「や、出鱈目なんだから、そんなに驚かなくても。いつ辞めるかも、分からないし……それまでの我慢ってことで」

 未だに大きな目を瞬かせながら、堀川くんは驚きからの溜息を吐いていた。私が食器を洗って、隣の堀川くんが濯いで。流れ作業に没頭しながら、長船さんには迷惑をかけてしまうかな、と考え事をしていたら、ふいに入り口から物音がした。

「あれ、兼さん、居たの?」

 堀川くんの声に動揺した私は、手を滑らせてがちゃんとお椀を落とす。幸い割れなかったそれを、泡塗れの手で拾い上げようとしたら、それよりも早く別の手が伸びてくる。人差し指の指輪、細身だけど無骨な指。救うように軽々とお椀を拾い上げてしまった。

「ほらよ。気を付けな」
「あ、ありがとうございます……」
「兼さん、何か取りに来たの?」
「あ?」

 私と堀川くんの肩が、同時にびくりと震え上がる。和泉さんの目付きとドスの効いた声は、人でも殺しそうだったからだ。

「……茶でも飲もうと思って来たが、やっぱいらねえわ」
「あ、それなら、僕が今から淹れるよ。待ってて」
「いらねえっつってんだろ。そのまま浮かれた話でも続けてな。あー、阿呆らしい、阿呆らしい」

 和泉さんはそのまま、どこかに消えて行く。どすどすと大きい足音が消え入るまで、私と堀川くんはなんとなく黙っていた。「どうしよう」と細い声で堀川くんに言うと、彼はくすくすと笑って洗い物を再開する。

「怒っちゃいましたね。兼さん、怒りっぽいからなぁ」

 どうしてそんなに暢気なんだ、と私は溜息を吐いた。



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