※折寺→仮免→プロヒIF/主人公は士傑生

 一生大事にしますとか、娘さんを俺にくださいとか、そういう歯の浮きそうなセリフも一生に一度くらいは言われてみたかった。なのに、好きになったのはそんなセリフが死ぬほど似合わない男だった。
 勝己くんはさっきから黙っているけれど、一体なにを言おうとしているのか。
 正座したまま右隣の彼を盗み見ると、赤い瞳は「黙ってろ」と言わんばかりに鋭く私を見下ろした。
 また自分の膝元に視線を落とす。左手の薬指には、脈打つみたいにさまざまに色を変える、一粒のダイヤモンドが光っていた。



「そういえば、なんで婚約指輪ってダイヤじゃないとダメなんだろうね」

 煌びやかなジュエリーショップのショーウインドウに映った制服姿の私たちは、いつもよりますます子どもっぽく見えるような気がした。
 扉の中に立っている、スーツをきりりと着こなしたお姉さんと目が合ってしまう。艶のある唇が少し口角を持ち上げるので、なんだか気まずくなる。ただ眺めていただけだが、私はこの店には場違いすぎるとわかった。

「別にダメっつーこたねえだろ」
「でもダイヤ以外の見たことある? なくない?」
「知るかボケ。どうせ宝石業界のヤツらに都合いーだけのしょうもねえ意味があんだろ」

 立ち止まった私を置いてけぼりにして、黒い学ランは気だるげな足取りで遠ざかっていく。いつの間にか開いていた距離。ファーストフード店の入り口から少しだけ顔を出して早く来いと圧をかけてくる勝己くんの後を、慌てて追った。
 ジュースとポテトと勉強道具。それをわざわざ騒がしくて狭いこの店のテーブルに所狭しと広げているのは、受験勉強もしなきゃいけないけど、勝己くんとも遊びたいからだ。
 屈指の名門校である雄英を目指しているらしい勝己くんが、気が向いたときだけとはいえこんな誘いに付き合ってくれるのは、私にとっては世界で一番身近な奇跡だった。

「どんな意味があるんだろ。大した意味じゃないならさ、もっと好きな色の宝石にしたほうがよくない? なんかお得感ない?」
「いつまでその話してんだよどォーでもいいわ。口よか手ェ動かせや」

 勝己くんはテーブルに視線を落としたままそう答える。片手の親指で器用に単語帳を捲りながら、もう片方の手でノートに丸を付けていく。単語帳、ノート、と交互に向きを変える色素の薄いつむじがなんだか従順で可愛く見えて、思わず手を伸ばしたくなってしまう。
 勝己くんがふっと顔を上げた。上目がちな赤い瞳と視線が絡む。

「つーか調べるにもてめー今時スマホすら持ってねえんだったな。原始人かよ」
「うーん、さすがに高校受かったらお願いしようかな」
「……あっそ。つか今時ないほうが危ねえだろ。お前んちはカホゴなんかそうじゃねえのかハッキリしねえな」

 勝己くんが言う通り、うちの両親は妙な厳格さを持っていた。
 今時ないと不便なのにスマホを使わせてもらえないのもそうだし、進学する高校だって「士傑高校以外認めない」と言われている。
 士傑が指定されている理由はずばり校風だ。雄英に並ぶ名門には変わりないが、あそこの妙に厳格な校風も制服もうちの両親の好みに沿っていて、正直うんざりする。

「……雄英には来んなよ」

 ふいに彼が釘を刺すみたいに言う。折寺からのたった一人の雄英進学者になりたい勝己くんにこのせりふを言われるのは何度目かわからない。というか「来んなよ」とか、まるでもう受かることが決まっているみたいな言い方だ。いや、きっと彼なら受かってみせるんだろうけど。

「心配しなくても行かないよ」
「『行けねえ』の間違いだろ。つーかじゃあドコ行くっつうんだよ。隠れてガリガリやってんのとっくにバレてんだぞ」
「勝己くんには言わないよ。だってもし落ちたら絶対しつこくバカにしてくるし」

 彼が気を悪くしたのはこれでもかと皺の寄った目元を見ればわかったが、否定もされなかった。やっぱりバカにするつもりではいたんだな、と笑いそうになりながら視線を逸らす。
 ぐっと肘に体重をかけたら、狭いうえに造りも甘いテーブルはぐらぐらと揺れる。勝己くんが履いている、端の擦り切れかけた革靴がテーブルの脚をぐっと踏み込むと、ぴたりと揺れは止まる。
 膝と膝がぶつかって「あ」と思ったけれど、慌てて離れるのも意識してるみたいだし、とそのままでいてみたら、膝と膝は一向に離れない。変に緊張して、身動きが取れなくなる。

「……めんどくせェ。無理に吐かす気ねーけどさァ」

 沈黙のあと、私が何も言わないのを察したのか、彼も鈍い赤の瞳をふいと下に逸らした。

「その代わり受かったら真ッ先に言えよな」
「……うん」
「てめースマホねぇんだから俺ん家まで出向くっつーことだぞ。分かってンだろうな」

 私が頷きながらボールペンの背をカチカチとノックするので「聞いてんのかカス」という怒声とともにまた舌打ちが聞こえる。私がちゃんと聞いているものなんて勝己くんの声ぐらいだ。
 今この時間、私は塾の自習室に通っていることになっている。両親に嘘をつくなんて、我ながら最低の娘だと思う。
 わかってはいるけれど、こんな愛おしくてくだらない放課後とも残りすこしでお別れだから、こんな嘘のひとつくらいはどうかつかせてほしい。



「勝己くん、私、受かったよ!」

 彼が玄関から出てくるやいなや、私は上擦った声でそう告げた。彼は息を切らす私のことを見下ろして「走る必要あったかよ」と気だるげにバカにした。
 中学に上がってから私服姿を見る機会なんてそうそうなかったから、薄手のパーカーに身を包んだ彼は新鮮だった。のんきにどきどきしていると、勝己くんは後ろ手で玄関を閉めながら大きな手のひらでボールみたいに私の額を鷲掴みにして、家の門の外まで私を押し出した。

「ちょっと、おばさんにも言いたかったのに!」
「は? ババアになんか言わんでいーわ。後から俺が言やいいだろ」

 門を出たところではたと勝己くんの足は止まる。
 くしゃくしゃになった前髪を直しながら「勝己くんはどうだった?」と聞いたら「落ちるワケねーだろ」と鼻で笑うみたいに返された。

「よかった、おめでとう!」

 ハイタッチでもしようと両手のひらを差し出したが、勝己くんはポケットから手を抜かなかった。その代わり、何にもおもしろいことは書いていないはずの私の手のひらをじっと睨んでいる。

「てめーも受かったら言おうと思ってた」
「何を?」
「付き合ってやる、てめーと」

 さっきまで理解できていた言葉が、急に異国語のように聞こえた。
 ――付き合うって、何に? もしかして、私と勝己くんが?
 眉間に皺を寄せて固まっていると、ポケットに手を突っ込んだままの勝己くんが私以上に険しく顔を顰める。

「なに黙っとんだコラ。よろしくお願いしますだろーが」
「えっ、でも私……付き合えないよ」
「……は?」
「私、士傑に行くんだ。校則で異性交遊禁止なんだもん」
「ハァ? 今時んなもんどうにでも――」
「ダメだよ。せっかく受かったのにバレて退学になんかなれないし、勝己くんにも迷惑かけるかもしれない。それに士傑は関西だし、雄英とは遠いよ。勝己くんが暇潰ししたくても今までみたいに簡単に付き合ってあげられない」

 自分の唇からするすると溢れる反論の言葉にぎょっとする。
 勝己くんの表情にもわずかに動揺は滲んでいた。きっと私が勝己くんの言うことにこんなにはっきりと反論したのは初めてだからだ。

「……てめー俺のこと好きだろうが」
「……え? いや、うん」

 はぐらかそうとして二秒で諦めた。きっと勝己くんは気付いているだろうとは思っていたが、改めて本人から言われるとにわかに口内の水分が奪われていく。

「だったらなんでだよ」

 なんでの続きに省略された言葉を私は聞き返さなかったが、要するに勝己くんは、こんな施しをなんでむざむざ無下にするんだということが言いたいのだろう。
 そんなの、私が勝己くんのことを好きだからに決まっている。
 気が向いたから急に「付き合ってやる」なんて言い出した勝己くんと私の気持ちを、一緒にしないでほしい。
 もし彼の言う通り「よろしくお願いします」と言ったとして、私はすぐにその気持ちの温度差に耐えられなくなって、勝己くんのことを困らせる。いつか暇潰しのための存在でいることに耐えられなくなって、勝己くんを苛立たせる。
 勝己くんに嫌われたくなんかなかった。



