赤いやくそく

 書く文字が汚いと言われたことはない。特別美しいというわけでもないが。
 それでも、これほどまでに必死に文字を書き殴ったのは初めてのことだ。脳内に浮かぶ考えをすべて、それも限られた時間で書き留めようとしたとき、人は息さえ切らすのだ。初めて知り得た事実だった。
 書き損じた文字を消して書き直す余裕はなくて、上からより強い斜線で打ち消して、続きの文字を書いた。
 寮章の施された便箋に、ぱたぱたと水滴が落ちていく。慌てて親指でこすれば、黒いインクがすこし滲んであいまいになる。
 ――大丈夫、読める、読める。どうせ読むのはオレなんだし。
 ああ、と声が漏れた。今頭のなかにある記憶がいつ消えるかわからないことが怖くて。今便箋に綴っているあいつの名前を何度も読み上げて、確かめた。

「ナマエ、ナマエ」

 ――大丈夫、覚えてる。まだ、覚えてる。監督生の名前。
 魔法も使えなければ大した取り柄もないくせにここにやってきては、「異世界から来たんだ」なんて突拍子もないことを言い出したあいつの名前。
 出会ってばかりのころあいつのことは、嫌いじゃなかったけど、興味はなかった。それなのにいわゆる腐れ縁があった。
 かわいげないのない性格も、魔法じゃオレに勝てないのにすぐに立て付いてくるバカさも、変に真面目なところも。喧嘩ばかりだったのに、監督生のことを知れば知るほど、自分の笑う回数が増えたことに気付いたのはいつだったか。
 エース・トラッポラ、と人生で何度も綴ってきた文字を書く。オレなら、これで分かるはずだ。
 大きく息を吸っては吐いて、やがてマジカルペンを転がすように机に放った。便箋の端が折れ曲がることも気にしないで赤い封筒におさめると、それを握りしめたまま部屋を出た。





 学園長から赤い封筒を渡されたのは、それはそれは突然で。
 てっきり窓ガラスを割っただの、魔法薬の容器を割っただので請求書でも突き付けられるのかと思ったが、ここ最近はなんにもしでかしてはいない。そう反論すれば、咎めるつもりではない、と学園長はカラスの面をふるふると横に振った。
 しんとした学園長室。宙に浮く分厚い本のページが、はらはらとひとりでに捲れていた。

「中身は私も知りません。ただ、絶対にあなたに渡してくれと頼まれたので」
「はあ? 誰に」
「あなた自身にですよ」
「……オレ?」

 思わず自分自身を指差す。

「ええ……約束は果たしましたからね、エース・トラッポラくん。――ここからは、信じる信じないも含めて、あなた次第です」

 学園長の言葉は、いつにも増して空気中を浮遊するみたいにあいまいだ。
 わけもわからないまま、はあ、ととりあえず返事をする。
 皺のついた赤い封筒を持ち帰って、部屋のベッドに横たわったまま開けた。

「……なんだ、コレ」

 シワのよった便箋には、ダイイングメッセージかと思うような気迫と切実さがそこに滲んでいた。
 ただその筆跡にはひどい既視感があった。なりそこないの文字を消す粗雑な二重線すらも、自身の癖であったことを思い出す。「ちゃんと消して書き直せ」とアニキに叱られて以来、やめてはいたものの。
 オレの筆跡を真似た嫌がらせかと思いきや、その内容は不快になるようなものでなければ、皆目心当たりのないものばかりだった。
 「いつになにをしろ」、「学園長にこう言え」、「話は通してある」、という半ば指図のような文面の最後に、もはや悲愴とも見える文字で、こう書き付けてあった。

「明日オレのなかで『なかったこと』になっても、それでも会いたい人がいる もう知らないやつだろうけど、オレにとって大事だった 協力して オレからオレへの一生のお願いだから ――エース・トラッポラ」

 手のなかの紙切れが、にわかにずっしりと重みを増していくような心地がする。息を呑んでゆったりとベッドから体を起こした。
 窓の外はくすみのない青空だ。昨日だってそうだった。なにも起きてはいないし、不便なことなんてひとつもない。
 デュースは相変わらず授業中に唸り声を上げていてうるさかったし、トレイン先生の見習いネコのグリムは大きく腹を鳴らしたから、みんなで笑った。
 そんないわゆる「平和」な今日のなかから、消え去ったなにかがあるなんて想像もつかない。
 それでも、なぜかその文字から目が離せなかった。
 一晩中その便箋の文字を繰り返し読み続けてみたら、朝方、わけもわからず涙をこぼしてしまっていた。





 便箋に綴られた名前の人物が誰なのか、三年経ってもオレは知らない。

「いやあ、我が生徒ながら感心しますよ。非常〜に誇らしいです、トラッポラくん」
「まさか本当にこうなるって思ってなかったとか?」
「とんでもありません。私のほうこそ『まさか』ですよ。だってあなたはご自分で、私にこの約束を取り付けたんですからねえ。……トラッポラくん、あなたなら私に約束を守らせてくれると思っていましたよ。そのマントも、君が身に着けるまでは長らくローズハートくんのものでしたが……君にもようく似合っています」

 学園長が仮面の奥で、どこか優しげに目を細めたのが分かった。
 オレがオレによこした手紙のなかには、こことは別の世界に行く方法が書かれていた。
 その方法は――主に金銭面で――たかがカレッジに通う一生徒のオレにとっては非現実的なもので、月に手を伸ばすようにも見える願いだった。それを手が届く範囲にまで下ろしてくれたのは、他の誰でもないクロウリー学園長だ。
 寮長になって、首席で卒業できる成績を取ることを前提に、学園長の命じる学外活動(という名の雑用も多々あったが)をもこなした三年間は、ろくにのんびりと過ごせなかった。

「トラッポラくん。これは純粋な質問なんですが、どうしてここまで成し遂げられたんです。あなたにも周囲の誰にも、その赤い封筒に書かれた記憶は残っていないのに。ひょっとしたら、性質の悪いイタズラかも分からない……アア恐ろしい恐ろしい……と、思いませんでしたか?」
「学園長がソレ言いますゥ?」
「ああ、けっして嫌味ではありませんよ」
「ハア、別にいいっすけど……最初は、オレがオレにこんなめんどくせーコトしろって言うのが信じらんなくて。だってやるのはオレでしょ? 面倒なことやりたくないタチだって誰より自分が知ってるし。……だから、相当大切で、ひょっとしたら命のひとつやふたつ掛けてたぐらいのことなのかもなーって思った、ってゆーか」
「トラッポラくん……意外とアツい男なんですねぇ」
「ダーッ! 聞いといて茶化さないでくださいよ!」

 まったく反省の滲まない「これはこれは申し訳ありません」を紡ぎながら、学園長は恭しく杖で地面をノックする。
 ワインレッドのカーテンの後ろから現われた鏡の奥は、荒れた嵐の海のように渦巻いていた。

「――さあ、トラッポラくん。ずっとお伝えしていた通り、あなたが向こうにいられるのは48時間だけです。48時間の記憶は、こちらに持ってくることはできません。いいですか、『気持ちの整理』は、向こうでつけてきてください」
「……ハイハイ」
「きっとあの子の近くにはお送りできるはずですが、そこからは自力で探して頂かないといけません」
「知らないやつを探すもなにもないんだけど」
「その割には自信満々といった表情に見えますが」
「そう見えるならよかったでーす」

 皮肉を言いながら学園長を追い越して鏡の前に立つけれど、正直なところ不安でいっぱいだった。

『気持ちの整理は、向こうでつけてきてください』

 今しがたの学園長の言葉を反芻する。
 つまり、もう未練を残すなということだ。もしまた会いたいなんて気を起こしたら、きりがなくなってしまう。
 ていうかそもそも、オレにそいつを見つけられるか。もし、そいつだとわからなかったら。向こうにとってもオレは知らないやつなのだから、もし相手にされずに終わったら。
 そうすれば過去のオレ自身と、三年間をこれに掛けてきたオレ自身へ申し訳が立たない。

「……ゼッタイ、見つけてやるから」

 拳をぐっと握り込むと、靄がかかったような鏡にぼんやりと映る自分に、誓うみたいにそう言った。
 背中から「あの日とまるっきり同じ台詞ですね」と、懐かしむような学園長の声がした。

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