※親友設定/柊も主人公も大人

 堪えきれずに電話口で泣いてしまったせいで、公演を終えたばかりの夜ノ介くんがこんなところまで飛んできてしまった。
 元からわたしの心のなかを支配していた悲しさとやるせなさに、夜ノ介くんへの申し訳なさが混じる。
 ただただ泣きたい。
 実際にわたしは彼と会話をするわけでもなく、ぽろぽろと涙を零していた。ここが個室のお店でよかった。
「……夜ノ介くん、ごめん。うまく話せなくて。それに、こんなに顔もぐちゃぐちゃで」
「いや、まだかろうじて、僕の知ってるあなたの顔をしていますよ。それより、そんなに泣いたら水分が足りなくなりそうで心配です。温かいお茶でも頼む?」
 鼻声で頷いたら、夜ノ介くんはもったいないくらいに洗練された所作で、個室の引き戸を十五センチほどだけ開ける。わたしの泣き顔を見られないようにという配慮だとはわかっていたけれど、まるで忍者みたいなオーダーの仕方だと思った。
「……すみません、あなたを泣かせて。僕が電話したせいだ。タイミング悪かったね」夜ノ介くんは心なしかしゅんと眉を垂れていた。
「なんで夜ノ介くんが謝るの。勝手に振られて、勝手に泣いて、勝手に夜ノ介くんを困らせてるのはわたしのほう」
 振られて、という単語にあの人との別れを実感してしまって、また涙が滲んでくる。
 数年間付き合った人に「もう君とは一緒にいられない」と言われたのは、つい一昨日の出来事だ。
 それからさっきの夜ノ介くんからの電話を取るまで誰とも話さずにひとりで塞ぎ込んでいたから、夜ノ介くんに起きたことを話してやっと、その現実が輪郭を帯びてきたところだ。
 わたしがただ小さく嗚咽を漏らす様子を、夜ノ介くんはとなりでじっと見ていた。その視線が不快ではないのは、彼との付き合いの長さのせいだろうか。
「ちゃんと食べてる?」
「……食欲なくて」
「やっぱり。僕は今日、あなたに電話してよかった。いや、もっと早くするべきだった」
 夜ノ介くんは後悔したように睫毛を伏せる。
 遠慮がちに引き戸がノックされて温かいお茶が運ばれてくると、夜ノ介くんはそれをわたしに勧めながら、諭すように言った。
「ちゃんと食べないと。昔、あなたが僕にそう言ったでしょう」
「そう、だったかな」
「ええ。あなたに無理はさせたくないけど、これだけは譲りませんよ。どんなものなら食べられそう?」すこし首を倒した彼の頬に、艶やかな横髪が垂れる。
「……蕎麦とかかな。つるっと食べられるもの……」
「蕎麦ですね。ならいい店を知ってます。これからお連れしても?」
 わたしが答えるよりも先に、夜ノ介くんがジャケットを羽織り直そうとしたので、戸惑いながら頷くしかなかった。
 彼は流れるような動作で会計を済ませて外に出ると、車の助手席のドアを開け、わたしに「どうぞ」と乗るように促した。お邪魔します、と告げてふかふかのシートに腰掛ける。
 夜ノ介くんの車に乗るのははじめてだ。
 車には詳しくないが、いかにも上質そうなシートの質感やハンドルの皮を見て、ついきょろきょろを目線を泳がせてしまう。
 車内には無駄なものが何もなくてスマートだけれど、空間の至るところに夜ノ介くんの気配のようなものが息づいている。
 なぜかいけないことをしているような気分になって、すこし緊張してしまった。
「さあ、出発しましょう。寒かったら遠慮なく言ってください。あ、歌いたかったら歌ってもいいよ。あなたの歌、久しぶりに聴きたいです」
「……歌なんて歌わないよ」
「そうですか? 残念」
 彼の声がわたしのことなんて気にしないみたいに明るいことが、少しずつわたしを救い出してくれているような気がする。
 夜の街を走り始めて数分、作りもののように綺麗な手の中でハンドルを滑らせる彼が、わずかなボリュームでメロディーをなぞっているのが聴こえた。
「もしかして夜ノ介くんが歌ってる? 珍しい」
 高校のころは一緒にカラオケに行っても、わたしのほうばかりがはしゃいでいたはずなのに。
 わたしの丸い視線に彼はやわらかな一瞥で答えて、その目じりをやわめた。
「ええ。あなたが歌ってくれないので、代わりに僕が。聞き苦しかったですか?」
 そう言われて確信する。彼はわたしのぶんも明るさを補おうとしてくれているらしい。
 ――夜ノ介くんって、ほんとうに優しいんだな。
 失ったものがあれば得るものもある、という話はよく耳にする。