「お母さん、新幹線乗る前にトイレ行ってくるね」

 母親にそう声をかけて、人でごった返した駅の構内を進んだ。
 私と同じように大きな荷物を持った人が、改札前の至るところで見送られている。へたに花見なんかするよりも強く春のにおいを感じられた。出会いと別れの季節。
 もし勝己くんがあんなことを言い出さなかったら、私はなりふり構わず「最後だから見送りにきてよ」と駄々を捏ねていたかもしれない。
 そんなことを考えていたせいで、手洗いを済ませて改札の方へ戻る途中、勝己くんの砂のような浅い色の髪を見つけたのも、都合のいい見間違いかと思ったのだ。

「……勝己くん?」

 彼ははっとしたようにこちらを振り向いて、動きを止めた。
 けたたましくも聞こえる構内アナウンス。忙しない人の波が、時折私と彼とを迷惑そうに横目で見ていく。誰かのキャリーケースのタイヤが踵に引っかかった。

「ちょっとツラ貸せ」

 彼は人通りの少ないコインロッカーの前まで私の手を引いた。

「なんでいるの? 私、今日出発だって言ったっけ」
「アイツに聞いた。てめーと毎日一緒に昼飯食ってたやつ」
「……卒業したクラスの子の名前覚てないの勝己くんぐらいだよ」
「るっせえわ。つかこんな話ィしに来たんじゃねえ。てめースマホは」

 まだ、と首を横に振ると勝己くんは舌打ちをして、ポケットの中から何かを取り出した。折り畳んだ紙切れのようなそれの着地点を両手で作ると、桜の花びらが落ちるのに似たスピードで落下してくる。

「連絡よこせ。スマホ買ったら」
「してもいいの?」
「ダメだったら渡すわけねーだろ頭沸いてんのか」
「付き合ってないのに?」
「……それはてめーが一方的に校則なんかにビビってっだけだろうが。てめーさえヘマしなきゃバレるわけねーのに」

 勝己くんがバカにしたみたいにそう言うのはきっと他人事だからだ。もし自分の内申やら評価やらに響くとなれば、彼だってなんだかんだ気にすると思う――というのは置いておいて、私が勝己くんの「施し」を辞退した本当の理由まではバレていないことに安堵する。
 そうだね、と中途半端な笑顔で返事をすると、勝己くんはじっと視線の重みを増した。

「……てめーのことだから、どーせすぐ気ィ変わんだろ」

 それは目眩がしそうなぐらいに熱量を孕んだ声で、私と彼をぐるりと囲んでいる空気の温度すら上げた。
 勝己くんの背後に並んだ、使用中のロッカーの赤い光がぼやける。
 大丈夫、ぜんぶ使用中だし誰も来ない。そんなことを頭の隅で考えて安心してしまったのは、勝己くんが黙ったまま私に歩み寄ったからで、私を見つめる瞳が見たことないぐらいに大人っぽい気配を纏っていたからで、その大きな手のひらがバッグの持ち手ごと私の手を掴んだからで。
 ――え、キスなんかしていいの? こんなところで? しかも付き合ってないのに?
 彼の尖った鼻先が近付く間にも目まぐるしく渦巻く言葉は、どれもばくばくとうるさい心臓の音で消し去られてしまう。

「なまえ?」

 あとちょっとで「何か」が起きるその寸前、ロッカーを挟んだすぐ向こうからお母さんが私を呼ぶ声がした。
 私ははっとして勝己くんの胸板を押し返して、

「ごめん、行ってくるね! 絶対すぐ連絡するから!」

とだけ言い捨てて、人でごった返す構内へ飛び出した。
 遅いから探したじゃない、と苛立ちを隠さないお母さんに謝りながら一歩後ろを歩く。まだ火照った顔をはやく覚まさなければと、顔よりは冷たい手のひらでそっと頬を包む。
 明るく賑やかな構内より、さっきの薄暗いロッカーの影のほうが幾倍も夢に近かった。
 勝己くんと離れたあとに彼がどんな顔をしていたのか見る余裕もなかったし、振り返る勇気もなかったけれど、あのいやに熱っぽい声はずっと鼓膜に張り付いていた。



「あーっ! みょうじ!」

 廊下でいきなり百九十センチの男に大声で呼び止められるこちらの身にもなってほしい。
 夜嵐イナサは硬直する私を指さしたまま信じられないほどの大股でこっちへやってきて、言った。

