教えてくれたってよかっただろう

「コレ、お前が作ったの?」
「あ……いや、違います。お口に合わなかったでしょうか」

 とりあえず腹が減ったのだ。
 引き寄せられるように入った木目が特徴的な店はどうやらカフェだったらしく、腹に溜まるようなメニューは数えるほどしかなかった。ドライカレー、オムライス。自分の知っているものと変わらないメニューに安心したものの、どれも気分ではなく、しかたなくケーキの写真が並ぶ欄からチェリーパイを注文した。
 やがて運ばれてきたチェリーパイの味が舌に馴染むように懐かしい気がして、半ば咄嗟に、オレのテーブルから背を向けたばかりの見知らぬ少女にそう声を掛けた。
 パステルブルーのワンピースと、そのうえの白いエプロンはどうやらこの店の制服のようだったが、誰よりその制服が一番似合っている少女だった。
 口に合わなかったか、と不安そうに問うものの、その瞳に怯えはない。そのことにもどことなく既視感を覚えて。

「いや、ちがい、マス。おいしい……めちゃくちゃ。オレ、チェリーパイ好きでさ。はは」
「……あ、そう、ですか。それはどうも、ありがとうございます。私はせいぜいナパージュを塗らせてもらうぐらいなので……パティシエに伝えておきますね! きっと喜びます」
「あ、うん……」

 あいまいに微笑んで少女はまた背を向ける。待って、もうすこし。もうすこしこの違和感を確かめさせてほしいと、

「あのさ!」

と無計画に呼び止めれば、髪を翻して彼女は振り向く。

「……えっと、ココって通貨、マドルじゃないよね?」

 妙ちくりんな話でも聞いたときのように、彼女の目が見開かれる。そして、ゆっくりと破顔した。

「あはは! なんですか『マドル』って。まるでべつの……ゲームとか映画の世界の通貨みたい」





 結局、チェリーパイと紅茶の代金を立て替えてくれた彼女のアルバイトが終わるのを、近くの川辺で待つことになった。
 笑いをこらえながら店長にバレないようにこっそりとレジを打つ彼女に、恥を承知で名前と歳を訊ねてきた。
 歳は同じで、そして、便箋に綴られたのと同じ、

『名前? ふふ、ナマエだけど』

と、歌うように弧を描く唇からこぼれたから、はっとして固まってしまった。
 ――女だったんだ。それもごく普通の。これという突き抜けた点のなさそうな、フツーの女の子だったんだ。
 在学中、あまり耳馴染みがないその名前が男女どちらのものなのかを学園長に聞いたことがあるが、はぐらかされたことを覚えている。
 学園長は「それには秘密が絡んでいるので」と口に人差し指をあてて意味深に微笑んでいたものの、ごく普通の女の子だったなら、もったいぶらなくてもよかったんじゃないか、と思ってしまった。

「エースくん。本当に待っててくれたんだ。お金はいいって言ったのに」

 背後から聞こえるやわらかな声に、コンクリートにもたれていた体を離す。

「お疲れ。エースでいいよ、呼び方」
「あ、うん」
「てかビックリしてるけどさすがにさ、一文ナシ無銭飲食かつ逃亡ってヤバいでしょ」
「あはは、そうだね。でもエースはそんなふうには見えなかったよ。だから建て替えてあげたんだけど」
「……そんなふうに見えなかったなんて、初対面なのによく言うよね。いつか騙されそ〜」
「ひどい。でもなんていうか、初めて会った気しないんだよね……誰かに似てるのかな」
「えーと、オレ、口説かれてんの?」
「ち、ちがう! そういう意味じゃなくて!」

 いたたまれないというように頬を赤らめて笑う彼女に、つられて笑ってしまった。胸のあたりが軋んで、噎せ返りそうになる。
 目の前の、なんでもない女の子のくるくると変わる表情や、弾んだり沈んだり忙しい声や、オレを見る丸い瞳のすべてが、なんだか懐かしかった。

「……オレもだよ」
「え?」
「オレも、お前と会うの初めてじゃない気がするんだよね。たぶん。……そうだったらいいって思う」

 言葉に詰まって生まれるわずかな行間を、そばに流れる川の音が埋めてくれた。夕暮れに染まったそれを見るのは、人生で二回目だ。一回目はプレスクールのころ家族旅行で行った国。二回目が今。
 自分のいた世界にはあまりなかったから新鮮だったのももちろんあるけれど、そのせせらぎは、ずっと聴いていたくなるような耳障りのいい音だと思った。

