「お前のためならいつ死んだっていいんだ」、そう言っていたヒーローだった父は本当に私を庇って死んでいった。その瞳に灯っていた光が消えるとき、頬を滑り落ちたぬるぬるとした指先の感触は、今も鮮明に残っている。
 だんだん吸い込める酸素の量が減っていくような心地がして、息苦しさで目を覚ました。外はすっかり濃紺に染まっていて、電気も点けていなかった部屋の中も、とっぷりと同じ色に塗り替えられている。
 ソファに座ったのはまだ昼間だったのに、一体何時間眠っていたのだろう。寝起き特有の鈍い痛みを堪えるように頭を抑えながら身を起こすと、同時に玄関から物音がした。ずんずんと、間隔の広い、遠慮のない足音が近付いてくる。紛れもなく彼の足音だと、まるで飼い犬のように家主の帰宅を確かめる。
 勝己くんが部屋の電気を点ける。眩しくて目を瞑る。彼は暗闇で蠢いていただけの私の姿を認めて「……何しとんだお前」と低く呟いた。

「つーか、このクソ熱いのに冷房ぐらい点けろよ。ぶっ倒れんぞ」
「……うん。ずっと寝てて、ちょうど今点けようと思ったところ」

 ゆらりと立ち上がる私に勝己くんは返事をせず、呆れたようにため息をつくだけだった。
 彼はずんずんと重たい足音を鳴らしながら荷物を置き、エアコンのスイッチを入れ、キッチンに向かう。唸るような音とともに生ぬるい空気がエアコンから吐き出されるのと、勝己くんが私にコップ一杯の水を差し出すのは同時だった。

「水、ちゃんと飲んだんかよ」
「飲んだよ。……お昼に」

 私が答えると勝己くんはヂッと舌打ちをして、「だから『そう』なんだろうがよ」といかにも体調の悪そうな私を指さして怒鳴りつける。反論の余地は微塵もなかった。「気を付ける」と反省した素振りを見せるものの、勝己くんは「このバカが」と激化した暴言を吐き捨てるだけだった。
 どうにも夏の私は調子が悪い。頭がぼうっとして、特にひとりでいるときには、思い出したくもないことばかり脳裏に浮かんでしまう。コンクリートの上の蜃気楼とか、汗で張り付いたシャツとか、そういうものが私をいとも簡単に忌々しい過去に引き戻してしまう。
 なるたけ取り繕って生きてきたつもりだったけれど、これまでの人生で勝己くんの目だけは誤魔化せなかった。今こうして同じ屋根のしたで寝食をともにしているのも、彼の同情心からだ。幼いころから私と私の父のことを知っていたせいで、彼は私のことを放っておけないらしい。
 私は勝己くんのそんな致命的な情の深さを、拒んであげることもできないままここまで来ていた。

 一緒に食事をする。早く家を出るほうを送り出す。帰って来たらまた一緒に食事をして、シャワーを浴びる。眠る前にはたまにベランダに出て、頬にさわる夜風を感じながら一缶のお酒を分けて飲んだりする、とりとめもない毎日だった。
 そのときに話すのもひどくどうでもいいことだ。けれど勝己くんは定期的に同じ話題を口にする。

「つーかここ、いい加減引っ越すか? 若干狭えだろ」

 そのたびに私は「狭いって思ったこと、一度もないよ」とだけ返事をする。彼の想定している引っ越しの荷物の中にはいつも自分が含まれていることに、違和感を覚えるからだ。
 彼の優しさに漬け込んで甘えているのは自分のくせに、そういうところだけ自分勝手になりきれないのはどうなんだ。でも、勝己くんにだって人生がある。いつまでもこんなふうに私と、八階のベランダから街の明滅を眺めながらくだらない話をしているわけにはいかないだろう。
 今夜は凪いでいた。シャワーを浴びてベランダに黒いタンクトップの背中を見つけて出てみれば、生ぬるい空気で満たされた空間がそこにあった。
 手すりに頬杖をついた彼が、私に後ろ手で缶に入ったチューハイを渡す。二口飲んで、中途半端に宙で浮いていた分厚い手の中に戻した。
 彼の右隣の手すりに両手を預けたら、それを待っていたかのように勝己くんは口を開いた。

「……来月、引っ越すわ」

 彼のほうを向いたら、鈍い赤の瞳と視線が絡んだ。まだ濡れている前髪は一部だけくしゃりと立ち上がっていて、どことなく子どもっぽく見える。
 すぐに返事ができなかったのは、ずっと同じところで終わっていたはずの会話が突然進展したことにびっくりしたからだ。まるでゲームの中の決まったセリフしか言わないキャラクターが自我を持って、こちらに問いかけてきたような。
 呼吸をしたら、生ぬるい空気が肺の中にむわりと充満する。
 勝己くんは私の返事を待つのに痺れを切らしたのか、手の中の缶をべこ、と圧し潰して鳴らした。

「お前も来い」

 続いた言葉に、私は息を呑む。
 あれだけはぐらかして来たくせに、胸の奥にはこそばゆいような温かい感情が沸いてしまう。それを奥歯で噛み殺す。

「……なんで?」

 勝己くんはぴくりと眉を寄せた。また機嫌を損ねたかもしれないが、彼の手の中の缶チューハイはかろうじてまだ形を保っている。

「なんで、とか……なんでもクソもねーだろ。今お前が住んでんのはここだろーが」
「置いてもらってるようなものだし、もし引っ越すなら私も新しいとこ探すよ」
「んなもん、ムリだ」
「ムリってそんな、子どもみたいなこと――」
「俺がじゃなくて、お前がな。……いーから黙って使っとけよ、俺のこと。わざわざひとりになろうとすんな。いんだろ、俺が」

 夏の夜に沈めるようにして、勝己くんは声のトーンを落とした。バカみたいな言い合いから一点して、彼が私の心の奥の本音に触れる。私の考えていることなんか、想像がつかないわけがないとでも言いたいのだろうか。胸ぐらを掴まれたような気分だ。
 やっと吹いてきた一縷の夜風が、勝己くんの色素の薄い髪を揺らす。懐かしい、どことなく子どもじみた額が一瞬だけあらわになる。
 ずっと前、この人のことが好きだった。けれど今は彼を前にして、好きとか嫌いとかのどんな言葉を吐いたってしっくり来ない。ただ言えるのは、私には彼が必要だということ。もし彼まで失ったら今度こそどうにかなってしまいそうなくらいには大切だということ。
 もしかしたら、この名前のない関係を手放せないのは勝己くんも同じなのかもしれない。彼の大きな手のひらが、ゆっくりと私を頭のうしろから抱き寄せるから、そう思ってしまった。分厚い肩口に鼻先を押し付けられる。私の髪を巻き取るみたいに、指先がうごめく。どこか懐かしいような匂い。たまらなくなって、私は泣いた。

 彼の部屋の隅にあるベッドの上は、彼の気配で満ちていた。絡めた指の隙間を、勝己くんが手のひらをよじって埋める。
 今までずっと彼とは別々の部屋で眠っていた私は、これほどまでに安心できる空間がこの世界にあったなんて知らなかった。
 ブランケットの中に籠った彼の高い体温は、恐ろしいくらいに眠気を誘う。ぜったいに悪夢なんて見ないと信じられる。

「……勝己くん」

 重たい瞼を持ち上げながら呼ぶと、「ん」と掠れた声が返ってくる。

「いなくならないで」

 声と呼ぶには不十分なボリュームで言う。
 彼は鈍い赤を私に向けたまま、絡めた手にきゅっと力を込めた。

「お前がいんだから、死んでも死なねーよ」

 その声は柔らかで、優しい。唇ではなくて、もっと深いところから紡がれた言葉のようだった。
 私がずっとずっと望んでいたものが差し出されたような気がして、閉じた瞼の隙間から、また涙が零れた。

title by 溺れる覚悟
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