「あんた、スマホ持ってるっスか!?」
「い、いきなり何」

 その大きな体躯と声だけに私は怯んだのではない。クラスも違えば特別深い関わりもない夜嵐に突然脈絡もない話を振られたのがいちばんの理由だった。
 夜嵐について知っていることと言えば、あの雄英の推薦を蹴っただとか、普通は二年で受ける予定の仮免試験を懇願して前倒しで受けさせてもらっただとか――結果的には二次で落ちてしまったらしいが――、要するに「めちゃくちゃ変わってるしめちゃくちゃすごいやつだ」ということぐらいだ。

「スマホなら持ってるけど、何か用事ある?」
「いや! 俺はないっスね! 別のやつに聞かれたけどわかんなかったからあんた本人に聞いただけっス! 俺、あんたとはそんなに親しくないし!」
「……はあ? 聞かれたって誰に」
「知り合いっスか? 雄英の爆豪と」

 その名前を聞いたとたんに、時間が止まったような感じがした。

「……爆豪と会ったの?」
「爆豪どころか、向こうの一年はみーんな受験したみたいっスね! 爆豪と轟とは先週から補講でも会ってて――」
「えっ、勝己くんも試験落ちたの?」

 むっと夜嵐の唇が弓なりになる。「も」という言い方は夜嵐に対しても無神経だった、と思い直して「ごめん」と頭を下げる。
 けれど、よりによってあの人が試験に落ちるなんて信じられなかった。
 夜嵐は私の「ごめん」の真意を今更理解したようで、急に「いや!」と大声で否定をすると、

「爆豪の口ぶりからしててっきり親しい友達なのかと思ってたけど、あんたが何にも知らないからややビックリしただけっス!!」

とただでさえ大きな口をこれでもかと開いて言ってみせた。
 それは私の傷口に塩を塗りたくり、なおかつふっと息を吹きかけるような言葉だった。
 あのとき、勝己くんに渡された花びらのような紙切れをなにがあっても手放さないでいれば、彼に身に起きたいろんな出来事を、彼本人の言葉で知ることができたのだろうか。ニュースや夜嵐の口から聞くのではなく。
 あの日、新幹線が走り出してしばらくしてから、母親は冷たい声で切り出した。

「さっき駅で一緒にいたの、勝己くんでしょ」
「……見てたの?」
「見てたも何も、今まで塾に行くって嘘ついてあの子と会ってたことなんかとっくに知ってるわ。成績が落ちなかったから何も言わないでいてあげたけど、今までとこれからは別よ。あなたがこれから行くところ、本当にどこだかわかってる? もしあなたの身勝手で校則破って退学にでもなったらどうしてくれるつもりなのよ。こんなに苦労して士傑にまで入れてあげたのに」
「……嘘ついてたことは、ごめんなさい。でも、お母さんとか勝己くんの迷惑になるようなことしないよ」
「迷惑になるならないじゃなくて、いい加減縁切れって言ってるの。やめなさい、あんな礼儀も愛想もない子」

 今までもそうやって母親は私の友達を一人ずつ減らしていった。油性ペンでおざなりにバツを付けるみたいに簡単に。今まで勝己くんが残されていたのが不思議なくらいだ。
 反論の言葉を探して俯いていると、勝己くんと別れてからずっと手の中で握っていた紙切れを、ふいに母親に「貸しなさい」と掠め取られる。
 待ってよ、と言う私の声なんか聞こえないみたいに、母親の細く長い手の中で、それは小さく小さく千切られて、もっと本物の花びらみたいな残骸になってしまった。
 今も到底大人ではないけれど、今よりもっと子どもだった私にとって、その白い残骸はさながら自分の恋心そのものに見えた。絶望に等しい出来事だった。

「――とりあえず、今度爆豪にはあんたがスマホ持ってたってこと答えておくっス!!」

 夜嵐の大声が、回想を打ち破る。

「……えっ、ちょっと待ってそれはムリ」
「なんで!? 俺、嘘とか苦手なんスけど!」
「嘘とかじゃなくてほら、もう少し言い方とか変えてほしいっていうか」
「んん!? もしかして男女のイザコザ的なアレコレっスか? だったら尚更ムリっスね! スッパリ言っておくっス!」

 手のひらでビシと宙を切り裂いてから名前通り嵐のように去っていこうとする夜嵐を、私は慌てて引き留めた。その大きな図体のせいで肩は掴めず、学ランの裾を引っ掴むしかなかった。
 「ム!」と振り向く夜嵐に、私は未練と躊躇をかなぐり捨てて、すこし震える声で言った。

