「オイ女ァ、オメーのカバン、うっせーんだよ」

 大した関心もないのに、どうでもいいことばかり覚えていたりする。たとえば、みょうじと爆豪の出会いだとか。

「え……ほんとだ、スマホから音楽鳴りっぱなしだった! 教えてくれてありがとう。私、みょうじなまえっていうんだけど、君はなんて名前――」
「目の前の座席表も見えねえのかよ」
「えーと、ば……爆豪くん。爆豪勝己くん?」
「チッ」
「これからよろしくね、爆豪くん」
「同じクラスなだけだろ。よろしくもクソもねえ」

 愛想よく見えたみょうじの顔だが、爆豪がそっぽを向いた瞬間に苦笑に変わったのを覚えている。端から見たって、何がどう転べばみょうじが爆豪を好きになるのか、皆目見当もつかない出会いだった。
 それなのに、あの瞬間に紛れもなくみょうじと爆豪の物語は始まってしまっていたのだ。俺の出番はかろうじて、ただの見物人、クラスメイト、友人Aでしかない――と、気付くまでには何年もかかったが。

「よろしく。私、みょうじっていいます」
「…………轟焦凍だ」
「轟くん、よろしくね」

 あの日、みょうじが俺に声をかけたのはきっと、「ついで」のようなものだったのだろう。そのときの俺は、あいつの白い手が握手を求めて伸びてきたのは視界の端で捉えたが、わずか一秒にも満たずに目を逸らした。
 ――あの出会いの日からやり直せたら、どんなにいいか。
 そう考えるようになったのはずいぶんと後だ。限度も知らずに増長していく感情に気付いたのも、ずいぶんと後。
 校門の外の淡く色付いた桜の木が、燃えるような色の草臥れた葉に変わったころ、爆豪のそばには気付けばみょうじの姿があった。もしかしたら逆で、みょうじのそばに爆豪がいる、のほうが正しいのかもしれないが。

「あいつら、なんか仲いいな」
「あー、みょうじさんとかっちゃんのこと?」
「ああ。最近よく一緒にいるのを見かける」
「僕も最初は『かっちゃんが女の子とマトモに喋ってる!』ってびっくりしたんだけど、意外と気が合うみたいだね……こないだなんて、芦戸さんたちが噂してた」
「噂?」
「うん。『あの二人、絶対付き合ってるに決まってる!』って……」

 緑谷の言葉にぴんと来るものはなかった。ぼんやりと寮の共用キッチンに並び立ったみょうじと爆豪を眺めてみる。入学式に見たあの光景とは違って、みょうじが何か言葉を発するたび、爆豪はわずかに首を倒して、それに耳を傾けていた。ふいに肩を揺らして笑い声を立てたみょうじにつられてか、爆豪も目を伏せた。

「ウ〜ン……どうだろう、僕、小さい頃からかっちゃんのこと知ってるけど、たしかにあんなふうに女子と接してるところはあんまり見たことないかも。轟くんはどう思う?」
「え?」
「あの二人のこと」
「さあ……わかんねえけど、爆豪もああやって笑うんだな。みょうじだって、なんか楽しそう、だし」

 なにひとつ重要なことは言っていないはずなのに、自分の言葉が喉に詰まる。緑谷は「やっぱりそうだよね!」と、本人たちに聞こえないよう掠れさせた声の中に、隠し切れない高揚を滲ませた。
 ずくり、と胸が痛む。杭を刺されるに等しいその感覚に思わず胸を抑えた。

「……ア? 何コッチ見とんだァクソデク!」
「ごごごごめん! 見てないよ! たまたま目が合っただけ!」

 爆豪の怒声につられてこっちを見たみょうじを目が合った。困ったように眉が下がる無邪気な笑顔に、俺はなにをもって応えればいいのかわからない。



「轟くん、『妖刀五月雨』って知ってる?」

 みょうじは、なぜかいつも俺の背後から現れた。

「知らねえ。そんなの日本史に出て来たか?」
「さすが轟くん、期待を裏切らない返し。でも日本史の用語じゃないよ。最近流行りつつあるバンドなんだって」

 みょうじはそう言って、「相席いいかな」と返事を聞く気のない質問をしてから、俺の向かいに腰かけた。そっと置かれたお盆の上には日替わり定食が並んでいる。
 夕食どきの学食は、入寮していない生徒はほとんど利用しないので、昼飯時に比べると人はまばらだ。俺は手をかけていたれんげを縁に置いて、なんとなく食べるペースをみょうじに合わせた。

「変な名前のバンドだな。そんなのが流行ってんのか」
「まだ流行ってはない、流行りつつある、らしい」
「誰の言葉だ」
「爆豪くんがね、そう言ってた。変な名前だけど、意外と曲はかっこいいんだよ。文化祭のときにバンド隊の練習覗きに行ったら流れてて、誰の趣味かって聞いたら爆豪くんのだっていうから――」

 定食についていた温泉卵を小鉢に割り入れながら、みょうじは弾むように語った。爆豪、というひとつの名前だけが意識を支配して、内容はうまく噛み砕けない。

「お前、爆豪と仲いいよな」

 ずくり、と二度目の痛みが胸を走る。みょうじは丸い瞳をますます丸くすると、ふっとおかしそうに笑った。

「え、私が爆豪くんと? そうかな。確かに男子のなかだとよく話すけど、それだけかな」
「それだけか」
「そう、それだけ」

 それだけ、という響きは思わず繰り返してしまうほどには、甘やかさを秘めていた。みょうじはあいつの名前に動揺することもなく、箸でたっぷりと白飯を運んでいる。それを見ていると、なぜだかにわかに食欲が湧いてきて、もう一度食堂のレーンに戻ると、小鉢を二つ追加した。

「轟くん、いっぱい食べるね」
「なんかお前見てると、もうちょい食いたくなった。今日はかなり動いたしな」
「そっか」

 その必要はないと思うのだが、みょうじは満足気に笑う。明らかに作りすぎた手料理を並べては「食べ盛りなんだから」と俺を見る冬美姉さんの姿すら思い浮かんだ。

「――そういえば、ずっと気になってたんだが」
「なに?」
「みょうじって、なんで俺に話しかけるときはいつも背後からなんだ」

 ふとそう尋ねてみると、みょうじは不意を突かれたようにしばらく固まると、「言われてみれば、たしかにそうかも」と、やっと自覚したかのように苦笑した。

「……好きなんだよね。轟くんがこっちを振り向くとき、すっごく髪がきれいだから。あと、いっつもおんなじ表情でこっちを見てくれるのも、安心する。だから……ごめん。無意識に背後を取ってたかも。気を付けるね。今度からちゃんと前から話しかけるようにする」
「……いいぞ、そんなの。別に嫌なわけじゃなかったから」
「そっか。それならよかったけど」
「にしても、なんだその理由。お前って、変わってるよな」

 そう言うと「普通だよ」と反論され、笑ったつもりはないのに「轟くん、笑ってる」と不思議そうに指摘される。
 みょうじと接していると、自分でもまだ知らない自分の部分が、薄皮一枚ずつ暴かれているような心地がする。たまに胸を刺す痛みも、急に湧いてくる食欲も、勝手に歪む口元も全部ひっくるめて、みょうじに暴かれている。

「そういやあいつら、なんでもないらしいぞ」

 その夜、洗面台で歯ブラシに歯磨き粉を塗りながら、鏡越しに隣の緑谷にも教えてやった。

「なんの話?」
「みょうじと爆豪、なんでもないらしい。みょうじが、言ってた」

緑谷は泡立つ口内を水でがらがらと流してから、まだ潤った声で俺の名前を呼んだ。

「轟くん、なんか嬉しそうだね!」
「え?」
「いや、今……あ、待って轟くん! 出てる、出っ放しだよ歯磨き粉! もったいないよ!」

 あいつのことを好きだと分かったのはいつかと聞かれれば、この瞬間かもしれない。でろり、と親指の先に落ちた歯磨き粉の長さを見てやっと、自分がこれ以上なく乱されているのだと知った。



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