ふとした夕暮れどきとか夏の夜とかに、たまに思い出す男の子がいる。
 べつに彼とは二度と会えないわけでもなんでもないのに、私には彼と過ごした時間が幻のように思えてならなかった。
 たしかに昔の私と彼は毎日のように他愛ない言葉を交わしたし、何度も言い合ったりしたし、たまの休日にはいろんなところに出かけたけれど、私は彼の体温すらまともに知らないのだ。目と耳だけに刻まれた「彼氏」だった男の子の記憶は、日に日に薄れていく。
 覚えているのは、夕暮れの教室で私がコスチュームの修繕を終えるのを静かに待つ広い背中と、なんの飾り気もない告白のせりふと――ある日急に振り出した雨から庇うようにして、傘の中に私の肩を寄せた大きな手のひらの感触だけ。



 雑誌棚の向こう、透明なガラス越しに見る大雨はどこか他人事みたいに思えた。
 ぽたぽたと髪の先から水滴を垂らす私を、場違いなほど鮮やかなグリーンの制服に身を包んだ店員が、さっきから不快そうな目で見やっているのには気付いている。
 今夜の天気がひどく荒れるかもしれないということは朝のニュースでも言っていたのに、馬鹿正直に今日中の仕事をぜんぶ片付けることを優先してしまった私は、ほとんどの電車の運休にくわえてタクシーすら捕まらないことに絶望し、駅のそばのコンビニに逃げ込んだ。
 そして、今に至る。
 まるで、壊滅する街から逃げ遅れた映画の主人公になった気分だった。もしかしたらもう、この街には私と、レジの中に気だるげに立っている店員のふたりだけなのかもしれないとすら思える。
 もう濡れるのは仕方ないとして、問題は明日電車が動き出すまでの居場所だ。思い当たるビジネスホテルも、電車で二駅ぶんは離れている。
 背中に刺さる店員のちくちくとした視線に耐え兼ねえて、せめて軒先に出てもう一度タクシーが通るのを待とうとドアに手をかけたとき、ちょうど外側からもドアを押し開けようとするひとがいた。
 かんたんに力で押し負けた私は、思わず後ずさる。開いたドアの向こうから、ごうごうと唸るような風の音がむりやりに雪崩れ込んできた。

「すみません」

 びしょ濡れの女の姿ほどみじめなものはない。ましてや急に見せて驚かせてはいけない、と顔を伏せたまますれ違いざまに言う。
 入ってくるひとと入れ違うように外に出ようとしたそのとき、

「……おい、なまえ」

 誰の声だったっけ、と振り向きながら考えた。絶対に、はじめて聴く声ではなかった。

「あ」

 自分で呼び止めたくせに、そのひとは睨むように目を細めて私を見ていた。視線が合ってから数秒のあいだに、たしかに私だ、と確認するみたいに何度か赤い瞳が瞬く。

「もしかして、爆豪くん?」

 その名前を紡いだのはいつぶりか。しばらく口に出すことのなかった響きがやけに自然に唇から零れたことに驚いた。
 記憶のなかよりもいくらか大人びたような彼の頬のあたりに、濡れた髪が張り付いている。
 爆豪くんは肯定の代わりに、前髪から滴る水滴を犬のように首を振って払い落とした。

「……何しとんだオメーは、んな濡れたままで。風邪引きてぇんかよ」

 彼は私がここにいることが少し前からわかっていたみたいに落ち着き払っていた。記憶のなかでグレーの制服に身を包んだままだった彼の姿が、やっと上書きされる。
 驚きでわずかに高揚していた自分の声を思い出すと今更恥ずかしくなって、ぽたぽたと前髪から滴り落ちる水越しに、ただ爆豪くんの赤い瞳を見ていた。



 半歩前を歩く爆豪くんの着ているTシャツは一点も残さず雨に濡れ、黒くなっていた。きっと、元はダークグレーだったはずだ。
 歩き出してすぐに暴風で壊れてしまった私の傘の代わりに、親切にも彼のビニール傘が差し出された。でも彼は飛ばされないように柄を支えるだけで、その身はまともに雨を浴びている。

「爆豪くん、もうすこしちゃんと傘に入りなよ。めちゃくちゃ濡れてるよ」

 雨がコンクリートを叩く音にかき消されないように、私は半ば叫ぶように彼の背中に向かって言った。

「この雨じゃもはや意味ねーだろ。家近ぇんだし、どうせ濡れんなら早く着いたほうが一億倍マシだっつの!」

 ヤケになっているようにも見えるけど、彼の言うことも正しい。現に、私の着ている服も濡れていないところを探すほうがはるかに難しくなっている。
 行く場所がないのならすぐ近くの自宅で雨風を凌げばいい、と彼が提案してくれたのも、こんな状態の私を見かねたからに違いない。文句は言うくせに、なんだかんだ、困っている誰かを放ったままでは落ち着けない性分なのは変わっていないみたいだ。
 もちろん、曲がりなりにも私と彼は元恋人同士なのにそんな都合のいいことがあってもいいものかと躊躇った。けれど今こうして彼の後ろを歩いている理由は、爆豪くんが舌打ちをして

「……急に昔のこと掘り返すんじゃねー。昔がどうこうってのは置いといて、今はフツーに仕事のおナカマだろうが」

 と気まずそうにポケットに手を突っ込んだからだ。
 直接顔を合わせたのは久しぶりでも、爆豪くんが活躍する姿はテレビニュースでよく見かけていた。そして彼も一応、私の仕事ぶりをチェックしてくれているらしく、たまに仕事用のSNSアカウントにリアクションを付けてくれることがある。その度に、眉間に皺を寄せて分厚い親指でハートマークを押している姿を想像して笑ってしまう。
 元恋人だという字面だけ見れば濁ってしまうけれど、同じ雄英を卒業した同級生とお互いの仕事に関わり合えていると思えば、たしかに私と彼はいい関係だ。
 大人になって改めて顔を合わせてみれば、あのころの私たちは「彼氏と彼女」をただ名乗っていただけに過ぎなかったのだとわかる。爆豪くんとは毎日のように他愛ない言葉を交わしたし、何度も言い合ったりしたし、たまの休日にはいろんなところに出かけたけれど、私は彼の体温すらまともに知らないからだ。
 夕暮れの教室で私がコスチュームの修繕を終えるのを静かに待つ広い背中も、なんの飾り気もない告白のせりふも――ぜんぶ、幼さとか若さとか青さとかそういう、眩しいけれど病に似たなにかの仕業だったと思う。
 あのころは本物だと思っていたけれど、目を醒ましてみれば、よくできたおもちゃみたいな恋だった。
 爆豪くんもきっと、そのことに気付いたから今私とこうしているのだろう。

 彼は玄関に私を入れると、目だけで「入れ」と合図した。全身から滴り落ちる水滴の存在を忘れたのかと思って「無理だよ」と首を振れば、「いいっつってんだろ」と彼は怒って私の手を引いた。
 ぐっしょりと濡れた足で薄暗いままのリビングを素通りして、バスルームに押し込まれる。開けようとすると、摺りガラスの向こう側に大きな手のひらが宛がわれた。

「とりあえず、のぼせ上がるまで出てくんじゃねえぞ」

 つまり、温まれと言ってくれているはずだ。「……ありがとう」と言うと「着替えテキトーに置いとくからな」という声を最後に彼の気配はドアの前からいなくなった。
 冷えた身体に熱いシャワーがびりびりと染みていく。さっき爆豪くんに掴まれた腕にはまだ感触が残っていた。
 バスルームから出てすぐのラックには、ご丁寧にタオルとドライヤーと、綺麗に畳まれたスウェットが鎮座していた。髪や下着を乾かして、頭からスウェットをかぶる。身を包む懐かしいようなにおいに、肺の中が焼け付く心地がした。
 リビングに戻ると、同じく服を着替えたらしい爆豪くんと目が合う。
 さっきはほとんど見えなかったけれど、どことなくヴィンテージ調の落ち着いた部屋はおしゃれかつ無骨だ。改めて男のひとの住まいだということを感じさせられる。前からこんなふうな部屋の趣味だったのだろうか。わざわざ別の課の寮に近付くこともなかったから、見たこともなかった。

「シャワーも着替えもありがとう。ごめんね、先に借りちゃって。おかげで温まったよ」
「……別に。俺も浴びてくる」

 頭にかけたままのタオルをゆらりと揺らして彼は立ち上がった。
 バスルームに向かう途中、その裸足は私の目の前でぴたりと止まる。あたたかい色の照明が爆豪くんの図体で遮られて、視界が暗くなる。すこし屈んだ彼の尖った鼻先がすぐ目の前に来たせいで、思わず呼吸をやめてしまった。
 影の落ちた赤い瞳が、私の顔から下へするすると降りていって、手のあたりで静止する。下ろしていた手先にたっぷりと余った布を、爆豪くんはきゅっと摘まんだ。

「……やっぱお前にはデケェな」

 ひとりごとみたいに低く呟いてから、彼はすり抜けるように離れていった。
 衣擦れの音、ドアの閉まる音、そのしばらくあとのシャワーの水音。立ち尽くしたまま無駄に耳を澄ませてしまったのは、爆豪くんと恋人同士だったころのどの瞬間よりも近くで絡んだ視線に、すこしだけ動揺していたからだ。

 爆豪くんはリビングに戻って来ると、冷蔵庫を開けながら「腹減ってんだろ」と私に尋ねた。私の答えは待たずに、彼は冷蔵庫の中身を気だるそうに抱えてキッチンの電気をつける。

「え、もしかして何か作るの。いいよ、そんなにお世話になれないし、食べるなら出前とか奢るよ」
「この天気ン中出前取るたぁ、極悪非道かテメーは」
「……あ、そうだった」

 爆豪くんは鼻で笑って、ざくりとまな板の上に刃を落とした。
 私がやるよと申し出たら「人ん家で勝手もわかんねーんだから座ってろ」と一蹴されたので、せめて作業は分担しようと、いそいそと爆豪くんの斜め後ろに立った。慣れているのか、もともと器用なのかは分からないが包丁さばきは華麗だった。こういうときに彼を誉めるとだいたい「こんなもんに上手いも下手もねえだろ」と言っていたのを思い出す。きっと、この包丁さばきだってそうだ。
 まな板のそばに積んであった野菜を洗って、皮を剥いで戻す。爆豪くんは私のほうをちらりと見やったけれど、やめろとは言われなかったのでほっとして作業を続けた。
 無言で野菜の泥をこすっている途中、なんとなく沈黙が気まずくなって

「じゃがいも、その切り方する派なんだね」

 と話題を振ると、鮮やかな彼の手つきが一瞬止まった。

「ケチつけてんのか」
「ちがうよ。ほら、細長く薄く切って出てくる店もあるでしょ。あれも食べやすいけど、こっちの切り方のほうが余計においしく感じられる気がして、好き」
「……そのハナシか」
「あれ、言ったことあったっけ」
「お前は昔っからバカの一つ覚えみてーにおんなじ話ばっかしてただろうが。……お前は三歩歩きゃ忘れてんだろうけど、コッチは無駄に頭に残っからムカつくんだよな」

 爆豪くんは舌打ちをして、さっきの倍のスピードでじゃがいもを切り込んでいった。苛立ちに任せてそうしているように見えるのに、じゃがいもは狂いもなく均等な大きさになってまな板の上に散らばっていく。
 もしかして、爆豪くんは昔この話をしたときのことを今も覚えてくれていたのだろうか。こんな、くだらないことを。
 そう言えば、彼は同じ話を何度も聞いたと言うけれど、そのことを指摘されたことが一度でもあっただろうか。私の記憶のなかでは、いつだって彼は頬杖をついたまま私の取るに足らない話に耳を傾けてくれていた。たまに目を伏せて「アホか」と呟いたり、「おー」とすこしだけ口角を持ち上げながら相槌を打ってくれたことはあったけれど――もしかして私は、爆豪くんにすごく大人な対応をさせていたんじゃないだろうか――なんて考える。
 夕暮れの教室がひどく懐かしくなる。今なぜか彼が隣にいる現実が、今になって頭上にのしかかってくる。
 爆豪くんを盗み見たら、「刃物持ってるときにヨソ見すんな」と至極まっとうに叱られた。

「ごめん。ちょっと、昔のこと思い出しちゃった」
「……もっと建設的なこと考えろや」
「だって、なんかやっぱり不思議だもん、こうやって今並んでるの。もしあのまま続いてたら、こんなふうな時間もあったのかなとか思って」

 私たちの恋愛なんてただの遊びでちっとも深刻じゃなかったから、そんな一言くらい「知るか」と流されると思ったのだ。
 爆豪くんが手を止めてこっちを見るから、思わず私も釣られて手を止めてしまう。眉間に寄った皺は少なからず私を責めていた。
 すこし怯んだけれど、彼が私を責める道理なんてないはずだ。だって、別れを告げたのは――私じゃなく――いや、どっちだったっけ。はっきりとは終わりの言葉やシーンを思い出せない。ということは、いい加減な終わりだったと思う。おもちゃみたいな青臭い恋愛にふさわしい、あいまいでお粗末な別れ。

「……爆豪くん、よそ見したら危ないよ」

 なにかは分からないがなにかを言わんとしている赤い瞳に臆して、私は話を逸らした。

「るせーわ。お前が言うな」

 彼は小さくそう言って、分厚い手の中で再び器用に刃を動かし始める。
 爆豪くんの中では、私との思い出は掘り返したくないものだったのかもしれない。そう思ったら申し訳なさが込み上げてきて、さっきの話は頭を叩いて跡形もなく忘れました、みたいな顔をして、当たりさわりのない話をしながら食卓を囲んだ。交わした言葉は多くなかったけれど、だんだん気まずさもなくなっていった。
 私たちを取り巻くざらついた空気がだんだんと、昔私たちの間に流れていたものと同じ手ざわりに戻っていくような気がした。
 けれどそれももう、この一晩だけのことだ。

 日付が変わったころ、どちらがベッドを使うかの押し問答が始まった。「いさせてもらっている側」である私が、この広い、ひどく寝心地の良さそうなベッドを使うのはばつが悪い。ベッドだと気を遣って眠れないかもしれないからソファがいいよ、とまで言ったのに、彼は自分がソファで寝ると言って譲らない。
 最後は「黙って寝ろボケ!」と怒鳴られて、両肩を思いっきり押される。ばふりとベッドに倒れ込んで茫然としている私を見て、ベッドに片膝をついたまま彼はすこし目元を引き攣らせた。やりすぎた、と思ったのかもしれない。

「……ワリィ」

 これ以上、なにを言っても意味がないと判断した私は、条件付きで彼の主張を呑んだ。

「大丈夫。じゃあ、お言葉に甘えてここで寝るね。でも、爆豪くんが眠りにくかったらいつでも交代するから、遠慮なく言って」

 リビングとベッドルームに仕切りのない広いこの部屋は解放感でいっぱいだけれど、身じろぎをしたことすら相手に伝えてしまう。
 ごうごうと唸る風の音と、雨が窓を叩く音がときどき波のように大きくなるせいで、私は「おやすみ」と彼に言ってからもなかなか寝付けなかった。
 ――今、何時だろう。ベッドサイドに置いた携帯の画面を点ける。白い光が暗闇に慣れた目に染みる。午前二時。
 ふいに「寝れねンだろ」と掠れた声がソファの背もたれの向こうから聞こえた。

「……うん。音がうるさくて、寝付けそうになっても目が覚めちゃう」
「ハ、そんな繊細だったかよ、お前」
「……爆豪くんだって、起きてたんでしょ」
「俺のほうがお前よかよっぽど繊細だ、っつの」

 途中で爆豪くんの声が揺らいだから、起き上がったのだとわかる。ひたひたと遠のいていく足音。遠くで白い光がぼんやりと光ったあと、すぐにまた足音は近付いてきた。
 彼はベッドの脇に立つと、私にグラスを差し出した。戸惑う私に彼は言う。「声、枯れてんだろ」
 実はかなり喉が渇いていたから(眠りかけの爆豪くんを起こすかもしれないと思って立ち上がってキッチンに行くタイミングを失っていた)、差し出された一杯のミネラルウォーターがひどくおいしそうに見えた。

「ありがとう」私はベッドの脇に身を寄せて座った。
「飲みモンぐらい好きにしろっつったのに」

 爆豪くんは呆れたような動作でベッドサイドに無言で未開封のペットボトルの水を置いてくれる。私の喉が渇いていることも、変な気を遣っていたことも、どうやら全部見通されているみたいだ。

「……爆豪くんって、すごいね。だいたいのことなら分かっちゃうんだね」いつの間にかそう言っていた。私の声は彼のおかげで潤いを取り戻している。
「アホか。ひとっっつも分かんねーわ、特にお前のことなんざ」
「そんなことないよ。今だって、ほとんど見透かされてた」
「……喉渇いてるとか腹減ってるとか、そんなどーでもイイことばっか分かったってイミねぇんだよ」

 どこか自虐的に彼は言う。立ったままだった彼が、ため息をつきながら私の隣に腰を下ろした。ひとりの質量ぶんのひずみが、ベッドについていた左手に伝わってくる。すこし指を伸ばせばそれ同士が触れ合いそうな距離だ。たったそれだけのことに、思わずどきりと心臓が跳ねる。まるで、幼くて若くて青い、高校生のころに戻ったみたいだ。
 ひときわ強い風が、ばらばらと雨粒を叩き付けた。無機質なブラインドの隙間から、わずかに白と赤の光が漏れ出ている。
 私は今、ここ以外のどこにも行けない。外のようすではなく、暗闇の中でわずかな光だけを拾っている、鈍い赤の瞳をそう見て思った。

「お前も、俺のことなんか分かってねークセに」
「全部じゃないけどすこしは分かるよ。本当に怒ってるかそうじゃないかとか」
「ハァ? そんだけ? さすがにもうちょっと分かっとけや……っテメーは、二年もいただろうが、俺と」

 言っていて気まずくなってしまったのか、だんだんと彼の語尾はしおれていく。

「――たしかに一緒にいたけど、それだけだったでしょ? 爆豪くんとは私って」
「は? どういうイミだよ」
「たくさん話したし遊びに行ったりしたけど、それだけだったでしょ。かたちとしては『付き合おう』って言って一緒にいたけど、それ以上でもそれ以下でもなかった。大人になって思い出してみれば、ただの友達でもできるようなことしかしなかったよね。だから、爆豪くんが『恋人』だったっていう実感は、今はもうぼんやりしてる。なんか……自分で言うのも気持ち悪いけど、初々しかったっていうか、ほんと、あのときはただ若かったなって思う、よね」

 夕暮れの教室で私がコスチュームの修繕を終えるのを静かに待つ広い背中と、なんの飾り気もない告白のせりふ。あと私が知っているのは、ある日急に振り出した雨から庇うようにして、傘の中に私の肩を寄せた大きな手のひらの感触だけ。
 ――でも、私にとっては眩しい思い出で、今でもたまに爆豪くんのこと、思い返したりするよ。
 笑いながらそう付け足そうとしたとき、「記憶」と「今」が重なる。
 大きな手のひらが私の肩を寄せたかと思えば、視界が鈍い赤でいっぱいになる。自分の唇に、すこし強く押し当てられた彼の唇。私の肩を掴む指が、ずるずると私の肩をすべったり、力んだりする。聞こえるのは唸るような風の音だけ。たぶん、私も彼も呼吸をすることを忘れていた。
 そこには『大人』らしい駆け引きとか、理由を考えさせる余白は存在してはいない。まるで、戯れのようなキスだった。
 あれだけ一緒に過ごしたのに知らなかった爆豪くんの体温が、掴まれた肩を通じて、頬に添えられた手のひらを通じて、私に滲んでいく。私のくだらない話に相槌を打つだけの彼氏だった男の子の記憶が、目の前にいる別人のような男のひとに書き換えられる。
 頭のなかはぐちゃぐちゃにかき乱されたのに、唇が離れたあと、彼の表情を見たとたんにあらゆる言葉を失くしてしまった。

「……だから俺と別れた、とか言うんじゃねえだろうな」

 いびつに眉根が顰められる。くぐもった声は私を責めるようでもあったし、私に懇願するようでもあった。

「え?」
「のんきに同意求めてっけど、俺はひとっつも分かんねーわ。じゃああん時からお前のこと、今みたいに俺の好きなようにしとけばよかったっつうんかよ。『オトモダチ』には到底できねえようなことを俺の好き勝手にオマエにしてたら、離れて行かなかったとか、まだ傍にいたかもとか、そーゆーコトを抜かすんか? クソが……っやっぱお前、全然俺のことなんか分かってねえわ。勝手になかったことになんかしやがって。お前はあの二年間を、若気の至りだとか、あぁそンなこともあったなっつうアホみたいな思い出の一ページに片付けられるってことかよ」

 彼の瞳が後悔に揺れているところを初めて見た。縋るような指先が、肩で余っているスウェットに食い込んでいる。
 爆豪くんと交わした視線や言葉やいろいろが、今になって鮮明に頭に浮かんでくる。
 夕暮れの教室で私がコスチュームの修繕を終えるのを静かに待つ広い背中と、なんの飾り気もない告白のせりふ。
 それと、ある日急に振り出した雨から庇うようにして、傘の中に私の肩を寄せた大きな手のひらの感触。
 そのときたしか彼の反対側の肩は、きれいに半分濃いグレーに染まってしまっていた。「相合傘で、より濡れてるほうがより惚れてるほうなんだって」と言ったら、彼はみるみる顔を顰めたのを覚えている。「じゃあテメーは頭っから濡れろ」と怒るくせに、ふざけて傘の外に出ようとした私のことを、彼は私の制服の裾を引っ掴んで止めた。
 私と彼のあいだにはいつもわずかな隙間があった。そのときはじめて躊躇いがちに私から身を寄せたら、ぶつかる肩同士。「……何」という不服そうな声が降ってくる。曇った白い空を透かすビニール傘の中では、互いの声がよく響いていた。世界にふたりだけになったみたいだった。
 ――私はたしかに愛されていた。いやになるくらい、彼にたいせつにされていた。友達に送るような生ぬるい言葉も視線も、彼は一度たりとも私に見せたりしなかった。
 そんな彼がずっと私に触れなかったことを説明できる理由なんて、ひとつしかないのに。そんなことにも気付けなかった。「大人になってみれば遊びだったって分かった」なんて、大きな嘘だった。
「爆豪くん」私の声に、彼は俯いていた顔を上げた。

「……私をずっとだいじにしてくれてたこと、ありがとう」

 ぴくりと彼の眦が歪む。これは知っている。彼と二年過ごした私だからわかることのひとつだった。これは彼が私に痺れを切らしたときの顔だ。こういう顔をした爆豪くんには、よく「物分かりが悪い」と怒られたから。
 彼の左手がゆっくりと移動して、私の右頬に添えられる。触れたところから溶かされていくようだ。知らなかった。彼の手は私の手より何倍も温かい。
 顎の下をなぞる親指がためらうから、私は無言で訴えるみたいに、彼の手のうえから自分の手を重ねた。

「――つーか、なに勝手に過去形にしとんだ」

 掠れた声がすぐ近くで聞こえる。ずっと埋まらなかったすきまが、ゆっくりと埋まっていく。
 遠くで唸る雨風の音が何もかもを遮って、私と彼を世界にふたりだけにした。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -