「もしうちのクラスの男子たちの中からひとりを選んで付き合わなきゃ死んじゃうとしたらー、誰と付き合いたい?」
きっかけは三奈ちゃんが私に罰ゲームとしてよこしたくだらない質問だった。
まずクラスメイトと彼氏彼女にならなければ死ぬなんてどういう状況設定なのと突っ込みたくはなるけれど、深夜テンションに突入した女子会の場にそんな理性は邪魔者でしかない。
「えー、だったら……」
もしなにか非日常的なことが起きて、私が彼氏にしたい人を選べるのだとしたら――頭の中にまっさきに浮かぶひとりの男の子がいた。
それなのに白々しく逡巡しているふりをしたのは、その男の子の名前はとてもじゃないがこの場では答えられないからだ。
ここにいる女子のみんなは知らないけれど、私はその人に一度告白して、とっくに振られている。未練がないかと言われたら即答はできない。きっとそのうち消えるだろうが、今はまだ胸の奥の奥のほうで燻っている。
たぶん、私が馬鹿正直に付き合いたい人を暴露したとすれば、みんながふざけ半分でやっているこの暴露ゲームには不釣り合いなほど、重苦しいトーンでその名を呟いてしまうに違いない。そう、まるで呪詛みたいなトーンで。
だから私は、軽やかに別の名前を唱えた。
「轟くん、かな!」
すると三奈ちゃんはワッと声を上げて、お茶子ちゃんは両手でお餅みたいな頬を支えて、梅雨ちゃんはもともと大きな目をもっと丸くした。
予想していた「あー」「ソコね」みたいなのよりも何倍も大きな反応に急に焦りが込み上げる。
あれ、轟くんって言うなれば、国民の王子様みたいなものじゃないの? ここで名前を挙げても「この中だったらやっぱ轟選ぶよねー、はい次」って流されるような、そんな存在じゃないの?
そう思ったけれど、みんなの話を聞く限り、付き合うとなれば話は別らしい。イケメンは観賞するぐらいがちょうどいいとか、女心読むのニガテそうよねとか、あけすけに語られる恋愛観。私が男子だったら一体何と言われるのかヒヤヒヤしてしまいそうだ。
「あー、言っとくけどそういうのじゃないからね! 本気で付き合いたいとか思ってるわけじゃないけど、かっこいいよねっていうアレ。もちろん見た目もそうだけどほら、話してみると意外とおもしろいし、優しいし、授業でわかんないとことか普通に丁寧に教えてくれるし、あんまり笑ったりしないけど、笑うと心が……ほっこりするじゃん……?」
両手をワイパーみたいに大きく振りながら必死のフォローをしてみたものの、みんなの高揚したような表情は変わらない。
つまりさっきのフォローは気持ち良いぐらいに逆効果だったということは理解できたが、それを訂正するために本当に好きだった人を打ち明けるだけの度胸は私にはなかった。
◇
轟くんのことをどう思っているかと聞かれたら、その答えはあの夜にみんなの前で言ったことと変わらない。あれは、限りなく百パーセントに近い本心だった。
けれど、翌日から私が轟くんと立ち話をしているだけで集まってくる遠巻きな視線とか、学食で私が轟くんと隣になるための謎の気遣いとか、そういうのがもうこっ恥ずかしくて仕方なくなり、挙句の果てに、とうとう我慢の限界に達してしまった。
「――ていうかほんと、轟くんはそういうんじゃないんだって!」
「えーっ、じゃああの熱いプレゼンは何だったの? 轟へのお世辞?」
「いや、あれは本当に思ってることだけど、実際自分がどうこうなりたいとか思ってないっていうか……ほら、アイドルに対する好きと似たような感じだよ」
「はぁーん、なるほど! 『轟が好き』っていうか『轟推し』ってことね!」
「……なるほど! そうだよ、そう!」
ぴんと張った人差し指で得意気に私を指さす三奈ちゃんに、私も人差し指を立てて答えた。
便利な日本語があるものだ。かっこいいなあ、優しいなあ、モテるだろうなあ、と思う人。思わず、そういういいところを他人にも知ってもらいたくなるような人。でも、それまでの人。
この感覚に名前があって助かった。私の胸の中で燻り続け、もはや黒ずんだ煤が張り付いたようなあの恋愛感情の残骸と一緒くたにされては困る。
轟くんに対する感情はもっと透き通っていて、味がしなくて、軽くて、明るいのに。
それ以来、こっ恥ずかしくなるようなコソコソとした気遣いはなくなったけれど、そのせいか上鳴くんや峰田くんにまであの夜の私の発言が知れ渡ってしまったようだった。
上鳴くんには定期的に「轟にどこまでガチなん?」「ぶっちゃけ本気っしょ?」と尋ねられる。だんだんと否定をすることすら面倒になってきて、もはやコソコソ応援されるのとどっちがマシかわからなくなってきたな、と思い始めていたころだった――本人が降臨してしまったのは。
