目を覚まして真っ先に視界に入ったのは極彩色のカーテンだった。差し込む日の光と相まって、ちかちかと点滅して見える。
 まるで異国にいるような斬新なデザイン、けれど見覚えはある。なんだっけこの独特のセンス――そう、瀬呂だ。瀬呂の感性だ。
 昨日はここでみんなで飲んでいるうちに終電を失くして、まあ始発まで飲んでればいっかと笑って、最後の記憶は五、六年ほど前に流行ったドラマの再放送を、各々がでたらめな記憶を披露しながらだらだらと見ていたところで終わっている。きっとそのあたりで意識を手放してしまった。
 答え合わせをしながらゆっくりと上半身を起こす。「明日朝早いの俺らだけかよ」と嘆いていた切島と芦戸はもういなかった。ちゃんと予定に間に合ったならいいけれど。
 それから、ソファの背もたれに長い右足を引っかけて眠る瀬呂の姿。ラグの上でつつましやかに寝息を立てる上鳴を見れば、にわかに申し訳なさがつのる。人ん家のベッドをこんなに図々しく占領してしまっていたなんて。
 そこまで考えてはっとする。時計の針は昼前を指していた。
 ――もしかして私、今までずっと眠れてた?
 すぐには信じられずに、自分が座っているベッドを見下ろす。
 カーテンに引けを取らず鮮やかな柄のブランケットが、私のすぐ隣でゆっくりと、呼吸と同じはやさで上下している。
 ちょうど私の頭が横たわっていた場所には、逞しい右腕が伸びていた。
 まさか私は「ここ」で寝たのだろうか。
 あまりにも恐ろしい現実だった。怖いもの見たさみたいなものに取り憑かれて、起こした半身をそのまま元いた位置に横たえてみる。ホラー映画で背後を振り返る愚かな主人公と同類だ。
 目の前には案の定、ふだんの彼とは別人に見まごうほど従順そうな寝顔があった。おまけに、首の下にはその逞しやかな腕がシンデレラフィットする。
 そのとき、ぴくりと爆豪の肩が揺れた。まずいと思って体を起こすよりも先に、無常にも赤い両の瞳があらわになった。

「……あ゛? なんだテメー、一晩中俺ンこと見てたんかよ」



 ――背に腹は代えられない。
 何度も呪文のようにそう唱えながら、私は爆豪をわざわざ個室の居酒屋なんかに呼び出した。
 頬杖をついてこっちを睨み付けている本人と対峙して、あの朝のことを途切れ途切れに語る。

「つまり、なんであの状況になったかは覚えてないんだけど」
「コッチこそ知るかよ。どうせお前が俺ンとこ来たんだろーが」
「違うもん。いや、正直眠すぎてグダグダだったから断言はできないけど、記憶にないことは謝らない主義なんだよね。いやでも絶対違う」

 爆豪はそっぽを向いてチッと舌打ちをする。
 本題を話そうとする途中でくだらない言い合いに脱線してしまうせいで、既に数十分が経過していた。
 いつもは瀬呂や上鳴が「まあまあ」とうまく話を逸らしてくれるけど、一対一だとそうはいかない。
 そもそも私と爆豪には一対一が向いていないのだ。
 私と彼には恋人同士だった時期があるが、今となっては信じられない。
 最初はそれなりに仲良くやっていた気がするが、次第に爆豪とふたりでいると急に彼が何を考えているのかわからなくなった。言いたいことがあるなら言ってほしいとお願いしても「なんもねーわ」の一点張りだった。
 喧嘩が絶えなくなって、とうとう「ただの友達に戻ろう」というあっけない結末を迎えたけれど、それからの爆豪のほうが私にとってははるかに接しやすかったし、彼も同じだっただろうと思う。腹の奥に突っかかった感情も今は、変に飲み込まずにそのまま吐き出してくれるようになったように見えた。

「……つーか今更サシで何話すっつうんだよ」
「本題に入るけど、できればその前に殴らないって約束してほしい」
「聞いてから決める」

 頬杖をついたままの爆豪にじっと視線を送る。彼のほうには視線を通わせる気は微塵もないらしいが、かえって言いやすい。
 そばにあったグラスを手に取ってぐいと一気に飲み干し、アルコール何度かわからないその液体がまだ喉元に熱を残しているうちに、とうとう言い放った。

「私と一緒に寝てほしい」

 目を見開いた爆豪がやっとこっちを見たけれど、私のイカれたせりふに驚いているのか、私がグラスをドンとテーブルに置いたその音に驚いたのか、どっちだかわからない。
 ちょうど爆豪と別れた半年ほどあとからうまく眠れなくなった。
 理由ははっきりわからないが、仕事柄の不規則な生活や環境のせいだろうと医者には言われた。すぐによくなると期待しすぎないことだ、とも。
 数時間続けて眠れたのはあの朝が本当に久しぶりで嬉しくて泣きそうなくらいだったし、ていうかちょっと泣いたけどもしかしてバレてた?
 ――私がそう話すあいだ、爆豪は殴りかかってこなかったし、珍しくも茶々を入れずに聞いていた。

「……こんなこと爆豪に頼むの、いくらなんでも意味不明だし失礼すぎるってわかってる。でも、爆豪以外に頼めないから」
「ンなふざけたこと頼む前にこの仕事やめる気は」
「ないよ」
「だろうな」

 じゃあ聞くなよと思ったが言わなかった。
 あとは爆豪次第だ。答えを静かに待っていると、彼がやっと頬杖をやめた。

「つーかテメー、俺んちの合鍵まだ持ってんだろ。コッチは律儀に返してるっつーのに」
「うん?  ……あ、忘れてた。ほんとごめん。言ってくれればよかったのに」
「んなメンドクセーことするかよ。つーかもうそのまま持っとけ」

 テメーのももっかい渡しとけよなァ、と嫌味ったらしく付け足しながら爆豪はグラスの中の酒を煽った。
 それが答えだと理解するまでにしばらくかかったのは、「確かめたいからとりあえず一回だけ」のつもりだったのに、爆豪が急に合鍵の話なんか持ち出したからだ。
 つまり、ある程度腰を据えて付き合ってくれようとしている。
 はっとして「ご快諾ありがとうございます」と言うと、「どこが快諾だ目ェ終わってんな」と罵られた。



 一年近くぶりに訪れた彼の部屋のにおいは、もう懐かしいと感じた。
 変わったところといえば、ソファとルームライトの位置。それとトレーニング機器が増えていたことぐらいだろうか。
 爆豪が「電気消すぞ」と言ったのを合図に、私はとうとう、よりによって「前に付き合っていた男」の寝室に来てしまった。
 爆豪は広くて低いベッドのうえにどっかりと横たわって、私にもそうしろと目線で促す。
 ブラインドから漏れるうすら白い光が、爆豪の頬を棒状のもようみたいに照らしつけていた。
 自分で頼んだことなのに、ひどくばかげたことをしていると今更になって自覚してしまって、私は爆豪から極力離れたベッドの端のほうに横たわった。

「……は? 意味あんのかよそれ」片膝を立てた爆豪が私を睨んでいるのがわかる。
「ないと思う」
「なにヘラヘラ笑っとんだ。つーか今更にも程があんだろ」

 衣擦れの音とともに、爆豪が右側のひとりぶんの空白に右腕を差し出す。重たい赤色の瞳が、黙ったままじっと私を見つめた。にわかに居心地の悪さを感じる。
 ――なんだこれ。なんか生々しい。正直めちゃくちゃいやだ。
 自分が「他の誰でもない自分の意思でその腕のなかに行く」ことを、自分にも爆豪にもありありと見せつける行為のように思えて、羞恥心に全身をくるまれる。