「あー、私、口説かれてる?」
「いや……ウン……まあ、今からバラ出すから見ててよ」
「バラ?」

 一年生のころよりだいぶ上達したマジックのひとつ。
 しゃがんで手頃な小石をひとつ拾うと、彼女に見せる。三つ数えてぱちんと指を鳴らすと同時に同じ手から一輪の赤いバラを出すと、流星群の舞う夜空のように、彼女の瞳が輝いた。

「す、すごい! 上手! 本物の魔法って言われたって信じちゃいそうなぐらいビックリしちゃった」
「魔法なわけない……かもね。ハイ、あげるよ。オレが持っててもしょうがないし」
「ホントにくれるの? 嬉しい! でもバラの花なんて持って帰ったら、お母さんに勘違いされていろいろ聞かれちゃうかも」

 そう言ってバラを眺めながら照れ笑う彼女が幸福であることは、一瞬で悟った。
 彼女も今日のオレと同じようになにかのはずみで鏡を通ってあっちの世界に来ていたのだとしたら。オレとはちがって、自分の意思で元の世界へ行ったり帰ったりできなかったのだとしたら。家族にも友達にも会うことも叶わずに、よほど心細かっただろう。
 彼女がオレたちの世界で幸せだったかどうかは分からないが、少なくとも元の世界に幸せがあったからこそ、帰ることを選んだし、オレもこの子のことを引き留めなかったのかもしれない。

「……エース?」
「――あ、ゴメン。ぼーっとしてた。オレの地元あんま川ないから、珍しくてさ」
「そうなんだ。エースは旅行で来てるの? ここの国の人じゃないよね? 目の色も見たことない綺麗な色だし。詳しくないけど……イタリア、とか?」
「あーうん、そんなとこ。当たり。……でもそんな覗き込むなよ」
「やっぱり! 羨ましいな、綺麗で」
「べつに珍しくないし、お前だってキレーじゃん」

 これじゃあ本当に口説いているみたいだと、自分で歪な苦笑をしてしまう。彼女もへらりと照れを隠すように表情を崩す。それがひどく可愛らしいと思った。

「……そしたらさ、エースはいつ帰っちゃうの?」

 すこし躊躇い交じりに彼女が訊ねてくる。

「……ちょうど二日後」
「二日。そっかー……短いね。せっかく友達になれたからもうちょっと会って話したかったけど……旅人っぽくて格好いいよ」
「そうでしょ。…………ねえ、明日と明後日は? お前なにしてる?」
「ええと、明日は午前中バイトだけど、午後と明後日はお休み」
「……じゃあ、会えない? オレ、お前に会いたい」

 気付けば細い手首を掴んでいた。パステルブルーのワンピースを脱ぎ去って暗い色の服に着替えたその肌は、さっきよりもよけいに白く見える。夕焼けの橙が染み込んでしまいそうなほどだった。
 見開かれた彼女の瞳が、逸らすことなくオレを見つめる。

「……私も、エースに会いたい」

 掠れた声に、泣きそうになった。やっと本当の名前を呼んでもらえた気がした。
 あの便箋を読んだときと同じような感触が胸にある。鉤爪でやわらかい部分をかき乱されるように心臓のあたりが軋む。
 どちらからともなく、ぶら下がる指同士を絡めた。
 そして、そっと口付けをした。ふわりと甘酸っぱさが漂った気がする。きっとさっき食べたチェリーパイのせいだ。

「……オレ、お前に会いに来たの」

 自分のことを優しいというのなら、学園長はオレに教えてくれたってよかったはずだ。
 過去のオレもオレだけど。こんな大事なことは、手紙に書いておいてくれればよかったのに。
 「ただ会いたい人がいる」という、かつてのオレが走り書いた手紙からは、その裏にこんなに深くて苦しい感情があるなんて想像もつかなかった。
 きっとオレは、この子と恋をしていた。友愛ではなく、心が底から燻るような恋を。
 目の前にある白い頬を撫でながらそのことに気付いたって、もう遅かった。一度火を点けてしまった紙のように、心臓の端が燃え始めてしまった。

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