みんなが自分の部屋に戻り始めた二十三時過ぎ、エレベーターホールで偶然ふたりきりという絶妙なシチュエーションで、轟くんはじい、と私のほうを見て口を開いた。
「そういや、お前に言いてえことがあったんだ。こないだお前が談話室で上鳴と話してんのが聞こえて」
「え?」
「なんか盗み聞きしたみてぇで決まり悪いんだが……」
なおかつ、どことなく気まずそうに言い澱む轟くんを見て、まだ告白もしていないのに――というか好きになったわけでもないのに――轟くんに「ごめんな」「お前の気持ちには答えられそうにねえ」と振られる一寸先の未来が頭によぎる。
眉間に眉を寄せて、何かを言わんとする彼の顔を凝視する。やっぱりすっごいかっこいいな、失礼にもその感想だけが頭を占めるのでぶんぶんと頭を振って振り払う。
さんざんみんなに「ほんと轟が好きだね」とか「本気なんじゃねえの」と言われ続けているせいか、脳がそう錯覚し始めているのかもしれない。
「……なに?」
「ああ。お前がしてた、うちのクラスの誰かと付き合わねぇと死ぬとしたら俺を選ぶって話――」
ひゅ、と喉が閉まる。バカらしさで世界一、二を争いそうな罰ゲームの質問が、いたって真面目なトーンで轟くんの唇から紡がれるので、その温度差にくらくらする。
慌てて両手を前に出し、「あれは深夜のノリで」とか「つい勢いで」と誤解を解こうとしたけれど、轟くんは続けた。
「せっかくお前が選んでくれたんだよなと思って俺も考えたんだが、もしお前が死ぬかもしれねぇってなったら全然力になれそうだって思って。だから、もしそういうことがあったら遠慮なく頼れよ。まあ……あんまりそういうことってねえか。それだけだ」
「え? あ……」
突っ込みどころの多すぎる轟くんの話に結局ひとつも突っ込めないまま、エレベーターは五階についた。
「じゃあ、おやすみ。お前も早く寝ろよ」
「お、おやすみ」
男子棟と女子棟との分かれ道。茫然としながら力なく片手を上げれば、轟くんはふっと口角を緩めて応えた。
私の頭の中は疑問符と、轟くん本人にあのバカげた質問の答えを知られてしまったことへの気まずさで満たされている。それなのに、もう一方の轟くんの中であの質問の答えは、私から彼への友好的な態度として捉えられたらしい。
翌朝から私に対してどことなく懐っこくなった轟くんの態度を見て、やっとそのことに気付いた。
◇
轟くんは友達思いな人だった。
彼は、私と会話をしているだけでいろんなクラスメイトに「おっ、今日も仲いいじゃん」「轟と話せてよかったなみょうじ」と煩わしい野次を入れられるのに、態度を変えることも敬遠することもせず気さくに接してくれるし、談話室で会えば「時間あるならやるか? 今日の授業中、首傾げてただろ」と言って、予習復習に付き合ってくれたりもするようになった。
「今の説明で伝わったか」
今日も今日とて、となりに座った轟くんがシャーペンの先で私の教科書を指しながら、やや上目遣いに視線を飛ばしてくる。私は「ばっちり!」と返事をしながら、扇のようにきれいに弧を描く下まつげの先を見ていた。
うらやましいぐらいに綺麗だ。ていうか、この顔って無料で見ていいんですか? なにも悪いことはしていないのに、後ろめたさすら覚える。
「お前って、最初はとんちんかんなこと言っててやべぇなって思うけど、一回教え始めたら呑み込みは早えよな。ただ単に授業に集中してねえのか?」
「うーん……ニガテな教科だと拒否反応出ちゃって一回の説明でなかなか掴めないんだよね。轟くんとか百ちゃんにはわかんなかったとこ聞き返せても、授業中は何度も聞き返せないし」
「まあそうだな。じゃあ、俺には遠慮なく聞き返してくれていいぞ」
涼しいトーンで轟くんは言う。
当たり前みたいにそう言える轟くんはやっぱり優しいな、と思ったけれど今は「ありがとう」という言葉に留めおいた。
前に「優しいよね」と言ったら轟くんの顔には一抹の困惑が滲んだのだ。聞けば、特に優しくしているつもりはないので反応に困るのだと言っていた。だから「仮に優しくしてるつもりがないのに他人に優しいと思われてるんだったら、たぶん本当に轟くんは優しい人なんだと思うよ」――そう言ったのだけれど、轟くんはますます困惑してしまったようだったから、それ以上言うのはやめてしまった。
もしかしたら轟くんは真正面から褒められたりするのが苦手なタイプなのかもしれない、その仮説は日に日に私の中だけで信憑性をはらんでいった。
「あーっ、またふたり一緒に勉強してる!」
「三奈ちゃん、おかえりー」
「なになに、数学? 英語? 数学ならアタシも混ぜてほしー! あっでも、みょうじは轟のこと独り占めしたいかぁ」
三奈ちゃんは三日月のようににんまりと目を細めながら言う。
もう轟くん本人のいるいないを問わずにこうやって揶揄われることに慣れてしまった私は、すでに開き直っていた。
「もう十分独り占めさせてもらったからいいよ。残念ながら私だけの轟くんじゃないしね」
ペンケースや参考書をどけて、三奈ちゃんのためのスぺースをつくりながら答える。三奈ちゃんはアハハと弾んだような声で笑った。
「ほんと轟のこと好きだねぇ!」
「そうだねぇ」
「あっ、じゃあアタシ数学の教科書とか取ってくる! ちょっと待っててー!」
バッグだけを椅子に置いてばたばたと三奈ちゃんが去っていったあと、再び問題集と向き合おうとした私を、轟くんが改まったように「なあ」と呼び止めた。
「前から思ってたんだが、ああいうの、お前恥ずかしくねぇのか」
「ああいうのって、みんなからの轟くん大好きイジりみたいなの?」
「……そういうやつだ。つーか、自分でも言うんだな」
珍しく轟くんの声が揺れているような気がして、まずいと思う。轟くんがいつも興味なさげに聞き流してくれるのをいいことに、この状況を今まで放置していた。
自分に変なキャラ付けがされていくことはもうこの際どうでもいいやと思っていたけど、轟くんは聞き流すふりをしつつも本当は辟易していたのかもしれない。いつもの轟くん独特の態度に甘えて、そこまで気が回らなかったことを反省する。
「き……気付かなくてごめん! ああいうのやだよね……最初は私が言われるだけだしいいやと思ってたんだけど、いつの間にか轟くんのことまで巻き込んじゃって」
シャーペンを問題集のうえに放り投げて謝る私を、轟くんは目を丸くして見下ろした。うすく開いた唇の隙間。
「……ああ。いや悪い、誤解だ。べつにやめさせろって言ってるわけじゃねえ。不快でもないし」
「……そっか。嫌な思いしてないならよかったけど」
「俺が言いたかったのは、お前が嫌じゃねえのかって話だ。あんなふうにあることねえこと言われて」
「私が轟くんのこと優しいとかかっこいいとか言ったのは事実だし、実際そう思ってるから、思ってもないこと言い触らされてイヤだなぁとかは思ったことないよ……あ、なんか口説いてるみたいになっちゃったけど、変な意味じゃなくて、友達としての素直な意見ね。本当に轟くんは素敵な人だよ。いつも勉強にも付き合ってくれてありがとう」
私頭悪いのにさ、と付け足して自虐的に笑ってみせる。
轟くんはぼうっと私を見たまま何も言わない。こういうタイミングで黙られるとどうすればいいのかわからない。自分の書いた手紙を目の前で相手に読まれている最中みたいな種類の照れくささが込み上げて、思わず視線を落とした。
「――俺」、やがて轟くんの低い声がぽつりと漏れたので、恐る恐る顔を上げる。
「いつもお前がひとつも躊躇しねえで俺のこと好きだとか優しいとか言うの、正直どうしていいかわかんなかった。お前みたいなやつ、今まで俺の周りにいなかったし」
轟くんはそう言いながら何かを思い出しているようで、色の違う瞳をすこし上のほうへ逸らす。白銀の髪が重力に負けて、さらさらと鈍色の目にかかった。
「俺はお前にそういうふうに言われて素直に嬉しいと思う」
「そ、そっか」
「本当は今まで、お前があまりにも軽く言うから間に受けねえでおこうと思って流してた。けど今のお前の話だと、ぜんぶ本心ってことでいいんだよな。だったら俺も変な気遣わねえで、素直に受け止めさせてもらう」
言い終えてから、よそへ行っていた視線がそろりと私のほうへ戻ってくる。きっと本人にはそんなつもりはないだろうが、なんとなく駆け引きめいた色っぽい視線だったから、思わずどきっとしてしまった。
私の態度や言葉が本心かどうかなんて、まさか改めてそんな確認をされるとは思わなかった。感じたことのない色の緊張が喉元の水分を奪っていく。
うん、と掠れた声で返事をしたら、轟くんはまたしばらく口を噤んだあと、ふっと目元を緩めた。
「慣れねぇけど、やっぱ嬉しい、な。好かれるのも、独り占めしてえとか言われんのも、お前にだったら」
沈黙のあいだに私が言ったあれこれを反芻していたとでもいうのか、轟くんはどこか噛みしめるみたいにその甘やかなセリフを吐いてみせた。
この現実がラブコメ漫画だったら、きっと今のシーンは見開きになっていただろう。周りにホワッとしたトーンなんかも貼られて。
どうしても轟くんの表情も言葉も私に向けられたものとは思えず、私はただただ瞠目するだけだった。それでも心臓は正直で、どくどくとうるさいぐらいに脈打っていた。
◇
「ねえねえみょうじー、最近ずっと思ってたこと言っていい?」
三奈ちゃんとソファに腰掛けてそれぞれ違う雑誌を読んでいる最中、おもむろにそう切り出された。
「なに?」
平坦な声のトーンからして他愛もないことだろうと高を括り、雑誌から目を離さずに返事をしたら、
「とうとう轟と付き合ったの?」
思いもよらない爆弾を放り込まれて、私はすべてを掻き消すように「うわーっ!」と声を上げる。放り投げてしまった雑誌はソファの背もたれを超えて、背後のテーブルにいた砂糖くんの頭にウィッグのように被さってしまった。
ホントごめん、と慌てて砂糖くんの頭上から雑誌を回収してから、ソファの上で目を丸くしている三奈ちゃんにずいっと顔を寄せる。
「……付き合ってないよ。ていうか聞こえるから、みんなに……」
「だってぇ……もうそうとしか見えないんだもん! あんなフインキ出しといて付き合ってないって逆にどーゆーこと?」
三奈ちゃんは声のトーンを落としながらも精一杯の迫力で私に詰め寄った。私はそんなに広くもないソファの上をじりじりと後ずさる。
正直思い当たる節はある。大声を出してしまうほど動揺してしまったのも、もしかしたら近いうちにそういう「あらぬ勘違い」をされてしまうかもと心の中で怯えていたからだ。
まあ、こんな油断したタイミングで放り込まれるとは思ってもいなかったけれど。さっきのはまるで、暗闇からいきなりアイスピックを突き立てられたみたいだった。
三奈ちゃんがどんな証拠をもって私に詰め寄っているのかはだいたい想像がつく。
あの日――私の言っていることを素直に受け止めると轟くんが言った日から、轟くんの態度が変わったのだ。
周囲の揶揄もただ適当に受け流すだけだったのが、そうではなくなった。一緒に予習をしているときに「よかったなみょうじ」と野次を飛ばされようものなら、轟くんは「誘ったのは俺だ」と律儀に訂正なんかしてしまったりする。野次った張本人である上鳴はヘンテコな顔をして「あ、そ、そーなん?」と反応に困っていたし、あの一連の流れというかノリというものは、轟くん本人が受け流すからやっと成立していたものなのだと実感したのだ。
なにより、轟くんが私に接触してくることがぐっと増えた。ひとりの友達というにはすこし不自然なくらいに。
思い込みでなければ、その声の端々も徐々に柔らかくなった。
そんな変化のせいで、図らずも轟くんのことを意識してしまったりして。そのたび、こんなのは不可抗力だ、全人類がこうなるに違いない、と早まる鼓動を正当化してきた。
「えぇー、アタシにはただの両想いにしか見えないんだけど、付き合ってないとしたらどこまでがノリ? 今でもホントに轟のこと推してるだけ?」
三奈ちゃんの言葉にびくりと肩が跳ねる。
正直、私にはもうわからなくなっていた。足元にしっかりと引いていたはずの線が、いつの間にか滲んで見えなくなってしまっている。
「芦戸、話してるとこ悪い」
ふいに頭上から低い声が振ってきて、顔を上げる。まさに私たちの話題の中心にいた人物がこちらを見下ろしていた。
「芦戸の話が終わってからでいいから、みょうじ借りてもいいか」
「あは、轟! 別に大したこと話してなかったし、アタシは後回しでいいよ。てことでみょうじ、行ってらっしゃーい」
にんまりと笑って三奈ちゃんは私の背中を押す。「じゃあみょうじ、ちょっといいか」と目線で合図をするので、背中に刺さる視線の圧を感じながらそのあとを着いていく。
明日、三奈ちゃんからの鬼のような追及を受けるのは避けられないだろう。
エレベーターホールはこの時間帯、あまり人が通らない。それを知ってか知らずかはわからないけど、轟くんは私を談話室からそこへ連れ出した。
「みょうじ。今度の日曜、時間作れねぇか」
轟くんは私のほうをくるりと振り返るやいなや、淡々とそう言った。
わざわざ二人きりになって改まって何を言われるのかと思えば、これってまるで――。
「えっと……二人で?」
半分裏返った声でそう尋ねると、轟くんは頷いた。一瞬だけ視線を逃がしたあと、大きな手のひらがその逞しい首元に宛がわれる。
「お前がよければだけど、一緒にどっか出かけねぇか。……お前と話してるといっつも誰かしらが入ってくんだろ。もちろんそれが駄目だってわけじゃねえが、邪魔されずにゆっくり話したいことがあって」
「え゛っ、なに」
戸惑いと緊張で反射的に聞き返してしまった。轟くんは「え」と小さく母音を漏らして珍しく面食らう。しまった、全然空気読めてなかった、と思ったのはそのあとだった。
「……そんときでもいいか? 言うの。ここじゃ無理だ」
轟くんの二つの瞳が私を見る。いつもと変わらない表情の中、その瞳の奥にじんわりと熱が籠ったような気配が漂っていてどきりとする。
何か大変なことを聞いてしまった気がして、にわかに体中が熱が集まってきた。轟くんのが移ったみたいだ。
そのとき、エレベーター上のランプが点いて扉が左右に開く。中から出てきたスウェット姿の上鳴くんと切島くんが私たちを見て「おっ」と声を上げる。
こちらに歩きながら上鳴くんが「お前らまーたこんなトコで――」と口を開いたけれど、私と轟くんに交互に視線を滑らせたあとも、その続きが紡がれることはなかった。
「……ン゛……やっぱなんもねーわ!」
「気持ち悪いから途中でやめないでよ」
「だってさすがにもうイジれねーよ! ガチすぎて冗談になんねーし……つーかなにその甘酸っぱい雰囲気、息できなくなるっつーの! 頼むから爆発しろォ!」
上鳴くんは声を上擦らせながらそう言って、最後に泣き声で「なあ爆豪」と後ろを振り向いた。
はっとして二人の背後に視線をやれば、彼も遅れて歩いて来ていた。不快そうに細められた爆豪くんの目と視線が絡む。鈍い赤が私を捉えたのは随分と久しぶりのことだった。たぶん、私が彼に好きだと告げたあの日以来だ。
「知らねェ、興味ねー」
気怠そうに大股で歩きながら爆豪くんはそう言った。私と轟くんとの間にできていた絶妙なスペースを、彼は避けもしないでまっすぐ貫いて歩く。
すれ違いざまに聞こえた舌打ち。軽蔑するみたいな眼差し。胸の奥で心臓がどくどくと律動するのがわかる。胸の奥でいまだ燻っていたらしい感情が煤になって、吐き出した息も喉元でつっかえる。思わず噎せそうになる。
すたすたと歩いていく爆豪くんの後ろに、上鳴くんが「んじゃお幸せになー」と言い残して続いていく。
「みょうじ」
沈黙が帰ってきたあと、轟くんに呼ばれてはっとするように顔を上げた。
「話戻すけど」、とわずかに改まったような轟くんの声に安心する。
冷や汗が滲んでくるような心地の悪い拍動はまだ続いていた。時が来ればこの煤けたような感情も完全に消えてなくなるはずだとのんきに構えていたけれど、一体その「時」はいつになればやってくるのだろう。
さすがに焦りを覚えてしまった私は、このあとに轟くんが続ける言葉に対して、たぶん首を縦に振るのだろう。
◇
「それってつまりデートでしょ?」
三奈ちゃんは両肘を机に立て、顔の前ですっと両手の指を組み、ひどく厳かな声色に変えて続けた。ついでに画風も変わる。
「絶対告られるじゃん」
「……やめてよ。そんなこと言われると変に意識しちゃうし、それに轟くんのことだから突然斜め上の話振ってくるに決まってるよ」
「またまたぁ、すっとぼけちゃってさ。もうフインキで分かるでしょ! どーする? 付き合う? ってゆーか、みょうじが轟を断る理由なんてないか!」
「えっ」
「えっ? だって轟のこと好きでしょ? 一緒にいて楽しくないの?」
「す……きか嫌いかで言われたらもちろん好きだよ。一緒にいて楽しいし安心するし」
その言葉には嘘はないのだけれど、果たしてこの感情が正解なのかが私には分からない。
窓際の席に目をやる。色褪せたような爆豪くんの毛先がわずかに風に靡いている。ぎゅうと心臓を握りつぶされるような感覚が胸に走って、そうそうこれこれ、と確認をする。
私が知っている恋って、これだ。苦くて痛い。でもなぜか捨てられない感情。
この苦みは、轟くんと一緒にいるときには感じたことがない。名前を呼ばれたとき、かすかな微笑みを向けられたとき、苦みの代わりに胸のあたりが痺れるような甘さは感じることがある。でも、だから不安になる。
恋ってこんなに簡単で、甘いだけでいいものなんだっけ。
――このところ少女漫画の主人公を気取って、恋ってなんだっけとかくだらないことばかり考えていたせいかもしれない。
天井を仰ぎながら、私はバカな自分を呪った。
全身の至るところがズキズキと痛い。ここが校舎じゃなく、寮の非常階段で心底よかったと思う。公衆の面前で豪快に階段で足を滑らせて転ぶなんて、もっと最悪だっただろう。
「いっ、た……っ!」
起き上がろうとして右足を地面についたら、足首に激痛が走った。どうやら捻ってしまったらしい。
先週も一度授業の怪我でお世話になっているからリカバリーガールが直してくれるかはわからない。たぶん放っておいたって一週間もあればよくなるだろうけど、こんなどんくさい理由で今日の演習を見学しなければならないとなれば相澤先生にはこの世の終わりみたいな呆れ顔をされそうだ――。
考え始めると、とたんに気分が落ちてきた。
辺りを見渡せば、転んだときに落としてしまったらしいスマホは階段の上のほうに残っていた。三奈ちゃんか透ちゃんか――比較的登校が遅い誰かならまだ寮に残っているだろうから、申し訳ないけど来てもらって保健室まで肩を借りよう。
なるたけ足首を使わないよう、這いつくばるみたいにして階段を上っていたら、上から誰かの足音が響いてきた。
「……ア? なんだテメェ」
「あっ……」
その声の主は爆豪くんで、踊り場から階段に這いつくばる私を仁王立ちで見下ろし、顔を顰めていた。紛れもなくドン引いている顔だ。まあ、無理もない。
それにしても、何でよりによってこんなときに通りかかるのが爆豪くんなんだ。不運が重なるにしても、もうちょっと程度があるだろう。
渦巻く痛みと絶望と羞恥で泣きたくなっていると、爆豪くんは何も聞かずに再び階段を降り始めた。途中で立ち止まると私のスマホを拾い上げ、無言でこちらに差し出してくれた。
「……ありがとう」
爆豪くんは返事をしない。私を通り越してそのまま階段を降りたかと思えば、今度は下の踊り場に落ちていた私のバッグを拾い上げる。教科書がたっぷりと入った軽くはないそれを、爆豪くんは軽々と片手でぶら下げ、「ン」とまた私に差し出した。
「……ありがとう。ごめん」
へたり込んだままそれを受け取ると、チッと舌打ちが返ってくる。
「つーかどんくせェヤツは大人しくエレベーター使っとけよなァ」
「だって頑張ればこっちのほうが早いんだもん。爆豪くんなんて私より上の階から階段使ってるじゃん」
「俺はいーんだよどんくさくねェから」
「はは……いやほんとそうだよね。気を付ける」
なんてどんくさい返しなんだ。もう存在自体がどんくさい。頭を抱えたくなる。爆豪くんは眉間に皺を寄せたまま、座ったままの私を見下ろしていた。
「立てんのかよ」
「うん。ただ右足捻ったっぽくて歩きにくくて。肩、貸して……くれたりしない……よね」
「あ?」
「……うそ! 冗談だってば! 振った相手にこれ以上優しくしろとか言わないよ」
体も痛ければ、唇から零れだすセリフすらも痛々しい。でも、こうして自虐して笑い話にすれば爆豪くんも「あっそ」って流してくれるかと思ったのだ。
ゆっくり降りるから気にしないで行って、と言い直して手すりに手をかければ、爆豪くんは案の定「あっそ」と言って階段を降りていった。
足音が小さくなるにつれて、さらなる羞恥が込み上げてくる。アドレナリンが切れ、じんじんと拡大していく痛みも相まって、子供みたいに目尻から涙が滲む。「ほんと最悪」とひとりごちた。
よろよろと立ち上がろうとしたら、ダンダンとまた私以外の足音が響く。今度は一体誰だ、と慌てて涙を拭いて折れたスカートを整えていると、階下からさっきぶりに見る色褪せた髪が覗いた。
「……肩。貸してやっからそのカバン寄越せ」
◇
「あのババア、いねーじゃねえか」
ちょうど朝礼の時間帯であるせいか、保健室にはまだリカバリーガールはいなかった。
ここに来る途中にすれ違ったブラド先生に、相澤先生にもこの状況を伝えてもらうように頼めたので、私と爆豪くんが無断遅刻になることはないだろうが、今は爆豪くんを付き合わせてしまった罪悪感でいっぱいだ。
爆豪くんの逞しい肩は私が多少よろけてもびくともしなかった。肩に回した手のひらの先を掴んでくれた角ばった手のひらが頼もしかった。「早く歩け」と怒号を飛ばされるかもと思っていたのに、ちらりとこちらに視線を向けながら、時折歩調も緩めてくれた。
もう終わったはずの恋なのに、私は爆豪くんのこういうところを好きになったんだろうな、と一歩進むたびに再認識してしまった。
「……ほんとにありがとう。先生来るまで待つから、爆豪くんは先に教室戻ってて。一緒に遅刻させてごめんね」
ソファに下ろしてもらったあとそう言えば、爆豪くんは「別に」と顔を逸らした。
「それより早く足冷やしといたほうがいーだろ」
「うん。ちゃんと冷やしとく」
私が蠢いた気配を察知したのか、ものすごい勢いで爆豪くんはこちらを振り向いた。中腰状態だった私の肩を、爆豪くんが両手で押し返す。ばふんとソファの上に逆戻りした私に爆豪くんは捲し立てる。
「座っとけ! 足動かすんじゃねー! テメー、ヒーロー志してて捻挫の対処法すら知らねェのかよ。クソだな」
「そ、それぐらい知ってるよ。何もクソまで言わなくてもいいじゃん!」
「ウルセェ。いーから待ってろ」
爆豪くんはがさごそと保健室の中を勝手に漁り、手際よく氷水の入った袋を用意してくれた。
爆豪くんの骨ばった手がハイソックスを脱いだ足首にそれを宛がうと、またたく間に冷たさが膝のあたりまで伝播する。
目の前、私の足元に屈んだ爆豪くんのつむじを見て、ぎゅうと喉元が締まった。呼吸がしづらくなる。足以外の痛みは引いたのに、今更になって目頭が熱くなる。
――待って私、何に対して泣きそうになってんの。
泣かない努力も虚しく、スカートの上にぱたりと涙が零れた。爆豪くんの視界に入ったそれは、ぴくりと爆豪くんの目元を引き攣らせた。どうしよう、気付かれた。
それでも爆豪くんは私のほうを見上げないから、きっと気付かないふりをしようとしてくれているのだろう。それはさすがの私にもわかっていたのだけど、このまま無言で涙を落とし続ける時間を想像すると耐えられなくなって、思わず唇を開いていた。
「……ごめん」
「……何がだよ」爆豪くんは口元だけで低く呟いた。
「……いや、ううん。別に」
「ハァ? ンだよ。ブン殴られてぇのか」
爆豪くんが声を荒げるので、私は泣きながらに笑った。
爆豪くんだってやっぱり優しい。荒い言葉を使ったのはきっとわざとだ。
それに、さっき階段で私に肩を貸してくれるときも爆豪くんは私にこう言った。
『……もう期待とかすんな』
頭の中でその声を反芻したら、込み上げる涙の量が増えてしまった。好きだった人に突き放されて、悲しいのに嬉しいなんてバカみたいだ。
「約束するから安心してよ」、なんてへらへらと笑って答えたくせにもう泣いている私のことを爆豪くんはひとつも責めないまま、彼の大きな手のひらの中で揺蕩っている氷が、少しずつ小さくなっていった。
◇
ホームルームのあと、保健室に迎えにきてくれたのは轟くんだった。
入ってくるやいなや私の腫れた足首に視線を落としながら「……痛えか? そりゃ痛えよな」と自問自答したので、思わず吹き出してしまった。
「無理すんなよ。今足使うと治んねえぞ」
リカバリーガールは市内の病院に行っていて戻りは夕方ごろになるらしいことがわかって、とりあえず今日の授業はこのまま乗り切らなければならないことになった。
それを話すと、轟くんはこちらに歩んできては私のとなりに腰掛ける。
「腕、回せるか」
私は躊躇しながらも轟くんの肩に右腕を回す。手のひらは一回り大きい轟くんのそれに掴まれて、よろけないようにとぐっと下に力が籠められた。
「立てるか? 手、痛かったりしたら言えよ」
爆豪くんとはちがって、轟くんはこんな密着した体勢でだって遠慮なくこちらへ視線を送ってくる。私は俯いたまま返事をした。どんな顔をすればいいかわからなかったし、まだ赤らんでいるかもしれない目元をできるだけ見せたくなかった。
ゆっくりと立ち上がる最中、私は轟くんに尋ねた。
「もしかして、また誰かに唆された?」
「何がだ」
轟くんはきょとんとしていた。
「ほら、いつもみたいに『みょうじが喜ぶからお前が行ってやれよ』みたいな」
「……ああ。そういうのはなんもなかった。むしろこういう役割は芦戸とか麗日とかのほうが、お前にとっては変に気ぃ遣わなくて済むからありがてぇのかもな、とか思ったんだが――」
「ん?」
「お前をここに連れてきたの、爆豪なんだろ。戻ってきたあいつから、お前に肩貸してやったって聞いて。そしたらなんつうか――嫌だって思って。俺が行ってやれてたらよかったのにって思っちまった。自分勝手でわりい」
「……そんなことない! 来てくれてありがとう」
すこし沈んだような轟くんの声が悲しくて、ちょっと場違いなぐらいに明るい声で言う。いつもより近い距離で轟くんの瞳と視線が絡んだ。ふっと安心したようにその目尻は和らぐ。
同時に『もう期待とかすんな』という爆豪くんの掠れた声が頭の中に反響した。
轟くんにわざわざ言ってお膳立てするようなこと、べつに誰も頼んでないのに。爆豪くんと関わると、私はどこまでも惨めだった。
もう終わったはずの恋が、いつまでもぶすぶすと燻っていた。こんなものは感情じゃなくただの残骸だ。無視して、いい加減前に進まなければ。爆豪くんだってそのほうがいいと思っている。
それに、芽吹き始めたばかりだけど、あいまいだけど、轟くんに対する前向きな感情もだいじにしたいと思う。
「あのさ」と轟くんを見上げると、彼は保健室の扉を開ける手前で律儀にも立ち止まってくれる。
「……日曜のことだけど、行けそうにないかも」
――あ、あ、あれ?
頭で考えていることとはぜんぜん違うことを唇が紡いでしまった。本当は「日曜、楽しみにしてるね」って言いたかったはずなのに。
「ああ、お前の足治ってからだな。俺も無理させたくないし」
「……そうじゃなくて、轟くんとは一緒に行けない」
ぼろぼろと何かが剥がれていくような感覚に苛まれる。自分が自分じゃなくなるみたいだった。
何も言わない轟くんの顔を見て、やっと自分が何を口走っているかわかった。はっとして慌てて「えーと」と間に合わせの言葉を零す。
轟くんは私の言葉が続かないのを確認してから、「みょうじ」と私の顔を覗き込んだ。
「だったら今言うが、俺はお前が好きだ。……たぶんだけど、お前がよく俺に言うのと同じ意味じゃなくて、もっとちゃんとした気持ちだ。たとえば、お前のことは俺が独り占めしたいとか、他のやつに渡したくねえって思うような。俺が言ってんのはそういうやつだ」
「伝わるか?」とすかさず首を倒して尋ねてくるけれど、頭の中で処理が追い付かない。天気予報みたいに涼しげなトーンと、その内容が噛み合っていない。私は今、ものすごい重大なことを言われたはずなのだが。
「みょうじは俺のこと、どういうふうに思ってるんだ」
「えっ、と……轟くんのことは友達として好きだし、いつも一緒にいて楽しいよ」
「それだけか」どことなく落胆が滲んだ声。
「そ、それ以上なのかどうかは……ごめん、私にも正直まだわかんなくて」今の私には言葉を取り繕う余裕がない。
「わかんねえんだったら……じゃあ、お前も俺と同じかどうか確かめればいいんだよな」
轟くんは思案を断ち切るように言う。
どういう意味かわからずに「え」とか「あ」を漏らしているあいだに、轟くんは私の右手をより強く引いた。操り人形みたいに私の体は轟くんのほうに寄せられる。私よりいくらか高い轟くんの顔が傾いて、さらさらと赤い髪が目の前に落ちてくる。視界が埋まる。
唇が重なったのを理解したころには、もう唇は離れていた。
目の前にいる轟くんの顔にピントが合って、今起きた出来事が幻じゃないことを実感したとたん、ばくばくと心臓が脈を打つ。
一見いつもと変わらない涼しい表情をしているように見えたのに、よく見れば轟くんの顔がほんのりと赤く色付いている。
――なにそれ、自分でしたくせに? そう言いたいのにうまく声が出せない。あまりの羞恥に逃げ出したいのに足も手も物理的に動かない。ただぱくぱくと唇を開いて閉じる。
「……わりい。お前が今咄嗟に逃げられねぇの、わかってたのに」
「……あ、いや、ううん」
「嫌、だったか」
まだ動転したままで考えはまとまらないが、嫌悪感は一ミリも感じなかった。
ふるふると首を横に振る。轟くんが私の右手の指を握る力が、きゅっとわずかに強まった。
「――今、俺はお前以外のこと考えられないし、壊れたみてえに心臓がうるせえし、あと、今の一回だけじゃぜんぜん足りねえって思ってる。みょうじ、お前も同じか」
轟くんの言われるがままに考えてみれば、私だって轟くんのことしか考えられなくて、口から心臓が飛び出そうなぐらいに心臓は跳ねていて、もう一回したいとか――それはちょっと、やっぱりわからない。そもそもこれ以上は心臓がもたない。
「……ほとんど同じだけど、轟くんみたいな人にこんなことされたら、誰だって……」
思わずそう言ってしまうと、轟くんの顔がわかりやすくムッと顰められた。
「俺はお前にしかしねぇ」
「う、そ、そうだよね、誰にでもするわけない、よね……変な言い方してゴメン」
ああ、と低く頷く声がどこか甘く耳元で響く。何かに耐えるようにぎゅっと目を瞑った。
どうしよう。このままじゃ絆されてしまう。
轟くんとの約束を思わず断ってしまったのは、きっと私の中でまだ「あの恋」の火種が消え切っていないからだ。轟くんへの感情ときちんと向き合いたいと思ったのは本当だけど、きっとまだ私には時間が必要ということだ。
こんな中途半端な状態で轟くんと特別な関係になるなんて、ただの現実逃避にならないだろうか。漠然と「ダメだ」と思う。
「俺じゃ駄目な理由があんのか」
私の険しい顔からなにかを察したのか、轟くんの躊躇いがちな声が降ってくる。
「……好きだった人が、まだたまに頭の中に出てきちゃって」
「だった、つうのは」
「あ、もうとっくに振られてて。きっぱり諦めたんだけど、完全に忘れるまでにはまだ時間が必要みたい。だから――」
「え。でも今お前、俺のことしか見えてねえよな。どきどき、してるんじゃねえのか。だったら、そいつはもう関係ねえだろ。問題は、俺の気持ちとお前の気持ちが同じかどうかだって思う」
轟くんは純粋な疑問としてそう言っているらしい。声と表情でわかった。呆気に取られる私に、「俺、都合のいいこと言ってるか」と首まで傾げてみせる。
「……それに俺には、お前も俺と同じ気持ちなんじゃねえのかって、そう見える」
ねだるような熱っぽい目付きがずるい。飾り気がない言葉もずるい。私をうまく篭絡してやろうとか、そういう薄汚れた魂胆が見えていたほうがまだよかった。私がもはや轟くんの目をちゃんと見れなくなってしまっていることとかもぜんぶ見透かされていることがわかって、恥ずかしさで死にそうだからだ。
「それでもお前が俺を選ぶのは現実逃避だっつうんなら、別に俺はそのままでいい。そのまま俺を選んでくれれば」
「いや、でも――」
あいまいだったラインを勢いのままに飛び越えてしまうのはいけないことだろうか。あの罰ゲームの質問みたいに、誰かひとりを選ばなければ死んでしまう世界でもないのに轟くんの手を取るのは、いけないことだろうか。
とめどなく沸いて出てくる問いかけの答えを他人に委ねるなんて、いくらなんでも虫が良すぎるけど。
「だってそんなの、最初だけだろ」
今度はなんの疑問も抱かず、当たり前のことみたく轟くんが言ってのけた言葉。
それは私の中で燻っていたなにかを濁流のようにものの一瞬で絡め取って、奪い去ってしまった。