お前はオレの彼女だし

 あの日、寒さのせいで、指先だけじゃなくて思考まで麻痺していたのかもしれない。

「あのさ、オレ、監督生のこと好きなんだけど。お前がいいなら、付き合わない?」

 そう告げたら、ただでさえ赤く染まる頬が、オレを見上げる熱を帯びた瞳が、どうなるのか知りたくて仕方がなかった。つまるところ、好奇心に惨敗した。
 監督生は息を呑んで、ばさりと雪のうえに赤いペンケースを落とす。予想以上のリアクションに面食らってしまったけれど、すぐにしゃがんでそれを拾ってやる。下半分についた雪を払ってハイ、と渡せば、監督生は声になっていない声で、「ありがとう」と言った。

「で、答えは?」

 本当は知っていたけれど、すこしだけ俯いていれば、そうは見えないだろう。カンニングをしているみたいなぬるい罪悪感に背筋をなぞられながら答えを待つ。
 しばらくして甘く掠れた声が、雪に吸われてしまいそうなほどのボリュームで乾いた唇から零れた。

「……私も。私もエースが、好き。私でいいなら、よろしくお願いします……!」

 必死に言葉を手繰り寄せては発している切実さを、ちょっとかわいいと思ったのは事実。
 けれど、オレは監督生にひとつだけ嘘をついていた。オレが監督生に言った「好き」という言葉。それさえ本当になれば、たった今ついた嘘は塗り替えられる。それに、そもそも知られさえしなければ、嘘なんて存在しない。
 「目の前の女の子が、たった今この瞬間からオレの彼女だ」と自分に言い聞かせて、冷たい指先を掬い上げた。





 まだ誰の足跡もついていない、まっさらな部分にスニーカーを踏み込む。白い地面からは、ぎゅう、と首を絞められた生き物のような音がする。すこし脇道に逸れてでもまっさらな部分を踏み付けている理由は単純で、わざわざ誰かが踏んだところを歩くのがなんだか癪だったのだ。
 数日前から積もり始めた雪は、ナイトレイブンカレッジに入学して二度目のホリデーがすぐそこに近付いていることを知らせていた。

「監督生、赤くなってんじゃん」

 グリムをかかえて隣を歩く監督生の、寒さで赤くなった鼻の先。キャンディの包み紙の端を引っ張るみたいに、きゅっと指先で摘む。はっとしてのけぞった監督生はオレを見て、鼻先からまるい頬に向かって、じんわりと赤を広げた。

「もう、やめてよ」
「怒んなって。温めてやろうとしただけじゃん?」
「いや、今のはただのいたずらだったでしょ」
「ふーん? お前がそう思うならそれでもいーけどさ」

 監督生は口先だけでぶつくさと文句を言うけれど、しんしんと積もった雪は、ちょっとしたひとりごとぐらいならまるっと呑み込んでしまう。冬の日曜の午前は、ひどく静かだ。
 鏡舎を通ってハーツラビュル寮に着くと、気まぐれにうねる廊下や、上下する階段を慣れた足取りでやり過ごして、リドル寮長の部屋の扉をノックした。
 開いた扉の向こうには、リドル先輩ではなくトレイ先輩の姿があった。オレたちを見るやいなや、口角を感じよく釣り上げる。

「よう、二人とも。久しぶりだな」
「どうも。久しぶりっすね、トレイ先輩」
「ああ、本当に。お前らの近況もいろいろ聞かせてくれ。まあ上がれよ……って言っても、リドルの部屋だけど」
「……こうも人が集まると、さすがに狭いね。ともかく二人とも、お入りよ」
「っす。お邪魔しまーす」

 リドル寮長の部屋には、一足先に着いていたデュースに、トレイ先輩、ケイト先輩までもが揃っていた。トレイ先輩とケイト先輩のインターンシップ・プログラムがひと段落して、うちの暦よりも一足早くホリデー休暇に入れるというので、久しぶりに寮に寄って後輩をいびってやろう、もとい、可愛がってやろうという心づもりらしい。
 寒さで鈍くなっていた鼻が、ようやく甘いにおいを嗅ぎ分けられるようになった。香ばしいパイのにおいに、ほんのり甘酸っぱいにおいも混じっている。さては、チェリーパイか。
 鼻を鳴らしているオレに目睹したトレイ先輩は、パイにさっくりと包丁の歯を落としながら言った。

「監督生、この寒いのに、わざわざオンボロ寮からここまで来てもらって悪かったな」
「いえ、すぐそこなので」
「エースちゃんに迎えに来てもらったのー? 相変わらず仲良しだよねー!」
「それは……エースと一緒に課題をやっていたので、そのまま一緒に来ただけです」
「ふうん、そうなんだ?」

 スマホで口元を隠したケイト先輩の視線が、意味ありげにオレのほうを向いた。それに気付いていながら、オレはわざと明るい声を上げる。

「うーわ、やっぱ超うまそー、トレイ先輩のチェリーパイ」
「そうか? ならよかった。チェリーパイはエースの大本命だもんな」
「そーっすね。やっぱ甘酸っぱくてうまいし」
「ああ。パイにするならチェリーが甘いだけだといまひとつなんだよな。今日はいい具合に酸味がありそうなチェリーを見かけたから、ちょうどいいと思って。ほら」

 行儀よく皿に鎮座したチェリーパイを囲んで、「いただきます」の声を揃える。
 夢中で頬張るオレに、トレイ先輩は「特別に二切れ食べていいぞ」と端数の1ピースを差し出してくれた。ラッキー。これだから、日ごろから好きなもんは口に出しとくべきなんだよね。
 遠慮なく、とオレが新しいピースにフォークを埋めたと同時に、監督生はそっとフォークを皿に置いた。

「あの、トレイ先輩。私にもチェリーパイの作り方、教えてもらえませんか?」
「チェリーパイか。別にいいけど、次に監督生と会うのはまたしばらく先になりそうだぞ」
「そうですよね。忙しいですよね」
「ん? べつにいいよ。息抜きにもなるし、こっちに顔出せそうなときは連絡する。監督生も、チェリーパイが好きか?」
「……あ、はい。好きです。おいしいし」

 たかがチェリーパイの話を振られているだけなのに俯く監督生を、トレイ先輩は我が子を見つめるような柔らかな眼差しで見つめて。
 ケイト先輩は監督生の肩を叩くと、弾んだ声を上げた。

「んーっ、いいよねー! なんか監督生ちゃん見てると、いろいろやってあげたくなっちゃうよね。尽くしてあげたくなるってゆーか、放っとけないってゆーか」
「な、なんですか、突然」
「コッチの話! ね、エースちゃん?」
「え? オレ?」

 肩に乗っけられたケイト先輩の腕の重みで、フォークがふるりと震える。せっかく一口サイズに切り分けたチェリーパイが、ぽたりと皿の上に逆戻りした。
 かたちの崩れたその欠片をぼうっと眺めながら、思う。ケイト先輩の言うことは、ぜんぜん違う。

「どーかなー。ま、そーかもしんないっすね」

 たとえば――ほしいものを与えてあげたいだとか、役に立つことをしたいだとか、もっと好きになってもらうために自分を変えていくとか――そういうことを「尽くす」って言うのなら、オレは監督生にそうしたいと思ったことはない。
 むしろ――。
 監督生のほうを見やれば、ばっちりと視線が衝突した。内側から滲むように、監督生の頬は赤く染まる。
 最初は、監督生は誰にでもこういう態度なんだと思ってた。普段あけすけに物を言うわりには、意外と健気なやつだからだ。
 けれど、「このブランドは兄貴が持っててちょっと羨ましいけど値段が高い」とか「最近朝五時にぜったい一度目が覚めるんだよね」とか、オレが言ったくだらないことだって覚えてたりして――おまけに、視線を絡めるたびに色付く頬だとか、ひしゃげたようにはにかむ口元だとか――そういうひとつひとつが、いやでもオレに、とある確信を植え付けていって。気が付けばあの、台本をなぞるような告白をしていた。

「じゃあ、そろそろおひらきにしようか。トレイもケイトも、これからご実家に戻るんだろう」

 リドル寮長の声で、満腹をさすっていたみんながのっそりと立ち上がる。

「そだね〜……ハア、ユーウツ……」
「ケイト、なら俺んちに手伝いに来るか?」
「う、それはヤダってば。ねえ、エーデュースちゃんたちの部屋に泊めてよ〜」
「僕はいいですけど、四人部屋だから寝るところないですよ」
「はぁ〜。だよね〜、知ってるぅ……」

 あーだこーだ言いながらもしぶしぶ荷物をまとめたケイト先輩たちを鏡まで見送ってから、オレは監督生をオンボロ寮まで送るために、昼に来た道を戻っていた。

「相変わらずおいしかったね、トレイ先輩のチェリーパイ」
「そーだね。『なかなか時間が取れなくてケーキ作るのは久しぶりなんだ。腕がなまってたらごめんな』って言ってたけど、ぜんぜん現役の味だったよな」
「ふふ、トレイ先輩に似てる。……私もがんばって、エースにおいしいって言ってもらえるようなチェリーパイ作れるようになるね」

 この世の汚い部分を知らない子どものような平和な笑顔で、監督生は言う。

「いーけどオレ、チェリーパイにはうるさいよ?」
「うん……けど、がんばるから。今度食べてね」
「……わかんないけど、そんな気合い入れてがんばることなの?」
「もちろん。エースの喜ぶ顔、見たいし」

 心臓のあたりが小さく、でも鋭く痛む。紙の端で指を切ったあの感覚に似ていた。
 オンボロ寮が見えたところで、グリムは監督生の腕のなかを飛び出した。

「おい子分、歩くのおせーんだゾ! 俺様寒くて凍えそうなんだゾ! はやく中に入りたいんだゾ!」

 そう叫びながら、グリムは小さな足跡をぽつぽつと雪のうえに付けていく。素足で雪を踏むほうがよっぽど寒いでしょ。監督生の腕のなかにいたほうが、マシだと思うけど。
 そんな忠告も聞かずに、ふんわりとしたその丸い背中はオンボロ寮のドアを一足先にくぐってしまう。二人だけになった空間は、やけに静かに思えた。
 つんと鼻の奥を刺すような冬の空気は人肌を恋しくさせる、なんてよく言うけれど、今年になって初めて、それをなんとなく理解できた気がする。

「監督生」

 自分よりもいくらか下にある頭がこちらを向くと同時に、その頬を手のひらで包んだ。指先に柔らかな髪が絡まる。監督生がなにかを察して、その体を強張らせる。まるで魔法で石にされたみたいに、眉ひとつ動かさない様子に、ちょっとだけ口角が持ち上がってしまった。
 もしイヤなら、べつに拒んでくれたっていい。その思いを込めて、なるたけゆっくりと顔を近づけた。やがて、ぎゅっと固く閉じられた瞼をほどくように親指の腹で撫でながら、唇に、自分のそれを押し当てる。
 ほとんど触れるだけのその行為。わずかな温度だけを名残に、白い息を吐きながら顔を離す。真っ赤に染まった耳が、細い髪の隙間からのぞいていた。

「……真っ赤じゃん」
「だって……」

 今度は、監督生の頬をきゅっとつまむけど、昼間とはちがって、抵抗も反論もよこされなかった。

「イヤだった?」
「ううん、全然。……それにちょっと、エースの彼女だっていう実感わいたかな」

 まただ。また心臓のあたりが小さく、でも鋭く痛む。紙の端で指を切ったあの感覚に似ていた。
 その原因はよくよく知っていた。監督生のことは好きだ。監督生と一緒にいると、何をしてもいいし、何もしなくてもいいような気分でいられるから。
 けれど、監督生から送られるのと同じ「好き」を、オレはお前に返せない。募った好奇心に溺れて、オレはお前を「彼女」にして、その先になにがあるのかと問われれば、答えられない。
 そんな自分の無責任さをも、監督生は無実な笑顔で、うやむやにしてしまう。

「はは、今更なに言ってんの。お前はオレの彼女だし」

 ――三週間前から、この女の子がオレの彼女。
 他の誰にでもなく、オレは自分自身に向かってそう言った。
 手を振ってオンボロ寮に背を向けてからも、頭のなかで、ずっとそう繰り返した。
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