「あ……なまえちゃん!」

 その声のほうを振り向かなくても誰だかわかる。切島鋭児郎。バカみたいに明朗快活で、こないだなんかネットニュースに載るくらいの活躍なんてしちゃってるくせに、私の名前を呼ぶときだけ、妙にたどたどしい。

「なに?」
「いやごめん、その、見かけたから思わず声かけちまった!」
「ふうん、そっか」

 切島の乾いた「あ」という声が千切れて、地面に落ちる。私は笑っているけど、彼もうすうす勘付いているはずだ。私はあなたに興味がない。もちろん嫌いじゃないしむしろいいやつだと思っているけど、友達以上の関係を構築する気はない。
 彼が次の言葉を探しているのをわかっていながら、私は歩き出した。

「あ、ちょ、ちょっと待ってなまえちゃん!」
「……どうしたの?」
「来週の土曜日、さ、空いてねえ? また一緒に遊びに行こうぜ、どっか!」
「……あーちょっと、部活あったかも。部長に確認しとくね」
「お、おう! 頼むわ! じゃあな!」

 呼び止められるとは思ってなかった。それほどの度胸がある子だとは。
 切島とは、一度だけ休日に遊びに行ったことがある。今みたいに突然誘われて、明るいし仲良くなれそうだと思ったから了承した。
 切島は私の一挙一動をとらえて、律儀に反応した。アイスの看板を見ていれば、アイスは何味が好きなのかと聞かれ、ジェットコースターを見ていれば、絶叫系は好きなのかと聞かれる。そんなやり取りを繰り返すうちに、まるで一問一答の問題集をやっている気になっていったのだった。
 帰り道、私は答えるのに疲れて、無言になってしまった。ちらちらと遠慮がちな切島の視線を頬で感じた。「また、誘ってもいい?」という問いに「無理かも」と答えられる人間はなかなかいない。私も答えられなかった。「いいよ」と返事をして、メッセージアプリの連絡先を交換する。黒い背景に「漢」とだけ書いてあるシュールなアイコンに、少し笑ってしまった。

「ヒーロー科だと、誰と仲いいの?」

 なんとなく投げかけた問いに、切島ははっと目を見開く。そういえば、私が彼に質問をしたのは今日初めてだった。
 初めての回答に張り切っているのか、やや上ずった声で切島は「そうだな」と切り出して、その名前を口にする。

「爆豪とかかな。知ってるだろ、体育祭である意味大活躍してたから。すげえ口悪いけど、意外とマトモに話せんの。他には〜、上鳴とか、瀬呂ってやつともよく話すけど、知ってるやついる?」
「へえ、そうなんだ……」
「あ、知らねえか」
「爆豪は、知ってる」
「やっぱそうだよな。良くも悪くもとにかく目立つしな、アイツ」

 切島はハア、と空を仰いでため息を吐く。うらやまし、と小声で付け足したあと、じ、と私を見つめた。

「……な、俺のことは? 俺のこと、その、声かける前から知ってたりする?」
「切島のことは、知ってたよ」
「ま、マジで!」
「髪赤いし、切島も目立ってたよ」
「くぅー! 染めて良かったァー!」

 切島は両手の拳を天に突き上げた。ふふと、やっと自然に笑えた。
 けれど、すぐに我に返る。爆豪という名前を聞いて、少しだけ動揺してしまった。

「そういやさ、なまえちゃんはどこ中だった?」
「私、折寺中だけど」
「ん? それって、爆豪と一緒だよな。緑谷もか。じゃあ、普通に知り合いなんじゃん」
「……そうだね。家近いから、小学校も一緒だったよ。でも特別仲良くはないけど」
「くっそ爆豪のやつ、そんな情報早く教えやがれ!」
「……爆豪になにか話したの?」
「え!? いや、べ、別になんでもねーよ! いやなんでもないってか、その……なまえちゃんのこと可愛いよなって、言っただけ」

 切島はおでこから耳までを急激に赤く染めて、どっからどこまでが顔で、どっからどこまでが髪なのか分からなくなりそうだ。
 両手を顔の前で窓拭きするように振り回し「変な意味じゃねえって!」としどろもどろに続ける。

「爆豪は、なんて?」
「え? や、アイツは誰のことも『知らねー』って」
「……そっか」

 切島の言葉にはおそらく無意識に「誰のことも」というクッションが敷かれていたが、つまり、私のことも「知らねー」と、そう言ったということだ。別に期待なんか1ミリもしていなかったけど、爆豪の冷たくて低い声を想像したら、心臓が軋むように痛くなった。
 目の前に見えていたけどまだ遠かった駅のホームを見つめながら、私は「帰ろ」と発して、足早に改札を目指した。

