「教室に落としてたよ、タオル」
「……あ、わり。サンキュ」
「うん。じゃあね」
服とかタオルとかを放り投げるみたいに置くくせはいい加減やめたほうがいい、だから仕舞い忘れたりするんだ。以前のわたしならそんな小言のひとつやふたつを言っていただろうが、要件が終わったらすぐに踵を返した。
視線を感じたからだ。背中にも、顔にも、足のあたりにも。そのなかのひとつは國神くんのだとわかるけれど、それ以外はわからない。興味もないですという涼しい空気をまといながら、いくつかの視線は確かにわたし――いや、正しくは、わたしと話している國神くんを見ていた。
たぶんだけど、先週わたしに「國神と付き合っているのか」と聞くようにうちのクラスの男子に頼んだ誰かの視線も、そこに含まれているのだろう。
のんきなわたしはそんなことがなければ、幼馴染の國神錬介との接し方には十分に配慮すべきだということに、今の今まで気付かなかった。
予兆なら、あったのに。
冬、帰り道に校門でふと出会った彼に「バレンタインだったけどいくつ貰ったの」と尋ねたときに「七個ぐらい」とやけに生々しい数字が零れたこととか。夏、体育祭の日にテントの下から見たグラウンドのなかを、その逞しい体躯はわざわざ探さずとも見つけられることに驚いたこととか。となりに座っていたクラスメイトの女の子の、なぜか声を押し殺したような応援、とか。
毎日見ている担任の先生が十五キロ太って、やっと太ったと気付くのと同じだった。昔から知っているはずの彼が、多くの女の子たちの視線や身を焦がすような感情を集める存在になっていると、高校一年も終わりに近付いた今、やっと理解したのだ。危なかった。これ以上、身の程を弁えないやつだとか、幼馴染だからといって無駄に國神錬介の周りをうろつく鬱陶しい存在だと思われたくはなかった。
部活を終えて校門に向かう途中、サッカー部員が並んでグラウンドにトンボをかけているのが見える。去年の夏頃には身長が百八十五を超えたと言っていた彼の姿は、探さずとも目に飛び込んで来てしまう。
帰る時間がかぶるとなんとなく一緒に校門を出ていたけれど、それももうやらないほうがいい。けっして追い付かれたりしないように足早に帰路を辿る。
自室に帰ってくるとまっさきに、無駄に分厚い教科書が入ったカバンをどすんと床に置いた。
面倒な課題を先に片付けようと机に向かう。わたしの部屋の机のうえには、小学校の卒業式の日の写真が飾ってあった。ぴんと伸ばした人差し指と中指でピースを作っているとにかく頭の悪そうなわたしのとなりには彼が写っていた。
わたしが彼のことを好きだったのは、このころの約一年だけだ。クラスの男子にいたずらでランドセルにぶら下げていたマスコットを奪られたときに、彼はそれを取り返してくれた。「また奪られたら俺に言えよ」と頭に乗せられた手のひらが優しくて、恋なんかしたことがなかったわたしの心は春風に吹き上げられるかのごとく浮かれてしまった。
――懐かしい、と思う。そんな淡い感情は、いつの間にか時間とともにさらさらと消えてしまったけれど、体育祭の日に声を押し殺して彼の勝利を祈っていたあの子とか、人づてにわたしと彼の関係に探りを入れた誰かと同じように、「彼がばかみたいに優しい」という事実だけは、わたしだって知っている。
◇
お風呂上がりで火照った体が冷めたころ、わたしは「コンビニ行ってくる」と告げて家を出た。
本棚に並んだ今日発売の漫画雑誌を手に取って、目当てのページをぱらぱらと探す。家族で回し読みをするから結局は買って帰るのだが、無邪気に続きをバラされるので、好きな漫画だけはどうしてもここで読んでおきたくなる。
静かな夜のコンビニのなかに、聞き慣れた入店メロディが響く。そんなことよりも続きのコマが気になって視線を上げずにいたら、人の気配がすぐとなりまでやって来た。
「よ、なまえ」
片手を挙げて近付いてくる図体の大きな男を見て、べつに見られて困るページでもなかったのに慌てて漫画本を閉じた。
「あ、れん……國神くん! どうしたの」
「別に。ぶらっと、炭酸でも飲みてえなって思って」
一瞬だけ目元がぴくりと引き攣ったように見えたが、雑誌棚にそれとなく目をやりながら彼は続けた。彼も部屋着なのだろうか、スウェットの上下は彼の体躯に馴染んでいて柔らかそうだし、リブになった裾から覗く足首の下は、わたしのよりも一回りも二回りも大きいサンダルを履いていた。
「お前は立ち読み、だろ。月曜にランニングでここ通ったら、たまに見かけてたし」
「そうなの。初耳なんだけど。なんか恥ずかしい、いつもお風呂上がりに来てるから」
大して意味もないのにスウェットの首元を引っ張り上げて顔を隠そうとするわたしを、彼はどこかまどろむような目で見下ろした。
「だろ。お前ならそう言って怒るかもと思って声掛けなかったけど」
「どっちもどっちなんだけど」
彼は笑わなかった。元からげらげらと笑うほうではない彼は黙っていれば不愛想に見えるが、口を開けばつんと張ったような空気は一気にほぐれる。
それなのに、今日の彼のまとう空気は一向に弛まなかった。何も言わない彼のとなりはやけに居心地が悪くて、わたしは手のなかで皺になりはじめた雑誌を抱えて「じゃあ」と彼のそばを通り過ぎようとしたら
「――あっおい、待てよ」
わたしの肩を彼の大きな手のひらが掴むので、思わずびくりと肩が跳ねる。
それは怯えているように彼の目には映っただろうか。まっすぐにわたしを見下ろす橙の瞳のうえ、眉根はすこしだけ寄せられていた。
昼間に廊下で会ったときはうまく逃げられたけど、この状況ではそうもいかない。
「……つーか、言いたいことがあんなら直接言えって」
彼ならすぐにわたしの異変に気付いてこう言うと思っていた。距離を置こうにも、あからさまでは聡い彼には気付かれて追及される。だからゆっくりとフェードアウトするようにしなければ、と思っていたけれど、そこまでの技量はわたしにはなかったようだ。
「……何が?」
この期に及んでしらばっくれたわたしに彼は答えてくれずに、引き結んだ唇をいびつに曲げる。
「俺、お前になんかしたか?」
「ううん」
「じゃあ何で俺のこと避けてんの。言いたいことがあんなら言えよ」
「ない、けど」
本当にないからそう答えるしかないのに、それで彼が納得してくれるとは思えない。
歯切れの悪いわたしの返事を聞いて、彼はとうとうムッと目を伏せた。わたしの腕の中から漫画を引き抜いて、高々と掲げる。たぶん彼のことだから、口や態度には出さなかっただけで、きっともっと前から怒っていたのだろう。
「あっ、ちょっと! 返してよ、錬介くん!」
「ん?」
怒っているのかと思いきや、やけにやわらかなさわりの声が頭上から降ってきた。夢中で手を伸ばしていた先の漫画も機嫌を直したみたいにゆっくりと降りてきて、はっとする。付け焼き刃の呼び方が元に戻ってしまっていたと気付く。
「ありがとう、國神く――」言い終わる前に、指先が触れかけたはずの漫画はもの凄い速さでまた遠のいた。
「――だからなんなんだよソレ。次そーやって呼んでも返事しねーぞ」
「え……國神くん」
「…………」
「……錬介くん」
「……ああ。つーか、なんで今更そーゆーの気にしてんだよ。もしかして、好きなやつでもできたとかか?」
不意をつくような質問に、わたしは動きを止めた。好きなやつ、好きなやつ。頭のなかでそう繰り返してもピンと来ない。錬介くんにバレンタインチョコをあげたのはあの子とそれから誰々なのだろうとか、そういう他人の恋路ばかりを気にして、自分はどうなのかなんて考えることもなかった。
あまりに長い間黙っていたからか、漫画を高々と掲げていた彼の逞しい腕も、ゆるゆると高度を失っていく。
「……なんか言えよ。それとも図星か」
「……ううん。正直、好きな人とかちゃんと考えたことなかった。錬介くんの名前は至るところで聞くけど」
「俺の話?」
「うん。人気あるよね。彼女とか作らないの? ……あ、今、いない前提で聞いちゃったんだけど、もしかしてもういるの?」
「気になんの?」
錬介くんならちょっとばかり狼狽えて「俺の話はいいだろ」とか「話を逸らすな」とか、そういうことを言うと思っていたのに、予想に反して鋭い切り返しが来たものだから、言葉に詰まるのはわたしのほうだった。カウンターを食らった気分だ。
橙の瞳はわたしから注意を逸らさない。逃げ場がほしくて隙をついて彼の手から漫画雑誌を取り返そうとしたのに、厚い親指にぎゅっと力が入って、びくともしなかった。彼は見逃さないつもりらしい。
――もしかして、わたしが「気になる」と言ったら、錬介くんは律儀に答えるのだろうか。「彼女いるっつーか、こないだできた」とか頬をかきながら言ったりして、「お前のクラスの人なんだけど、なんとなく分かんねえ?」とか、うざったい惚気の気配を醸し出したりするのだろうか。
想像するだけで、体中を寒気が走り抜けていく。
もしも今錬介くんに彼女がいないなら、このままできなくていい。体育祭の日に白い両手をぎっちりと握りしめて錬介くんのことを応援をしていたあの子の恋も、直接わたしに「國神と付き合ってるの?」と聞くことすらできなかった臆病な誰かの恋も、実らなくていい。
錬介くんの好きな人がわたし以外の誰かなら、錬介くんの恋だって実らなくていい――。
そこまで考えてはっとした。恐ろしく利己的な感情がお腹の底に渦巻いていた。
「……聞きたくない」
「え。聞きたくねえって、話振ったのお前だろ」
「うん、そうだけど、でも……」
語尾が情けなく震えてしまう。こんなことで、こんなときに、泣きそうだなんてどうかしている。
とんでもないことに気付いてしまったのかもしれない。このままじゃ本人にだって気付かれてしまうかもしれない。
逃げ場のないこの場の空気に耐え切れずに走り出そうとしたのに、サンダルのつま先をわずかに動かしただけで、彼は右手でわたしの肩を包んだ。丸い肩の骨がすっぽりと厚い手のひらで覆われる。
「気になるって言えよ。俺はお前に聞いてもらいたい」
わたしは聞きたくないって言ったのが聞こえなかったのかな。
あいにく彼に譲る気がないことは、低くて揺らぎのないその声を聴けばわかった。半ば諦めたわたしは、すこし俯いて肩を落とす。
「ちゃんとこっち見ろ」
「……うう、ウン……」
「――つっても、今日全部言う気はねーよ」
「え?」
「こんなトコで、流れで言う気はないってことだ。そりゃ機会は伺ってたし、お前からこーゆー話振られたのだって初めてだし、絶好のチャンスだとは思ってるけど…………ここ、コンビニだしな」
思い出したみたいに彼は当たりを見渡した。煌々とした真っ白い電球は、眠らずに色とりどりの雑誌棚を照らしている。
今更何を言っているのか。困惑して「そうだけど」と弱々しい相槌を打つので精一杯だったわたしの頭のうえに、彼はぽんと手のひらを置いた。ふと小学生のころに錬介くんにこうされたときの記憶が蘇る。あのころと比べれば、彼の橙の視線はずいぶんとわたしより高いところにあるけれど、なんの罪も背負わない無垢な目元は変わっていなくてほっとする。
「……お前が俺から離れようとした理由は分かんねーけど、俺は納得してねーよ。もし、幼馴染だからっていつまでも仲良くやってんのが不自然だってお前が思うんだったら、不自然じゃない関係になれるように俺が努力すればいい。そういうことでいいよな」
撫でるとも混ぜるともいかない半端な手のひらが、すこしの名残をまとわせながら滑り落ちていく。
「そのための努力っつうか、意思表示はしてきたつもりなんだけど、分かんないか?」
つまり彼が何を言わんとしているのか、それを考えるのに精一杯だ。
わたしの勘違いでなければ、いま彼はわたしだけをまっすぐに見つめていて、わたしの答えを窺っている。わたしの勘違いでなければ、その濃い黄金色は、わたしが何かに気付くのに期待して揺れている。
昔も今も誰にだって優しい幼馴染だったから、彼の言うこと成すことには、いつの間にか期待しないようにしていた。胸の奥にしまい込んでいたその欠片を取り出してみれば、どれも眩しいぐらいに輝いている。
バレンタインの日の帰り道、嫉妬交じりに「七個なんて、いっぱい貰えてよかったねえ」と言うと「それより、お前のはねーの?」と差し出された手のひらとか、体育祭の日にグラウンドからこっちに向かってひょいと挙げられる手のひらとか、彼の活躍を讃える囲みから抜け出してきては「今日の俺、なまえ的にはどうだった?」とわざわざ尋ねてくる子どもじみた表情とか。
どれもわたしの心臓にはちくちくと刺さっていて抜けない。痺れるような甘いような恋の痛みにわたしが気付かないふりを始めたのは、たぶんもう何年も前のことだ。
「……分かんない。急にそんなこと言われても」
凝り固まったような感情は、一朝一夕でほぐれない。本当は今すぐにでも確かめて安心して、自分の気持ちもぶつけたい衝動に駆られているのに、口先だけはあまのじゃくになってしまう。
わたしの言葉を聞いた彼はゆっくりと息を吐いて、唇をぎゅっと引き結ぶ。知らない人が見たら不愛想極まりなく見えるだろうその表情の裏に何を堪えているのか、今ならわかる気がした。「あのな」と呆れたように俯いて、錬介くんはすこしだけ笑う。
「そんな顔して言ったって、説得力ねーよ」
title by 溺れる覚悟