 わたしの場合は、彼という高校時代からの友人のあたたかさを実感できたことが、今のところ唯一の「得たもの」だ。
 今はそれを大切にしなければと瞼を伏せて、途切れ途切れに聞こえる彼の声に耳を傾けていた。

 夜ノ介くんに名前を呼ばれたような気がして、靄のかかった意識が徐々に鮮明になっていく。
 はっとして目を開けると、見慣れない車に揺られていた。
「ごめん! 夜ノ介くん、わたし寝ちゃってた」
「大丈夫。もうそろそろ、第一目的地に着きますよ」
「第一……?」
 わたしの記憶が正しければ、夜ノ介くんのおすすめの蕎麦屋さんに連れて行ってもらうはずだ。それまでにどこかに寄るというところだろうか、と背もたれから身を起こして窓の外を見てみれば、住んでいる場所とは雰囲気のちがった街並みがびゅんびゅんと流れていた。
 そういえば、かなり長い間眠ってしまったような感じがするのだが。
「……夜ノ介くん、ここどこ?」
「郡山のあたりですね。今高速を降りたところです」
「郡山? 高速?」わたしは彼の発した単語をただただ繰り返す。
 窓の外を流れる看板に目を凝らしてみれば、その単語がたしかに視認できた。
 車のインパネの電子時計は午後二十二時前を示していて、驚きのあまり思わず息を呑む。出発してから、ゆうに数時間が経っている。
「や、夜ノ介くん。どこまで行くつもりなの!?」
「おすすめの蕎麦屋です。でも、今日のところはここまでかな。明日お腹いっぱい食べられるように、今日はゆっくり休もう」
 微塵も想像しなかった展開にわたしが言葉を失っている間に、夜ノ介くんはハンドルを切り、ビジネスホテルの脇のパーキングに車を停めた。
 ドアを開けて手を差し伸べてくれた夜ノ介くんにいまだ戸惑いの色を見せていると、彼はきょとんとした顔で言う。
「すみません、まだ言ってなかったね。その店、ちょっと遠いよ」
 言うのが遅すぎやしないかとか、ちょっとどころじゃないとか、泊まる準備なんてしてないよとか、その顔は絶対わざとだよねとか、彼に言いたいたくさんのことが頭の中で渦を巻いて、ついにはこなごなに砕け散ってしまう。
 すべてを通り越してとうとう、くすくすという笑い声が込み上げる。
「……笑ってくれたね、よかった」
 わたしを見て口角を緩めた彼の声は、どことなく春の夜のにおいがする。やさしくて、くすぐったくて、すこし切ない。
 差し伸べられた薄い手のひらに手を乗せる。指先だけすこしひんやりとしたけれど、次第にその内側に流れている彼の温度が伝ってくる。
 夜ノ介くんにゆっくりと手を引かれてパンプスのヒールをコンクリートの地面につけたとき、新しいわたしに生まれ変われたような、そんな気がした。

 翌朝、夜ノ介くんはロビーで読書をしながらわたしを待っていた。
 昨日の夜、一番近くにあった量販店にふたりで行き、間に合わせの着替えを買った。閉店間際で「蛍の光」が流れる中、上から下まで一式の服をふざけ合いながら買い込むわたしたちを、店員はじっとりとした目で見ていた。
 時間もなかったから適当に選んだはずなのに、洗練されたシルエットだとは言い難かった凡庸な白いシャツも、彼という人間を包むと途端にさまになっている。
「おはよう。よく眠れた?」
 夜ノ介くんは文庫本を閉じて立ち上がる。
 ぼんやりしていたせいで、先に見つけたのはわたしなのに、先に彼のほうに声を掛けられてしまった。
「うん。夜ノ介くんは?」
「ええもう、ご心配なく。でも隣の部屋にあなたがいると思ったら、すこし落ち着かなかった」
「えっ、なんで。別に覗いたり聞き耳立てたりなんてしないよ」
「そうじゃありません。一人でちゃんと眠れているか、また泣いてはいないかと心配で。さっき車の中で眠っているときも、あなたは涙を零していましたから」
 表情や、今にもわたしの頬に手を伸ばしそうな気配で、夜ノ介くんがわたしを心の底から心配してくれていることがわかる。
 言われてみれば目覚めたとき、悲しみの残滓が頭の中を漂っていたような気がする。それよりも、夜ノ介くんに名前を呼ばれた気がして「返事をしなきゃ」という気持ちでいっぱいだったから、すっかり忘れていた。
「僕があなたの男友達でなければ、そばで一緒に眠ってあげたかったんだけど」
 一緒に眠るという言葉には一瞬ぎょっとしたけれど、夜ノ介くんのことだから、隅から隅まで親切心で言っているのだろう。
「ありがとう、心配してくれて」
 夜ノ介くんは頷いて、わたしの手から着替えのたっぷりと入った紙袋を攫った。
 昨日ぶりに乗り込んだ黒い車内。夜ノ介くんはタッチパネルを操作して、その空間をちょうどよいボリュームの音楽で満たした。イントロだけでなんの曲だかわかる。
 この曲を彼が選んだのはたまたまではないような気がして視線を送ると、彼は期待に満ちた目でわたしを見た。
「あなたの十八番です。これなら歌ってくれる?」

 ふたつのハミングが混ざった車は、想像していたよりも早くわたしたちを目的地へと運んでくれた。
 実に半日ほどの時間をかけて辿り着いたのは、味のある木造りの建物だった。夜ノ介くんが案内してくれた店の最奥の席に腰掛けて、外を見やったわたしは「わあ」と声を上げる。
 窓の奥には三本の満開の桜が堂々と立っていた。ここを特等席と言わずになんと言えばいいのかわからない。それぐらいに美しい眺めだった。
「きれいでしょう。昔、このあたりにゆかりのある人物の演目をやっていてね。歴史上はあまり知られてない人物だったから現地の人たちにありがたがられて、一度だけだけど公演をしに来たんです。ここへはその帰りに寄ったんだけど、桜も蕎麦もとても気に入って。いつか絶対、また訪れたいと思っていたんだ」
「そうなんだ。じゃあ、夜ノ介くんも久しぶりなんだね」
「はい。一度目は劇団の仲間たちと訪れました。二度目があなたとで、よかった。二度とも大切な人と来られたから」
 そのとき風に吹かれて、桜の花びらが雪のように舞い散る。そのうちの数枚が窓から入り込んで、夜ノ介くんの鼻先をかすめていった。まるで計算を尽された舞台演出を見ているかのようで、言葉を失ってしまう。
 冷めますよ、と言われてはっとして、机の上に鎮座していた蕎麦に箸をつけた。
 もくもくと立ちのぼる湯気を掻き分けてすすった蕎麦は、約二日間ろくにものを食べなかった身体にじんわりと染みていって、大袈裟だけれど泣きそうになってしまう。
「おいしい?」夜ノ介くんは自分の箸を割りもしないで、わたしの反応を待っていた。
「……うん、おいしい」はあと温かい息をつきながら答えると、彼は満足気に笑う。
 蕎麦が冷めるとわたしに注意をしたのは夜ノ介くんなのに、彼は一向に蕎麦に箸をつけない。その存在を忘れてしまったかのように、ただ私の顔を見つめてばかりいた。
 わたしが「顔に何かついてる?」と尋ねると夜ノ介くんは黙ってゆっくりと首を横に振って、言う。
「あなたがおいしい顔をしているのが、僕は好きです。あと、少女みたいな歌声も。泣いている顔も守ってあげたくなるけど……やっぱり一番、笑っているあなたが好きだな」
 噎せ返りそうになるほど甘やかな声だった。
 何年も彼と友人でいるはずなのに、こんな彼を見るのははじめてだ。
 わたしが見ていなかっただけなのか、彼が見せなかっただけなのか。
 ――それとも、彼はずっと彼のままだったのに、わたしの彼を見る目だけが変わってしまっただけなのか。
「あなたが笑っていてくれるなら、僕はどんなくだらない話だって聞きたいし、どこへだって連れ去りたい」
「……今日みたいに?」
「今日みたいに。だから、彼のことはもう忘れて」
 いつになくストレートで有無を言わせないような物言いだ。
 いつもは余白を残すみたいにやわらかに上がる語尾も、今日はどことなく冷たい色をしている。冷たいけれど、ちっとも怖くない。
 昨日までの彼と今日の彼では、間違い探しのように小さな部分が変わっている。
 そのせいか、目の前にいるのはたしかに夜ノ介くんなのに、彼の中にうっすらと別の男の気配がちらついていて。
 昨日の夜からずっと続いている不思議な感覚に思考を奪われて、思ったことがそのまま口を突いてしまう。
「……なんだか夜ノ介くんが、別の男のひとみたいに見える」
「別の男のひと? その人物ってたとえば、泣いているあなたを抱き締めて眠ったりしても、許される? だったら僕は、それになりたい」
 わずかに、本当にわずかに、彼の瞳が色を変えたのをわたしは見逃さない。
 春の風に吹き上げられて宙を舞う桜の花びらが、ぶつかった私と彼の視線のあいだをすり抜けていった。
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