 そんなこんなで、私の頭の中にはまだ爆豪がどっしりと鎮座していて、出て行ってくれないのだということに気付いたから、私は切島からの二度目の誘いに乗り気になれなかった。
 LINEを開くと切島からのメッセージが一通届いていた。「部活わかったら教えて! てか何部だっけ?」。いや、私は部活に入ってない。私としたことが、こんなに浅はかな濁し文句しか思い付かなかったとは。切島への体のいい返信を考えながら画面の上で親指を滑らせているうちに、爆豪のアイコンが目について、喉がひゅっと鳴る。
 爆豪への最後のメッセージは、「来週の日曜会えない?」という短文だった。2か月前。送信したのは私で、爆豪からの返信はなかった。爆豪とのトーク画面は、心臓に悪い。意を決して送ったトークが軽々とスルーされるのもつらいし、それを後日見返して、やっぱり返信がないことを痛感させられるのもつらい。
 けれど、消せないのだ。「無理」「授業ある」「寝てた」、大体こんな文面のものしかないのだけれど、確かに爆豪自身が私だけに綴ったその文字列たちが、あまりにも私には愛おしすぎた。
 そしてその中のどこにも、決定的に私を突き放すようなものはない。
 いっそ「この世から消えろクソ蛆虫が」くらいのことを言ってくれれば、私の中の何かをプツンと断ち切れるかもしれないのになあ。なんて、爆豪は悪くないのに爆豪任せの言い訳ばかりを、壁に向かって投げつけていた。



 小学校五年のころ、初めて爆豪に告白した。理由は、勉強もスポーツもなんでもできて、その年の男の子の中でも、顔が段違いに整っていたからだ。小学生が異性を好きになる理由がそのレベルなのはよくある話で、私の友達の中にも、爆豪に告白した子は何人かいた。それに対して、あの頃の爆豪は「あっそ!」で全て終わらせた。いや、あの頃の爆豪「も」と言うべきか。
 中学に上がって爆豪は気持ちよく不良になり、元から高かった自尊心は膨張する一方だった。小学生時代に彼に玉砕した女の子たちも「ありえない」と彼の度を越した所業に引くようになり、距離を取るようになった。
 それなのに、私の呪いだけなぜ解けなかったのか。

「爆豪、やめなよ」
「あ?」

 三年に上がったころ、たまたま彼が気弱な生徒の胸ぐらを掴んでいる現場に出くわした。思わず私は声を出したけど、爆豪の瞳が私を捕らえた瞬間、足がすくんだ。恐怖と、嬉しさが肺からせり上ってきて、噎せ返りそうになった。

「なんだァ、オメーは」
「小五のとき告白した、みょうじなまえだけど」
「……ハァ? んな前のこと覚えてねえよ」
「じゃあもう一回言うね。爆豪のことが好きです」

 歯茎が見えるほど爆豪はあんぐりと口を開け、地底の底から響き渡るような「ハァ?」を出した。胸ぐらを掴まれていた生徒が隙をついて逃げるのを見て、爆豪は舌打ちをする。追いかけもしない冷めた様子を見て、ただの暇つぶしだったのだと理解した。爆豪は傍にあったバッグを拾い上げ、砂も払わずに右肩に背負う。

「……はあ、オメーもどっか行け」
「好きなの」
「ハァ? まだアホなこと言ってんのか」
「付き合ってる子、いる?」
「別にいねえし。しつけえな」
「じゃあ、私と付き合ってくれませんか?」

 私がそう告げると、爆豪はゆっくりと気だるそうに振り返る。鋭くて、じっと見られていると穴が空いてしまいそうな視線だった。

「……んで、俺だ」
「え?」
「なんで俺だって聞いとんだ」

 爆豪が私に、問いかけている。なんで自分のことが好いているのかと、聞いている。「あ」と母音を漏らしたあと、たっぷりと酸素を吸った私の唇から――言葉は出ない。頭にも、その答えはない。
 しばらくの間、爆豪と私はそのままそこに立っていた。その間にチャイム一回分は鳴り終わったのを覚えている。動けない私と目を逸らさない爆豪は、兎と蛇のようだった。

「……適当なこと言ってんじゃねえ。クソが」

 ふっと張り詰めていた空気がたゆんで、爆豪が私に背を向ける。「あ」と、また母音しか発せられない私。その背中を繋ぎ止めておく言葉もなく、私は手のひらを宙に彷徨わせた。



 爆豪の素行は中学生活が終わるころも、相変わらずだった。あれ以来、爆豪に話しかけることができなくなった私ではあったが、たまに目が合えば飛び上がりそうになるほどに、爆豪への特別な感情を残したまま、卒業式を迎えた。
 桜が散る校庭を、わらわらと行ったり来たり、最後の思い出を写真に残す生徒たち。その靴底に踏みつけられる花びらを数えていたら、教室のドアががらりと開いた。
 入ってきたのは爆豪で、私を見るなり眉間の皺をぐっと深くした。

「……何しとんだ、一人で」

 彼から話しかけられるなんて思ってもみなかった私は、ふいに立ち上がって、椅子をばたんと床に倒してしまった。押し黙る爆豪。やっと冷静になった私は「忘れ物?」と、会話初心者みたいに質問に質問で返す。

「学生証忘れた」
「……ああ、卒業しても3月中はカラオケとかで学割きくとこあるもんね」
「どけ」
「え?」
「そこ。オメーが座ってたの、俺の席だろうが」

 静かに指をさされて、私は言葉を失くす。好きな人の席で感傷に浸っていたことを、すっかり忘れていた。
 ごめん、と言って後ずさると、爆豪はそれには触れず、引き出しの中に手を突っ込んで、学生証を探し始めた。私には顔を向けないまま、爆豪は切り出した。

「お前、高校どこ行くんだ」
「……雄英の、普通科」
「なんで」
「なんでって」

 爆豪が行くから、それ以外には、理由はなかった。偏差値が手の届く範囲だからとか、名門だからとか、そういう現実的な要素ももちろん当てはまるけど、私が雄英を選んだ理由は紛れもなく、爆豪と同じ高校に進みたかったからだ。

「……爆豪だけど。爆豪が行くからだけど」

 私の答えに、彼はぎゅっと顔を険しくする。

「オメーのそれは、なんだ? 俺がオメーになにした?」
「え……?」

 怒鳴られる意味が分からない。私は情けなくおろおろと視線を泳がせるしかできなくて、余計に爆豪を苛立たせてしまった。
 きっと私がずっと爆豪を見ていて、ずっと焦がれていて、ずっとたまらない気持ちを抱えていることなんて爆豪にはバレていて。だから爆豪は、もどかしそうに舌打ちをして、あのときと同じ台詞を私に放った。

「なんで俺なんだよ」
「……わかんないよ。好きなんだもん……」

 ち、と舌打ちが聞こえて、爆豪が何かを床に放り投げる音がする。学生証、あったの。問いかけるよりも先に爆豪が歩み出て、私の二の腕を引っ掴む。煩わしいものを見るような目で、それでもなぜか、彼は私へ接近する。キスをされたと理解するまでに5秒ほどかかって、そのときにはもう爆豪は私から離れていた。教室の外から「バクゴー」と呼ぶ声がする。爆豪は去り際に、私に何かを言ったけれど、窓の外から聞こえた生徒たちの明るい笑い声が掻き消して、聞き取れなかった。



 朝起きて学校に向かう途中、結局切島へのLINEの返信をしていなかったことに気付く。
 案の定、教室までの廊下で「なまえちゃん!」と呼び止められたかと思えば、その隣には爆豪もいる。途端に頬のあたりが熱くなる。

「オハヨ! 俺ら今朝練終わったとこ。あっそうだ、昨日さ、夜遅いのにLINEしてごめん」
「ぜんぜん。漫画読んでたら返信忘れちゃって、こちらこそごめん」
「部活、無理しなくていいからな? 駄目だったらまた誘うし!」
「あ、うん……ありがとう」

 俯いて前髪を直すふりをしながら、心拍数を整える。ちら、と爆豪を見やると、目が合ってしまった。

「オメー、部活入ったんか」
「……や、実は決めてなくて、でも何か入りたいなって、いろいろ体験入部してみてるとこなんだ」
「あっそ」
「バクゴー、同中なのに対応雑すぎね? ひでえぞ!」
「別にコイツとはほぼしゃべったことねえし」
「……ひどいよ爆豪。しゃべったことはあるじゃん」

 爆豪はへらへらと笑う私を見下ろして、睨んだ。

「覚えてねえ」

 無愛想な声で、彼はそう言い放つ。バキバキと、何かにヒビが入った。ちょっと、と制止する切島を置いて背を向ける爆豪が振り向くそぶりも見せないのを分かって、私はにわかに悲しくなった。
 アイツほんと口悪いよな、と苦笑しながら私を向き直る切島が、私の顔を見てぎょっとする。ヒビが入ったところから、粉々に割れてしまった。嗚咽だけを漏らし、溢れてくる涙を止められなかった私の傍で、切島はあっ、だとかえーと、だとか曖昧な声を出したあと、ふいに私の頭を二の腕で抱え込んだ。

「こ、こうしてれば見えねえ! 見えねえから、どっか行こ!」
「ごめん、でも服、濡れちゃうよ」
「体操服だし、何の問題もねえよ! 嫌かもしんねえけど、ちょっとだけ我慢してくれよな」

 切島は私をぐっと引き寄せる。ちょうど小脇にボールを抱えるような格好で、下手すれば技をかけられているように見えなくもない。切島は言葉通り、人通りの少ない階段の裏に私を座らせると、隣にしゃがんで歯切れ悪く切り出した。

「あー、大丈夫か? っていうのも、変か……。アイツ口悪いけど、悪気はねえから、気にすんなよ。クラスのやつなんかもほとんど名前覚えられてないどころか、変なあだ名で呼んでたし。俺もクソ髪って呼ばれてた。でもいきなりあんな風に言われたら、傷付くよな。怖かったな」

 切島はためらいがちに、私の頭を撫でた。堅いけど優しいその手は、私の本心を知らない。素直だから、気付いちゃいない。私が傷付いたのは冷たく当たられたからではないし、というか傷付いたわけじゃない。爆豪のことをやめようと、初めて思えたのだ。それが嬉しくて、そして悲しかったのだ。

「切島は、素直で、優しいね」
「お、おう。俺、器用なほうじゃねえし、女子の考えてることとかあんま分かるほうじゃねえけど、ちょっとでもなまえちゃんの役に立てたなら、よかった」

 そう言う切島は、何を考えているんだかすぐに分かる。悲しいときは眉が下がるし、照れると耳まで赤くなるし、嬉しいときはへらりと口が開く。

「分かりやすいよね、切島」
「え……俺? そうか。やっぱ、そうだよな」
「自覚あるんだ」
「まあ、たまに言われるし。なあ、その……なまえちゃんも、気付いてたよな。俺、なまえちゃんのこと実は声かけるより前からいいなって思ってたんだけど、勇気出なくて。最近になって声かけてみたら、やっぱその……好きだ、って、思ってる。もし付き合ってるやついないなら、俺じゃダメか?」

 しどろもどろの癖に、視線だけはまっすぐだった。切島の目は切実だったけれど、どこからともなく込み上がってくる靄のようなもの。どうして。切島がどうして私を選んだのかが、わからない。

「なんで、私なの?」

 その問いに、はっとしたのは私だった。私があのとき、答えられなかった問いだからだ。
 爆豪と、永遠にも近い時間、校舎の裏で睨み合っても、私が答えられなかった問い。切島は私とは違って、酸素を吸って、堂々と口を開いた。

「理由なんか、ねーよ。なまえちゃんだから好きなんだろ。いつのまにか目で追ってて、話したくて、何が好きなのか知りたくなってた。ほかのやつじゃ駄目だ。俺だって、なんでだか教えてほしいって感じ。俺は、お前が好きなだけ」

 迷いのない切島の声は、一字一句、私を殴りつけた。何から何まで切島の言うとおりだ。私があのとき紡げなかった答えを、切島が教えてくれた。一種の呪いにも似たその感情を、他の誰でもない私が一番よく知っていたはずなのに。
 ああ、あの校舎裏で、あの卒業式の教室で、私がそう答えていたら、もしかしたら爆豪のなかの靄も、晴れていたのだろうか。あのキスも、曖昧なままで、終わらなかったのだろうか。なんて、今更じゃ遅いか。なぜだか、爆豪がキスをしたあと私に告げた言葉を、今になって思い出す。
 「ちゃんと聞かせろ」。爆豪が出て行って、私以外誰もいなくなった卒業式の教室には、爆豪の学生証が落ちていた。そこに書いてあった彼の連絡先に、どうして私はアホみたいなスタンプだけを送りつけたのだろうか。バカなのか。私は爆豪が、好きなのに。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -