きみに三回目の恋をする

 金曜の夜の街は、早くも浮足立っている。
 自分の急いた歩調に気付いたのは、革靴の音のせいだ。
 暑くてとても羽織っていられないジャケットを片手に、震えたスマホをポケットから取り出す。耳に当てると、予想していたとおりの声と台詞が、鼓膜に流れ込んだ。

『エース。仕事切り上げられそうか? 今夜はすでに大盛況だから、気合い入れてこいよって言おうと思って』
「ああ、今ちょうど終わって向かってるトコ。オレの道具出しといて」
『お前、忙しいって言ったそばからよくそういうこと言うよな』
「オレ、衣装に着替えたりとかいろいろ準備必要じゃん。頼むよアニキ。じゃ、よろしく」

 電話を切る間際に「おいエース」と苦笑混じりの声が聞こえた気がしたが、あの声は「オッケー」と同義だと知っている。
 アニキがほとんど道楽で始めたバーには、たまの週末に手品を披露しに行っていた。『魔法を一切使わない手先だけのトリック』は、ほろ酔いの客たちに意外とウケがいい。
 たまにフロイド先輩が暇つぶしにやってきたり、ケイト先輩が飲み仲間を連れてきたりすることもあるけれど、今夜はその重いドアを押し開けた先に、見慣れた姿はないようだった。

「エース、お疲れ」

 アニキがカウンターの奥から声をかけてくれる。

「ウン。繁盛してんね〜。コレ弾んでよ」
「手でお金のマークするな、いやらしい。まあ期待はしてろよ。お前が勝手に飲んでるカクテル分は差し引いておくけどな」
「え〜ケチ〜」

 バックに入って衣装に着替える。オーナーであるアニキが用意したそれは、ちょっとだけハーツラビュルのころ着ていた寮服のような陽気さを孕んでいる。さすがにこの年で同じ陽気さを纏うのはこっ恥ずかしかったので、黒いシャツを自前で用意し、かろうじて落ち着いた雰囲気に仕立てていた。
 オレがフロアに出るやいなや、常連客が指笛を鳴らしてくれる。バカっぽいマイクパフォーマンスで場を掴まなくたってお客さんの視線がオレに向くから、正直言ってめちゃくちゃ楽だ。
 照明の準備が整ったら、決まった口上を述べる。「魔法を一切使わない」という部分を強調するのは、売り文句だからだ。

「じゃあ……オネーサン。オレが魔法を使えないように、パフォーマンスの間、オレのマジカルペン、持っててもらえます?」

 胸ポケットから出したそれを、手前に座る適当な客に渡すのもお決まり。
 照明を受けて赤くきらめく石を、戸惑うように瞬きをする女性に差し出した。吸い込まれるように深い瞳の色。恐る恐るこちらに伸びてきた指先は、マジカルペンよりもオレに伸びているような心地がしたけれど、どうやら気のせいで。
 それを受け取ったやわらかそうな手のひらが、大切そうにそれを握る。
 そんなに緊張しなくたっていいのにと思いながら、場の盛り上げと、その女性の緊張を和らげるために、いつもは言わない一節を足してみる。

「あ〜皆さん、言っとくけどヤラセじゃないからね。こんなカワイイ知り合い、オレにはいません」

 そう言ってパチンと指を鳴らして、女性の前に一輪のバラを登場させる。
 何もなかった空間から表れたバラの花に、女性は目を丸くした。

「どーぞ」
「……え、もらっていいんですか?」
「もちろん。オレが持っててもしょうがないし」

 我ながらいいアドリブだったと思う。
 より高らかに鳴る指笛に、拍手。前口上としてはパーフェクトだ。
 マジカルペンのときとは違って、なかなか差し出されない指先を不思議に感じて視線を移すと、思わず息を呑んでしまう。
 名前も知らない女性はオレを見たまんま、両目から、涙をつうと零していたのだ。





 拍手を浴びながらうやうやしくお辞儀をしてバックに戻ったら、窮屈なジャケットと蝶ネクタイだけを放り投げ、真っ先にとある背中に駆け寄った。
 カウンターに座る彼女は、オレの「ねえ」という声に振り向くけれど、まだその目じりは内側からじゅわりと滲むように赤かった。

「見てくれてありがとね。さっきのさ、泣くほどびっくりした?」
「……ちょっとだけ。もしマジックの邪魔だったら、本当にごめんなさい」
「オレのほうこそ、そのまま続けちゃってスミマセンでした」
「いや! エースは、自然にハンカチまで出してくれて外のお客さんにバレないようにもしてくれて……すごく、助かった。ありがとう」

 まるで昔からの知り合いみたいに自然に名前を紡がれて、数年ぶりの照れくささに包まれる。
 必死に感謝を訴えようとしているのが、丸い瞳のまっすぐさでわかった。きっと素直なひとなんだろうと思うと、もうすこし話していたくなる。
 ――もっとも本当はショーの終わりに回収するマジカルペンをわざと回収していない時点で、オレはこのひとに興味があったんだろうけど。
 彼女のとなりに座る。アニキには睨まれた気がするけれど、オレと彼女の前には、アメリカンチェリー色の液体がたゆたうカクテルグラスが差し出された。

「はい、チェリーブロッサム。その子がさっき頼んだやつ。お姉さん、エースの給料から引いとくから好きなの飲みなよ」
「ハア〜? なんで」

 笑ってカウンターの奥に戻っていくアニキとオレを見て、彼女もくすくすと弾むような声を立てた。
 間近で見ても、その揺れる髪と瞳は、やっぱり見慣れない色をしている。
 それなのに目に馴染む――というか、見ているといつまでも時間を忘れそうな心地がする、不思議なひとだった。

「まー、とりあえずいい? 一緒に乾杯して」
「もちろん」

 グラスをかちりと合わせて、その赤い液体を口に含んだ。
 飲んだことのないカクテルだったけれど、チェリーをベースに柑橘系のフルーツの味もアクセントになっていておいしかった。

「……ていうか、オレの名前、知っててくれたんだ。前にもここ来たことあんの?」

 うるおいを孕んだ声でそう尋ねれば、すこし緊張した様子で彼女は答える。

「この店に来たのは初めてだよ」
「この店じゃなくても、このあたりには?」
「ない……いや、あるかな……」
「どっちよ」
「あるかもしれないけど、ほとんど覚えてなくて」
「なにそれ。ちっちゃい頃とか?」

 オレの問いに「まあ」とか「うーん」とかどっちともつかないスライムみたいな返事ばかりをよこして、彼女はグラスの淵をなぞる。

「じゃあどこでオレのこと知ったわけ?」
「それは……お店の外に貼ってあるポスターで。今日のパフォーマンスのお知らせが出てたから見たの」
「ふうん。なあんだ」
「え?」

 持っているいろんな言葉を、喉元でぜんぶ押し殺しているようにも見えて、目の前のひとへの興味がますます膨らんでしまう。

「はい、おつまみイロイロ」

 何を聞こうかと息を吸った瞬間に、憎たらしいアニキの声が割り込んできて、今度は小皿をテーブルに置いた。
 正方形をさらに四つに分けた仕切り付きの黒い小皿には、律儀に味のちがう四種類の菓子が乗っていた。

「はいはい、どうも」
「お姉さんが甘いのが好きか辛いのが好きかわかんなかったから、両方出しといた」
「ありがとうございます。なんでも好きなので、お気遣いなく。チョコに、スナックに、ナッツに、これは……なんですか」
「あー、ええと……なんだっけ、エース。お前が好きなやつ」
「ラムネでしょ。しかも厳密にはこれはフィジーボンボンってやつ……たしかにオレはコレ好きだけどさあ、ガキが食べるやつだからオレ以外が食ってるとこ見たことねーし。もっとちゃんとしたのにしてよ」

 その白い粒を口に運ぶと、爽やかな甘みが広がる。カレッジのころ、いつの間にかポケットに入っていた菓子だ。
 誰かの土産なのかも、ミステリーショップで適当に買ったものだったかも思い出せなかったが、変わった容器のなかにいくつも入っていたそれは、懐かしいような味がして、すぐに好きになった。
 容器には、外国語に似た言語で「ラムネ」と書いてあった。ネットで検索してもそれらしきものは出て来なくて、同じものはそれっきり食べていないけれど。大人になって似たようなものは見つけたものの、味わいはかなり違う。
 ――どんな味だったっけ。
 そんなカレッジのころの記憶に浸りながら「好きなの食べてよ」と彼女に皿を差し出すと、彼女は再び潤み出した瞳でそれを見つめていた。

「……ラムネ、ここにもあるんですね」

 さっきバラを渡したときも同じことを思ったのだが、彼女は、ひどく嬉しそうに泣く。
 ただ涙脆いひとだと言ってしまえばそれまでなのに、言いたい言葉を押し殺すような表情だとか、冷静なのにどこか落ち着きに欠けている様子だとかが、なぜか心の裏のあたりをくすぐる。

「……お前の地元のなの? これ」
「うん。小さいころ、よく食べてた」

 照れ臭そうに笑って頷く彼女に、とんと胸を押されて、魂を抜かれたような気分になる。
 どこにもなかったはずだった、ラムネなんてお菓子は。
 うっすらと持っていた「この世界のものじゃないんじゃないか」という希望に似た思いが、輪郭を帯びる。

「ねえ」

 たかが16歳ぽっちだったオレが過去の自分自身と交わした約束を思い出して、呼吸が浅くなる。
 「異世界の誰かに会いに行く」なんて約束を、どんなふうにオレが果たしたのか、そもそも果たせたのか果たせなかったのかもわからない。
 ただ、向こうの世界から戻ってきて鏡の前でふっと意識を取り戻したとき、魔法石をなくしてこっぴどく怒られたことだけは覚えている。
 学園長に「あり得ない」と何時間も小言を言われながら、「オレがマジカルペンなんて大事なものをなくすわけなんかないのに」って、ずっと眉間をこわばらせていたことも。

「……そういえば、オレのマジカルペン、持っててもらったままだよね」
「うん。返すね。楽しかったよ」

 彼女は赤い石のついたマジカルペンをオレに差し出す。
 それを受け取らないまま、しばらく逡巡する。「エース?」と訝しむような声に急かされてようやく開いた口は、ほとんど勢い任せだった。

「……もう一本、持ってたりする?」

 「何言ってんの」というのはオレ自身の心の声だったし、「え」という掠れた声は、彼女の意に反してこぼれたものらしかった。
 大切そうに畳んだコートのうえに置かれた一輪の赤いバラ。それを見てたまらず落とした涙。ラムネを愛おしそうに弄ぶ指先。
 会ったばかりの彼女の小さないろいろが、かすかにオレのいろんな部分をくすぐっていた。
 ――気付いて、気付かないで、気付いてほしい、知らないままでいい。自分の周りをぐるぐると駆け回っているようなそれの尻尾を、今掴んでやらなければならない、という焦燥感に駆られて。

「……持ってるよね。オレの」

 硬直する彼女がだんだんと情けない表情になって、バッグのなかから見覚えのあるそれを取り出した。目の前に差し出された二つめの赤い石。

「私が持ってるのは、これだけだけど……」
「……もしかしてさ、オレがお前にこんな無理なこと頼んだの?」
「ちがう! 私が勝手にやったことだよ」
「……なんで」
「……エースにとって知らない人になっても、私はもう一度だけ、エースに会いたかったから」

 喉元でずっと押し殺していたものをようやく吐露するように、彼女は言った。
 掠れた声に、泣きそうになった。やっと本当の名前を呼んでもらえた気がした。
 あの便箋を読んだときと同じような感触が胸にある。鉤爪でやわらかい部分をかき乱されるように心臓のあたりが軋む。
 思わず彼女の手を掴んで、ぐっと引き寄せる。蹴ったイスが、がたんと倒れる音がした。
 いきなりキスを迫る男なんてイカれてる。けれど、口付けた唇にかすかに残るチェリーの優しい酸味を、前から知っていたような気がして。
 やがて唇を離すと、カクテルと同じ色に染まった顔がオレを放心状態で見つめていた。

「あ!? おいエース! 店内でイチャイチャすんな!」

 アニキの声を聞こえないふりして、熱い頬を両手で包んだ。今は、オレ以外のなにも見なくていいし、なにも聞かなくていい。
 言いたいことがシャンパンの気泡のようにいくつも浮かんでは弾けて、頭が真っ白になる。
 エース、と手のひらのなかで呟いた彼女のことを「ナマエ」と呼び返して、なにもかもすっ飛ばして、尋ねた。



「ねえ、明日も会えない? オレ、お前に会いたい」

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