「……黙らないで『こっち来いよ』とか言ってよ」
「は? なンで俺が」爆豪は低い声で唸り、顔を顰めた。

 もちろん今日はそのつもりで来た。けれど、いざ目の前にしたら漠然とこわくなったのだ。
 そこに一度でも入ったら、いいように篭絡されて二度と逃げられなくなるような、そんな予感がしている。

「いつまで待たす気だ。さみィんだよ」

 爆豪の呆れたような声が聞こえる。もう眠気の気配を感じているのか、いつもより低く鼻にかかったような声だった。
 彼の言う通り、こんなところで躊躇や羞恥心を感じたって手遅れだ。
 もう少しだったのに、私が心を決めるよりも爆豪の痺れが切れるほうが僅差で早かったらしい。チッと舌打ちをしたあと、

「……来い」

と結局、手を引かれる。
 次の瞬間には筋肉質な右腕に抱き抱えられるようにして、爆豪のとなりに横たわっていた。
 体格なんてもうさほど変わらないはずなのに、記憶よりも厚く感じる胸板。額にさわる髪の先は相変わらず、見た目よりもいくらかやわらかい。
 右肩をすっぽりと覆うごつごつとした手のひらが、これ以上お互いが近付く隙もないのに、ダメ押しするみたいに私の体を自分のほうに寄せた。
 違和感ばかりで埋めつくされた脳内。けれど、鼻先を押し付けられたシャツから漂う柔軟剤のかおりが懐かしくて場違いにもほっとする。

「……で、寝れそうなんかよ」爆豪は天井を見たまま私に尋ねた。
「まだわかんないよ」
「アッソ」
「うん。気にせず先に寝ていいから」
「ッ当たりめーだろ。なにテメーが寝んのいちいち待つ前提で話しとんだ」

 爆豪は「寝る!」と粗雑な声で丁寧な宣言をして、顔だけ向こう側に向けた。きっともう話しかけるなということだろう。
 「おやすみ」と返事をしてしばらくのあいだ、私だけがこの夜の奇妙さについて考えていた。
 ふと物足りなさのようなものを感じて、やめておけばいいのに、彼と恋人同士だったころのことを思い返す。
 眠る前にはいつも、彼のごつごつとした指先は私の頬にかかる髪を掬い上げて、耳の上にそっと掻き上げていったな、とか。そうしながら、何もおもしろいことなんて書いていないはずの私の額をじっと見下ろしていたな、とか。
 ふと爆豪を見上げたとき、まだうっすらと開いている赤い瞳に「眠くないの?」と聞こうとしたことが何度かあったけれど、曖昧になっていく意識のせいで、いつもそれは声にならなかった。
 ただ色褪せていくだけの記憶の中の爆豪を、今となりで規則正しく呼吸している爆豪と比べてしまう自分は、なんて不毛で浅ましいのだろう。
 ――奇妙な夜だ。
 互いの心も気持ちもあの頃とは決定的に変わってしまったのに、並んで眠るそのすがただけが、なにもかも元通りだ。
 くだらないことを考えながら、重くなり始めた瞼をふっと閉じた。



 私よりもいくらか高い体温のおかげか、それとも目覚めるまで肩を抱いていてくれる筋肉質な腕がもたらす安心感おかげなのかわからないが、とにかく私は爆豪のおかげでやっと普通の生活を取り戻しつつあった。
 私と彼が連絡を取り合うのは「今日はソッチ行く」とか「何時頃来る」とか、そういう業務的なものばかりだ。
 文字通り「一緒に眠る」だけで、それ以上でも以下でもない関係。その限りなく不安定なバランスを崩さないように、私は極力爆豪の顔を見ないようにして眠った。
 SNSのメッセージで瀬呂から「今日飲める系の人?」と連絡が入ったのは、前に瀬呂の家で集まってから数週間が経った、ある日の昼過ぎだった。
 そういえばちょうど明日も休みだったな、と確認して「今日飲める系の人」と返事をする。
 高校一年のころ仲が良かったメンツとは、だいたいこんなふうにゆるい声かけで集まる。その場に行ってはじめて誰が来ているかがわかる不親切な制度だけれど、きっと今日もいつも通り、上鳴や切島や芦戸あたりから三人くらいは揃うだろう。
 そう踏んでいたので、瀬呂から指定された店に着いた私は目を丸くした。

「あれ、まだ瀬呂だけ?」
「おー。なんか今日は途中参加ばっかなの。とりあえず飲んで待ってようぜ」

 瀬呂に差し出されたメニューをろくに見ないまま生ビールを注文して、適当に世間話を始めた。
 他愛もない会話の最中、ふと瀬呂がスマホの通知に目を落とす。

「あー、爆豪は今日ムリだってさ」
「そうなんだ」
「ぶっちゃけ残念?」
「全然」
「オッケー、全然残念じゃないってみょうじが言ってる、って返しとくわ」
「いらないって。ていうかいつまでやんの、そのくだり」鼻で笑って返事をした。

 私と爆豪の関係がもうすっぱり終わっていることをわかっていても、当時の癖なのかなんなのか、いまだに瀬呂はこういう冗談を寄越してくる。
 それに、今日爆豪が来れないだろうということは知っていた。四日前からしばらく仕事で西のほうにいると聞いていたからだ。
 爆豪がいないここ数日は、やっぱりうまく眠れていない。お酒を飲めば無理矢理にでもすこし眠ることができるから、なかば雑な方法だとはわかっているが、今日の瀬呂の誘いもちょうどいいと思っていた。

「つーかさっきから思ってたんだけどさ、ちょい顔色悪くね? 酒飲んでる場合なん?」

 何の脈絡もなく瀬呂が私を指さしてそう言うので、つい「えっ、やっぱ?」と両手で頬を包みながら返してしまった。
 余計な心配をかけると思ったから眠れないことは爆豪以外には話していなかったが、この流れで言わないのも逆に不自然なような気がして、瀬呂にもわけを話すと

「フツーに大丈夫かよ。心配だわ……つーか俺、今まで宅飲みのときとかもお構いなしに爆睡決めててマジごめん」

と予想の三倍ほどのテンションで落ち込まれたので、こっちが恐縮してしまった。

「なんか俺らにできることあったら言って」
「ありがとう。これからも飲み会に誘ってくれれば」

 そう言えば、瀬呂は「眠る眠れない関係ねぇのよソレは」と笑ってくれた。

「んじゃテキトーにコンビニでも寄ってこーぜ」
「うん」

 オフの日に外を歩いているときの瀬呂は、お酒を飲んでいても飲んでいなくてもどこかふらふらとしているように見える。
 結局ほかのメンバーが辿り着く一歩手前であえなくも席の時間が終わってしまったので、瀬呂の家で合流し、二次会から仕切り直すことになったのだ。
 同じく二次会の店を探しているだろうサラリーマンたちで溢れた、汚い街中。瀬呂の半歩後ろを着いて歩くその途中、お酒のにおいを纏ったサラリーマンに肘打ちをされてよろめいてしまった。
 体勢を崩したところを、さっきまでふらふらと歩いていたはずの瀬呂が私の右腕を捕まえてくれたので、どこに目がついてるんだろうという感心が真っ先にやってきた。
 瀬呂は「前見てね」と、サラリーマンに向かって威圧感をまったく含まない、なのになぜか説得力のある声で言うと、何事もなかったかのように歩き出した。

「瀬呂、ありがとう」
「いーえ。でも今の、もし爆豪に見られてたら面倒なことになってたろーな」
「え、なんで」
「だってアイツすげー嫉妬深いじゃん。特に俺って、昔から何かとアイツにマークされてるし」
「またいつの話してんの。それに爆豪だってもういい大人だし、万が一私と爆豪がまたそういうふうになったとしても、いちいちもうそんなことにイライラしないよ」
「うんにゃ、全然変わってないね。確かに全体的に見れば高校入ったころからアイツは随分変わったけどさ、いまだにすげーガキっぽい部分が一個だけ残ってるよ。食べごろのバナナの一か所だけなぜかまだ青い、的な?」
「ごめん、その喩えはわかんない」
「あ、そう? とにかく瀬呂青年にはさぁ、いまだにアイツが青臭いコーコーセーにすら見えちゃうときがあんのよ。特にみょうじの前だと」

 瀬呂は高い位置から私に視線を落としながら言ったあと、「全然可愛げねーけどな」と付け足した。
 ――瀬呂の言っていることが、終始わからない。
 付き合っていたときのことを思い返してみても爆豪が嫉妬深かったかと言われるといまいちピンとこないし、爆豪がもう私なんかに執着していないことは、今でも毎夜思い知らされている。

「それはピンとこねーなの顔?」

 少し歩調が遅くなってしまったせいで、瀬呂のことも立ち止まらせてしまった。

「うん。ちゃんと考えたら、当時もやきもち焼かれた記憶も全然ないなって」

 引っ張り出した断片的な記憶。私が廊下でつい他のクラスの男の子とマンガの最新刊の話題で話し込んでしまったとき、爆豪は興味もへったくれもねえという顔をして隣を通り過ぎていった。
 同じドラマにハマった上鳴と談話室で夜更かしをしながら鑑賞会をしていたときだって、「肌荒れんぞ」と余計な一言だけ残して、彼は部屋に戻っていった。

「そもそも爆豪が本当に嫉妬深いなら、とっくに瀬呂とかとも疎遠になってて、今だって飲みに行ってないかも」
「ウン、そうね」
「だよね。一瞬、爆豪ってほんとに私のこと好きだったのかなとか考えちゃったけど、今考えたら爆豪がドライなタイプでよかったのかも。私にとっては芦戸も瀬呂も上鳴も切島も同じ大好きな友達だから、もしもその関係を制限されたりしたら、ちょっと寂しかったのかもって」
「そうね。芦戸も俺も上鳴も切島も同じく、お前のこと大好きだしね」
「……照れるじゃん」

 瀬呂は「事実じゃん?」とおどけてみせたあと「でもさ」とすこし声色を変えた。

「アイツだってそんなことよぉくわかってたのよ」

 どこか懐かしむような声で瀬呂が言うから、はっとして顔を上げる。
 コートのポケットに手を突っ込んだままの瀬呂が、呆れたようにふっと眉を下げて笑っていた。どうしようもないとでもいうふうに、でも、やさしい表情だった。
 街灯のスピーカーから流れ出すキラーチューンを、三、四人の女の子が弾むように口ずさみながら私のそばを通り過ぎていく。ぐるぐると早送りしたように過ぎていく人の波の中から、ふいに「瀬呂」とどこか急いたような声がした。

「おー爆豪、来れた?」
「ッハァ? 『おー』じゃねェんだよテメーは――」

 飄々としたようすで片手を挙げる瀬呂のその向こうに、爆豪の姿が見える。
 風に吹かれたのかすこし乱れた前髪。瀬呂に向かって小言を続けようとする爆豪とばっちりと目が合ってしまうと、爆豪は開いていた唇をきゅっと結い直した。
 私もひょいと片手を挙げて挨拶をしてみるけれど、爆豪はじっとりと目を細めて応えるだけ。

「今日来ないのかと思ってた」
「……別に、早よ着いて気が向いたからやっぱ来ただけだわ」
「こっち帰ってきたばっかなの?」
「だったら何か悪ィかよ」

 爆豪がすんと鼻を鳴らして私と瀬呂を「いーから行くぞ」と追い越す。瀬呂はその肩を掴んで制止した。

「あー爆豪ちょい待ち。上鳴がもう俺ん家着いちゃうって言うから、先帰って二人で部屋あっためといてくんない? 俺とみょうじで買い出ししてから追い付くから。はいウチの鍵」
「……ア゛? ッンで俺が。先帰んなら家主のテメーだろ。買い出しなら俺とコイツでいいだろうが」
「まーまーそうだけど、ちょっと俺ら、まだハナシの途中なのよ」
「は……?」

 その爆豪の顔が、瀬呂の言う通りどこか子どもじみて見えた。それも傷付いた子どものように。
 いじわるにも瀬呂の指先から宙に放たれた鍵を、爆豪は反射的にキャッチしてしまう。
 「オイテメー」とか「ちょっと待てや」とかいう乱暴な声が降りかかる背中を瀬呂にぐいぐいと押されるまま、人の波に飛び込む。纏わりつくアルコールのにおい。お酒のせいか少し浮わついた足元。
 白く整然としたコンビニの店内はまるで安全地帯のようで少しほっとした。
 買い物カゴを長い指先に引っかけながら、瀬呂は私の顔を覗き込んで笑う。

「ちょっとビックリしたっしょ。でも、俺に見えてるバクゴーってずっとあんな感じよ。たぶんお前の前だとアイツはいろいろカッコつけてんの。ほしい言葉とか、ホントはきっといっぱいあったんじゃねーの。ま、知らんけどさ」



「待って待って、俺だけコレ全然食ってねえんだけどもうねーの!? 二つ食ったの誰ェ!?」

 狙っていたおつまみがなくなっていることに大騒ぎする上鳴の隣で、爆豪は煩わしそうに頬杖をついていた。

「ホラホラ上鳴ー、こっちもおいしいから食べなよ! 爆豪、今ご機嫌ナナメだし絡むと危ないよ!」
「……別にナナメじゃねーわ」
「じゃあ真っすぐなの?」
「……ぶん殴るぞ」

 一番到着が遅かったにも関わらず、芦戸のテンションはすでに乗っていた。両隣を上鳴と芦戸に挟まれて爆豪は怒る気力も失せたのか、はあと深く長いため息をついた。
 おつまみ片手にそのようすを見ていれば、どこか疲弊したようなその両目と視線が絡む。テーブルをはさんで数秒間そのままでいたあと、なんとなく私のほうから逸らしてしまった。
 買い出しから帰ってきてから爆豪のひとみが何かもの言いたげな気配を醸し出しているのは感じているのだけれど、今は自分の中で膨れ上がったとある期待を、腹の底まで沈めるのに必死だった。
 ――瀬呂が今更になってあんなことを言うからだ。
 爆豪と付き合っていたころ、彼が私のためにいろいろなことを呑み込んで我慢してくれているかもなんて、考えることすらできなかった。
 瀬呂の言うことが本当なら、あのことも、いや、あのことだって爆豪はいやだったのかもしれない。
 こんなことだけよりによって鮮明に思い出せる。再現なく湧き上がってくる心当たりに絶望して、頭を抱えたくなる。

「なにボーッとして」隣にいる瀬呂が私を覗き込む。
「あ、いや、特に何も考えてないよ」
「そこは何かしら考えときなさいよ」

 まあ飲みな、と瀬呂は私に新しい缶ビールを渡した。手に持っている缶ビールがちょうど空になったことも、私が本当は誰のことを考えていたのかも、瀬呂には手に取るように見透かされているようだ。
 タブを空ける手に、じりじりとした圧を感じて視線を上げれば、爆豪の鈍い赤がこちらを睨んでいた。

「……瀬呂お前、コイツに何言った」
「別になーんにも。な?」
「うん。なんにも」

 瀬呂に同意を求められて反射的に繰り返す。それが癪に障ったのか、爆豪はこれでもかと眉間に皺を寄せ、言葉にならない言葉を口元で噛み殺す。「あっそ」
 得も言われぬこそばゆい感情が、胸のあたりで蠢く。
 今更になってこんな――期待に似た何かを抱いたってどうしようもないとわかっているのに、一度壊れた関係なのに、もう中身まで元通りにならない私たちだとはわかっているのに、彼がもう昔の彼ではないことを、毎夜のように思い知らされているのに。
 現実から目を背けたくて、瀬呂が空けたばかりのワインボトルをかっぱらう。「あ、みょうじお前!」と瀬呂が口を開くすきに、目の前にあったマグカップにどぼどぼと注いで一息で飲み干した。



 目を覚まして真っ先に視界に入ったのは極彩色のカーテンだった。差し込む日の光と相まって、ちかちかと点滅して見える。
 瀬呂のセンスで選ばれただろうそれをぼんやりと眺めながら、ゆっくりと体を起こす。
 しんとした部屋の中、上鳴はラグの上でつつましやかに寝息を立てていて、芦戸は部屋の隅のハンモックで気持ちよさそうに丸くなっている。ソファの上には、長い足をコンパクトに重ねて横たわる瀬呂の姿があった。
 ということは、私は今朝も図々しくベッドを占領してしまったということ。
 カーテンに引けを取らず鮮やかな柄のブランケットが、私のすぐ隣でゆっくりと、呼吸と同じはやさで上下している。ちょうど私の頭が横たわっていた場所には、爆豪の逞しい右腕が伸びていた。
 起きたばかりで曖昧な頭の中を言い訳にして、私はそっと眠る爆豪に手を伸ばす。
 頬にかかるほどもない長さの毛先を、そっと耳の上に掻き上げる。かつて、彼が私にそうしていたように。
 無防備にあらわになったこめかみ。ばかみたいに愛おしくて、たまらない気持ちになる。
 そのとき、ぴくりと爆豪の肩が揺れた。まずいと思って手を離すよりも先に、無常にも赤い両の瞳があらわになった。

「……真似すんな」

 掠れた声が鼓膜をなぞる。咎めるように捕まえられた指先に、じんわりと高い体温が伝う。

「ご、ごめん」

 かっと全身が熱くなった。
 一気に冴えた頭では、自分が何をしたのか痛いくらいによくわかる。爆豪ですらわかっている。
 恥ずかしくてどこかへ逃げてしまいたい気持ちに駆られて思わず後ずさりしようとするけれど、それは叶わなかった。腕を引かれるまま、私はまた極彩色のブランケットの中に倒れ込んだ。

「……どこ行くつもりだテメーは」
「別にどことかなくて……」

 ひそめた声同士を交わしながら、すぐ目の前にある爆豪の顔を見てどきりとした。
 そんな顔をされたら、私はまだ爆豪のものなんじゃないかと錯覚しそうになる。
 それでも、手のひらは勝手に彼の頬を撫でる。子どもじみた目元を見ていたら、なぜかそうしたくなった。

「……私が好きなのは、爆豪だけだよ。いちばん好き」

 自分の唇から漏れる声があまりにもやわらかで、ぞっとする。言葉も声色も、友達に送るそれでは到底ない。
 爆豪がはっとして、すこしだけ目を見開いた。けれど、意味不明な言葉を口走る私のことを、いつものように彼が罵倒することはなかった。

「……最初からそう言っとけよ」

 苛立ちを強いて抑えるように、爆豪は手のなかで私の指をきゅっと潰した。
 私の右頬にも、彼の大きな手のひらが宛がわれる。ふっと伏せられるまぶた。鈍い赤が見えなくなるその間際に、私にもそうしろと言っているように見えた。
 ああ、たったの数秒間だけ。数秒間だけでいいから、誰も目を覚ましませんように。このブランケットのなかを暴きませんように。そう願いながら、つよくつよく瞼を閉じた。

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