「……『気、変わってないから』ってだけ、言っといて」
「……オオ!? なんか意味深っスね! でも潔さだけは伝わったっス! たしかに承ったっスー!」

 夜嵐の背中をぼんやりと見つめながら、ずきりとした胸の痛みには必死に見ないふりをした。
 たぶんこれでいいんだ、と自分に言い聞かせる。自分で突き放すようなことを言うなんて、勝己くんにはただの暇潰しの分際のくせにとんだ思い上がり野郎だなと思われるに違いないが、これ以上勝己くんの貴重な時間を奪うわけにはいけなかった。
 けれど、勝己くんがまだあの約束を覚えていてくれたことに対する嬉しさはバカみたいに湧き上がって、胸の奥をあたたかに満たしてしまう。
 ――いい思い出にしよう、勝己くんのこと。きっとお互いが夢を叶えられたらいつかどこかで会うだろうし、そのときにはこの未熟な恋心のことを改めて打ち明けてみたりして、「いつの話しとんだカス」ってもう一回鼻で笑ってもらおう。
 そう決めて、軍帽を深く被り直した。



 プロデビューしてすぐ、勝己くんはビルボードチャートの上位に駆け上がるように名を刻んだ。
 私だって無事にプロデビューできたけれど、勝己くんとは在学中に大した接点がなかったせいで、もはやテレビで見るだけのどこか遠い存在のように感じられる。
 初めて訪れた木椰子の街のデジタルサイネージには、出久くんの姿が映っていた。出久くんだって勝己くんと同じだ。なんとなく遠くなってしまった。画面の中の、同業者として嫉妬すら滲んでくるような鮮やかな活躍の様子をぼうっとそのまま上を見上げていると、背後から

「あの、もしかして道に迷ったりしてませんか?」

と聞き覚えのあるやさしい声がした。

「あっいえ、ちょっとあの画面を……え?」
「え?」
「いず……デクくん?」

 画面の中と同じコスチュームに身を包んだ彼が、私の顔を見て丸い目をさらに丸くして、わっと声を上げた。

「ひっ久しぶり! びっくりしたよ、どうしたのこんなところで。なまえちゃんの管轄、今も関西なんだよね?」
「そうなんだけど、今日はスポンサー企業の商品の撮影で。明日の朝すぐ向こう帰るんだ」
「だから私服でその荷物なんだね。僕もなまえちゃんが告知してるの雑誌で見たことあるよ。詳しくないからよく分かんなかったけど、すごく綺麗なブランドだよね。なんかこう、キラキラ、してて……?」

 出久くんは素直にそう言ってくれたけれど、正直彼に本業以外の仕事を褒められるのはすこし情けないような恥ずかしいような気分だった。できることなら、ヒーローの活動で私ももっと認められたいのに。
 「ありがとう」と言って愛想笑いをしていると、出久くんは「そういえば」と切り出した。

「かっちゃんとは最近会った?」
「……ううん、中学出てからまともに会ってない」
「えっ、そんなに!? ああでもそっか、三年のときやった合同授業もクラスの組み合わせ違ってたもんね」
「うん。それにほら、うちの親厳しかったからスマホも持ってなかったし、中学の友達には疎遠になっちゃった子が多くてさ」

 出久くんは私の両親の記憶をぼんやりと思い出したのか、「ああ」と気まずそうに唸った。
 士傑に入ってから、両親ともだんだん疎遠になっていった。プロとして無事にデビューが決まった日、そのことと「ありがとう」の一言だけを伝えて電話を切った。どこの事務所に所属するとか、拠点はどこだとか、きっと調べればすぐにわかってしまうことだが、自分の口から伝える気にはなれなかった。
 もちろん両親に対して感謝がないわけではないが、今まで抑圧されてきた反動のせいか、ある一線以上の関わりを持つのが苦痛になってしまったのだ。

「――かっちゃんの連絡先、教えようか? 必然的に僕の連絡先も登録してもらうことになっちゃうけど」
「えっ」
「きっとかっちゃんだって、久しぶりに君と話したいと思うし!」

 出久くんはにっこりと笑ってスマホを取り出した。すぐに連絡先が転送されてくる。
 十一桁の数字の羅列。奇数が多いのがなんとなく勝己くんっぽい。数年前に破り捨てられた紙に書いてあったものと同じかどうかは、もう思い出せない。
 出久くんと別れたあとも、ぼんやりとただその数字を眺めていた。
 こんなにあっさりとこの瞬間がやってくるなんて思わなかった。それにそもそも、あの二人の間のわだかまりが解れていることにすらびっくりだ。中学のころは目も当てられなかったのに。
 当たり前だけれど、雄英では私の知らない時間がたくさん流れたのだ。

「……今更、何話せばいいのかわかんないな」

 午後からの撮影の待ち時間にも、ずっとその十一桁と睨み合っていた。
 ――いや、べつに、何も絶対連絡しなきゃいけないわけじゃないんだし。このままこの十一桁の番号は観賞用として登録だけしておいたっていいんだし。
 気付けば休憩時間が終わっていたらしく、撮影が再開された。
 さっき出久くんが「なんかこうキラキラしてて」と死ぬほど自信なさげに言っていたのはたぶんこのジュエリーにあしらわれている小さな石のことだ。最初にこの依頼が舞い込んだとき、繊細なジュエリー製品の広告にヒーローなんかを起用していいのかと疑問に思ったけれど、「多少のことでは傷付かないタフさが売りなので」と説明されるとまあ腑に落ちた。
 撮影が終わったあと、次の新商品だからぜひ着けてみてほしい、という指輪を、言われた通り左手の薬指に嵌めてみる。
 中央の石は、すこし角度を変えるだけでいろんな色に光った。

「へー、すごく綺麗ですねえ」
「気に入ってもらえてよかったです。それ、そのまま差し上げますので」
「え、いいんですか?」
「はい。で、よければ着けてるところをSNSにも上げて下さったりなんかすると、私たちとしても嬉しいなあ、なんて」
「あはは! わかりました。早速今日載せておきます」

 この担当者はねだり上手だ。私もこれぐらい可愛げがあったらよかったのに、と思いながらカメラを起動する。
 そういえば前に、勝己くんともダイヤの話をしたことがある。煌びやかなジュエリーショップの前だった。「そういえば、なんで婚約指輪ってダイヤじゃないとダメなんだろうね」と言ったら、彼は「別にダメっつーこたねえだろ」とか「どうせ宝石業界の陰謀だ」とかなんとかかんとか、興味なさそうに言っていたっけ。
 回想をしながら、活動で傷のついた指もなるべく綺麗に映るように、といろいろカメラの角度を変えていると、スマホの画面がふっと暗くなった。
 急に振動するスマホに、「爆豪勝己」という文字列。もしかして、変なボタンを押してかけてしまったのだろうか。あまりのことに思考を数秒停止したあと、ええいままよ、と通話ボタンを押す。

「…………あ」
『……あ、じゃねえよ。てめーの名前ぐらい名乗れやカス』
「もっ、もしもしみょうじですけど!」
『うるせーわ。声でけえ』

 電話の向こう、くぐもった懐かしい声がする。いくらか声が大人びたようにも聞こえるが、純粋に時間が経ったせいなのか、電話を通しているせいなのかはわからない。

「ていうかごめん、間違ってかけちゃったみたい」
『……は? 俺からかけてんだよ。てめーがいつまで経ってもかけてこねえから』
「私の番号知ってたっけ?」
『……出久が。無言で。どういう意図か俺も知らねえ』

 ということは、あのあと出久くんが。けっして強制はしないけれど、できれば友達と友達には友達でいてほしい――こんなところだろうか。いかにもやさしい出久くんが考えそうなことだと思った。
 誰もいなくなった殺風景な控え室で、電話越しの沈黙に耐える。
 本当は「あのとき連絡できなくてごめん」と伝えるべきだと思うのだが、そんなことはきっと勝己くんの中ではもう過去のどうでもいいことの中のひとつになっているだろう。あまりにも時間が経ちすぎているせいで、謝ったって「んなこともうどうでもいいっつの」と気分すら損ねてしまいそうだ。
 当たり触りのない代わりの言葉を探していたら、勝己くんのほうが先に沈黙に痺れを切らした。

『……つーかてめー、随分とスマホ買うの遅かったじゃねえか。ア?』
「……え」
『くそでけえ声で絶対連絡するとか抜かしたクセに、あれから何年経ったと思っとんだ。おまけにあのハゲに死ぬほど腹立つ言伝てなんかしやがってよォ……』

 地を這うような掠れた声。電話越しでもわかる。彼はめちゃくちゃ怒っている。
 「ハゲ」が誰のことかは数秒考えて、やっと夜嵐のことだとわかった。

「……直接伝えられなくてごめん。いろいろあって」
『いろいろだァ? 俺は――』

 勝己くんが声を荒げる気配がしたが、途中でぶつりと言葉を切った。

『……まあいいわ。悪いと思ってンなら誠心誠意謝りにでも来いよ』
「……わかった。今どこにいるの?」
『ハ、なに今から行きますみてえなテンションで聞いてんだよ。てめー西にいんだろ』
「明日の朝には帰るんだけど今は撮影で関東にいて。出久くんの管轄の――」
『は? 木椰子?』

 うん、と頷いたら舌打ちをした勝己くんが逆に「今どこにいんだ」と尋ねてきたが、土地勘もあまりないので今いるスタジオの名前をそのまま告げる。
 そのあとすぐ「十五分」、とだけ言って勝己くんは電話を切ってしまった。
 茫然と立ち尽くしたあと、大変なことになってしまったと頭を抱える。
 とにかくまずは、好きだった人と再会するにはいくらかゴージャスすぎる撮影用の衣装とメイクを急いでどうにかしなければならない。「俺に会うからって気合入れすぎだろ」と鼻で笑う勝己くんの顔がフラッシュバックする悪夢みたいに頭の中を占めた。



 勝己くんに手を引かれるまま入った知らない店で、向かい合ってただ座っていた。
 久しぶりに間近で見る彼の姿はまるで毒のようだった。
 一回り、二回りほど逞しくなったような体躯に、さらに精悍になった顔付き。
 思い出にしたはずの感情が勘違いをして、とくとくと脈打ってしまう。表情や声色に出さないようにするのに必死だった。

「……他にもなんか頼む?」
「いらねェ」
「じゃあ、なんか飲み物のお代わりでもいる?」
「いらね」

 勝己くんは頑なに私に目を合わせず、グラスに口を付ける。
 店に入ってから勝己くんはずっとこんな調子だ。見た目の変化に反して、中身はこんな――こんな、拗ねた子どもみたいな人だっただろうか。いや、そんなはずはない。さっきのダイヤの話もそうだが、私の繰り出すくだらない話題にもなんだかんだ相槌を打ってくれていた。そこが好きだった。

「……てめー、なんで今更出久に俺の連絡先聞いた」

 やっと勝己くんが口を開いたかと思えば、やけに静かにその問いは紡がれた。

「……久しぶりに話したくなって」

 勝己くんは不快そうに眉を寄せながら私のほうまで視線を上げた。やっと目が合った。

「ウン年経ってやっとかよ? あんとき『すぐ』するっつったのどこのどいつだよ」
「うん、ごめん。本当はあのあとすぐスマホ買ってもらったよ。でも、あのとき駅で勝己くんにもらった紙、いろいろあって読めなくなっちゃって」
「……ッだったらなんでどうにかしてコンタクト取ろうとしねーんだよ。俺はずっと……てめーのそういうトコにムカついてたんだっつの。俺のこと好きなクセに校則がどうの遠距離がどうのとかどォーでもいいことばっか抜かして、挙句の果てに勝手に諦めやがって。っとにムカつく」

 彼の唇から滔々と零れる、恨み言のような愚痴のようなもの。
 それを聞きながら、中学のとき勝己くんの「施し」を受け取らなかったときに言われた「だったらなんで」の真意を初めて理解した。
 あれは気まぐれで発しただけの言葉だと思っていたから、彼がこのことをこんなに根に持っていたという事実に驚いて、同時に、期待だって膨らんでしまう。

「……なんでそんな簡単に諦めとんだ、クソが」

 彼が前髪をくしゃりと握り潰して、苦い声で言った。
 ――そんなことを言われたら、まるでまだ私に好きでいてほしかったみたいだし、まだ私は好きでいてよかったみたいだ。そんな都合のいいように解釈してしまうのも無理はないのだが、それで彼は大丈夫なのだろうか。

「諦めたっていうか、私は――」
「るっせぇわ。もう俺には興味ねえって言いてえんだろ。わざわざ言わんでもわかるわ、これ見よがしにそんなもんまで着けやがって」
「え? 何?」
「……とぼけてんじゃねーよムカつくなァ」

 勝己くんがぴくりと目元を歪ませて、グラスを持つ私の左手を掬い上げる。捕らえた獲物のように目の前にだらりと垂らしたその薬指のあたりに、橙の光を受けてきらきらと光るものがあった。

「あ、ワーッ! これは違、違うんです!」

 思わずがたがたと立ち上がり、右手で左手を隠す。

「ッなんだてめ急に――」
「誤解です!」
「は?」

 これはさっきまで撮影で着けていたやつで、いろいろあってあなたと急に会うことになったものだから慌ててしまって外すのをすっかり忘れていたみたいで――ことの流れを一生懸命に順序立てて説明をする。その途中で何度か息を切らしてウーロン茶を飲んだが、三回目ぐらいでもう勝己くんは鼻で笑っていた。

「つかあり得ねえほど長ぇ。話が」
「うん。焦ってあり得ないほどどうでもいいところまで説明した」
「……けどまァ大体わかった。俺に会うからって必死すぎだろ」

 ここへ来る前に頭の中で流れていた悪夢みたいなせりふが、現実世界で紡がれた。
 だいたい一緒だけれど、少しずつ違う。
 私の記憶とちがって、彼の声はワントーン低くなっていたし、あのころ単語帳を捲っていた手には、たくさんの傷が増えている。
 彼のすべてが強く、逞しくなっている。けれど、あのころ私を見つめるときに溢れ出すほどの自信を纏っていた赤い瞳だけが、今はどことなく不安げだ。その奥にある何かを量りたくて、目を離せない。

「……必死だよ。あのころは子どもだったから、諦めることしか思いつかなかったけど」
「……今は違うっつうんかよ」

 それは目眩がしそうなぐらいに熱量を孕んだ声で、私と彼を囲んでいる空気の温度すら上げた。 
 するりと彼の固い指先が私の左手の指に割り入って、銀色の金属を親指と中指の腹で揶揄うようになぞってから摘まんだ。赤い瞳は私をじっと見つめたまま、それをゆっくりと上に引き抜いてゆく。

「……どうかな。校則ないけど、遠距離だし」
「まだウダウダ抜かす気かよクソ頑固だな」
「それに、私があのとき付き合えないって言ったいちばんの理由、校則でも遠距離でもないし」
「……あ?」
「私、勝己くんのこと好きだけど、それだけで付き合ってもダメでしょ。お互いが同じ気持ちじゃないと、すぐ困らせ合ったり怒らせ合ったりする」
「……は?」

 勝己くんはこれ以上なく顔を顰めると、「没収」と言って指輪をどこかへしまってしまった。
 なに考えてるんだろう。そう聞きたかったのに、喉元で言葉が詰まる。
 昔は躊躇する前に口に出していたのに、私も面倒な大人になってしまった。
 店を出たあと、勝己くんは私が泊まる予定のホテルまで送ってくれた。そろそろと高架線下を歩いている最中、一歩前を歩く勝己くんはたまに私を横目で振り返った。そうそうこういうところも好きだった、と思い出す。

「てめー最近親と会ってんのか」ふいに勝己くんが立ち止まる。
「……あんまり会ってないけど、なんで?」
「ンなことだろうと思ったわ。今度てめーの親に会わせろ」
「…………えっなんで。てか何者として? 彼氏?」
「……それは今から決めんだろ。てめーが」
「順番めちゃくちゃすぎない?」
「うるッせーわなんでこんな簡単なこと皆まで言わなきゃなんねえんだ。……わかってんだろどうせ。こちとらてめーのせいで指輪のダイヤがなんでダイヤなんかとか死ぬほどどォーでもいいことまで調べたんだぞ」

 無駄にさせんな、と吐き捨てるみたいに言う勝己くんのやわらかな毛先を、夜風が弄んでいく。
 一回り、二回りも強く逞しくなった体躯の奥に、あのころの勝己くんの面影がたしかに見える。くだらない私の話になんだかんだ相槌を打ってくれるところ。私より先を歩くくせにたまに振り返ってくれるところ。それと、自分はひねくれたことばかり言うくせに、私の言葉はバカみたいにまっすぐ受け取って――たまに根に持つところとかも。
 夜風を浴びたら、さっきまで感触のあった左手の薬指が、にわかに物足りなく感じた。



 一生大事にしますとか、娘さんを俺にくださいとか、そういう歯の浮きそうなセリフも一生に一度くらいは言われてみたかった。なのに、好きになったのはそんなセリフが死ぬほど似合わない男だった。
 勝己くんはさっきから黙っているけれど、一体なにを言おうとしているのか。
 正座したまま右隣の彼を盗み見ると、赤い瞳は「黙ってろ」と言わんばかりに鋭く私を見下ろした。
 また自分の膝元に視線を落とす。左手の薬指には、脈打つみたいにさまざまに色を変える、一粒のダイヤモンドが光っていた。

「一生大事にするんでこの人を俺にください」

 そのせりふが彼の口から紡がれているのが信じられなくて、私は思わずあんぐりと口を開けてしまった。
 勝己くんが唇だけで「てめェ……」と漏らして私の腿を軽く引っぱたく。
 顔を上げた勝己くんのことを、三年ほどぶりに会う母親は目を丸くして見ていた。そしてそのあと、零れるように笑ってみせた。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -