「乱数くんが他の知らない女と一緒にいるところを見かけるたびに朝までやけ酒するのはやめよう」
 毎回そう思うのに、私は学ばないやつなので、今日も清々しい朝日を頭から爪先まで余すところなく浴びながら、まだ温まりきっていないシブヤをとぼとぼと歩いていた。ブルーとピンクが混ざる朝の空は腹が立つほど綺麗なのだが、少し目線を落としただけで視界に入るファストフード店のゴミとか、空っぽのポケットティッシュのゴミとかが、私を現実から逃げられなくさせていた。
 気分が悪い。精神的意味でも身体的意味でも。ひりつく胃のあたりを思わず手で押さえながらスクランブル交差点で停止する。信号は赤だった。

「おやおや、これは誰かと思えば。ずいぶんと早起きですね、今日も」

 声色もその内容も、ここまですかしてかつ皮肉たっぷりにできる男は一人しかいない。

「……出たな」
「人のことを幽霊みたいに言わないでくださいよ。うーん、なるほど、でもその言い草、小生はちょっと気に入りました」
「そりゃよかった」

 信号が変わるとほぼ同時に歩き出すと、ふんわりとやつも付いて来る。行先が同じなのか、それとも暇つぶしに私に絡み続けようとしているからなのか、問おうとしたけど、必要以上に喋ると正直吐いてしまいそうだったのでやめた。

「はて、今朝は大人しいですね。さてはまたやけ酒明けといったところでしょうか」
「……そうかもね、でもそうじゃないかも」
「過度に飲み過ぎたあとは臓物すべてがむかつくような心地がしますし、他人と会話するのも苦痛ですよねぇ。必要以上に声を発しているとより助長されるような気がしてきますよね。まあ、小生はそんな愚行に及ぶことなどありませんが」
「……私が二日酔いなの分かってて話しかけたな?」
「ええ」

 柔和に微笑んだまま彼は頷き、「まあ嘘だけどね」と付け足した。嫌味のひとつでも返したいが、あいにく今の私にそんな気力はなかった。溜息をつく。意識が朦朧とする。目の前にいるいけ好かない男の顔すら朧げになった。

「……ああ、本当に駄目みたいですね。ちょっと座ったらどうですか」

 私は黙って頷き、男の流れるような目元が示した先の植え込みに腰かけた。

「どうぞ」
「え、なに」

 男は私に、ペットボトルの水を手渡した。

「小生は先程、喉が渇いたので水を買いました。さて喉を潤そうと思ったところに落ち武者の霊のように佇立している女が見えたので興味を引かれて見てみれば、あなたでした。そのあなたが今にも早朝の広場で醜態を晒しそうなのでたまたま運よく、持っていた水を差し出しただけの話です」
「私が貰ったら、あなたも喉乾いてるのに飲むものなくなるじゃん」
「ああお気になさらず。喉が渇いていたというのは嘘なので」
「……なんか、ありがとう」
「嘘をついたのに礼を言われるとは」

 礼すらも素直に受け止めない男は、それでも満足げに微笑んだ。この表情だけ切り取ると、儚げな美青年に見えるのだが。
たぷんと、容器の中で弾力を持て余す水は、するすると体内に落ちていった。満足するまで喉を鳴らしていれば、すでに大半を飲み下していた。

「ご馳走様でした」

 私がそう言うまで男は、話しかけてくるでもなく、立ち去るでもなく、ただ私の横に同じように腰かけたまま、行き交う人々を眺めていた。ただ眺めているようには見えなく、その瞳は静かに、でも爛々と輝き、どこか楽しそうでもあった。

「お粗末様でした。ええ、いくぶん顔色が優れてきたようですね」

 改めて礼を言おうとしたとき、この男の名前が頭をよぎる。
 彼と初めて会ったのは、乱数くんと食事に行くために待ち合わせをして、お店に向かう途中のことだった。すれ違いざまに乱数くんがその男を見つけて、ゲンタロウだかシンタロウだか、そんな名前で乱数くんは彼を呼んだけれど、彼は訂正して「有栖川帝統です」と名乗り直した。どっちがどっちでも、どうでもよかった。街中で頻繁に出くわすとは思わなかったし、とにかく乱数くんと一分一秒でも長く話していたかったし、お店の予約の時間も近付いていた。
 乱数くんは「じゃあね」と男に手を振ったあと、ふふと心底楽しそうに笑いながら「ゲンタロウは嘘つきでね、さっきのも全部、きっと嘘なんだ」と教えてくれた。そのときの乱数くんも、可愛かった。

「……ゲンタロウって、どんな字書くの」

 私の脈略のない問いに彼は一度、目を見開いた気がしたが、すぐにすかした表情を取り戻した。

「源に太郎と書きます」
「それも嘘?」
「はい」
「名前くらい教えてくれたっていいじゃん」
「ほう、僕に興味くらいはあると。意外ですね、あなたの興味の矛先は乱数だけかと思っていましたゆえ。どうせ今日のアルコール過剰摂取もそれが原因でしょう」
「……いや、べつにそんなやけ酒とかじゃないけど……」
「今更、隠す道理もないでしょうに。あなたが乱数の遊び相手の一人をやっていることなんて今に始まったことじゃないですし。まあ、“単なる遊び相手の一人という枠に行儀よく収まっていることただならぬ苦痛を覚えている”というところまでは、僕ぐらいしか知らないでしょうけど。意外とあなたみたいにこう……不器用な? 女性のほうが、傍から見ていると珍しかったりもして」

 流暢に紡がれる男の言葉にはっとする。私が誰に対しても、乱数くんに対しても、ここだけはと隠していた部分だった。この痛みが知れたら、きっと優しい乱数くんはもう私と会ってくれなくなる。綺麗に遊べる女じゃないと、優しくて残酷な乱数くんには似合わないのだ。

「あなたが何らかの決定的な一言を言わなければ、乱数はあなたの辛さに気付かないふりを続けてくれると思いますけどねえ、永遠に」

 低く撫でるような声だった。

「でもそれではあなたが辛い、永遠にね」
「やめてよ、ひどいこと言うの」
「最後まで聞いてもらえます? 親切心からの提案ですよ。ええ、もっと他のものに興味を持ってみればいいんですよ。嘘でもいいんです、目的は興味の矛先を散らして痛みを軽減することなんですから。嘘でもいいんですよ。どうです、ここに小生という対象として適任な人物もおりますしね、まあ例えばの話ですが」

 がらがらとどこかのシャッターが開く音がする。駅からまとまった人の波が流れ出してくる。目の前の男は小首を傾げて、私に微笑みを投げかけた。雑踏が鼓動のように聞こえる。街が動き出したのが分かった。



 雑誌を広げて仕舞わない癖を直したい。乱数くんの服が出ているページを2秒で開けるようになるくらい毎号毎号眺めているのが原因だ。
 チャットアプリを開いては閉じて、それを繰り返していた私が乱数くんに「今日暇? 遊ぼうよ」と送る決心をしたのは、雑誌の巻末に掲載されていた星座占いが、今日がラッキーデーだと豪語しているのを見つけたときだった。

「おいしいね! オネーサンが連れてってくれるお店って、ぜんぶ美味しくてサイコー! ほんと、センスいいよね! あれあれ、っていうかさ、ネイル変えた? 今回のデザインも可愛いじゃん!」

 乱数くんはフォークを置いて、私の指先を掬った。アートが施してある部分をなぞるように親指で潰して、ふんふんと弾むように頷いた。
 乱数くんは何にだって気付いてくれる。髪を切った、カラーリングを変えた、ファッションのテイストをいつもと変えてみた、なんでも拾ってくれたし、何をどう変えたのかも覚えてくれていた。

「すごいね、覚えててくれたんだ。会うの、結構久しぶりなのに」
「当然、覚えてるよ」
「いつもいろんな子たちと会ってるだろうに」

 ああ、また面倒くさいことを吐いてしまったとすぐに後悔した。私だって乱数くんを遊び相手の一人として見ている幸福な子たちの一員になりたくて、精一杯余裕ぶってみるのに、隠し切れない致命的な感情の重さが、こうして私を面倒な女にしてしまう。
 乱数くんは眉を下げて情けない声を上げて、私の袖の裾を掴んだ。

「もう! そういうのじゃないよ! そりゃ他の人と会うこともあるけどさ、オネーサンのはトクベツ。いつも最大に可愛くあろうとしてるでしょ? その感じがボク好きなんだー、可愛いなって思う! 可愛くあろうとしてない女の子って、魅力的に見えないしさぁ」

 だからそのままでいてね、と乱数くんは笑った。つられて上げようとした口角が軋んだ。乱数くんの言葉はおそらく、牽制だった。

「このままでいるよ」

 笑えていたかは分からないけど、私は笑ったつもりだった。
乱数くんは何にだって気付いてくれる。髪を切った、カラーリングを変えた、ファッションのテイストをいつもと変えてみた、なんでも拾ってくれたし、何をどう変えたのかも覚えてくれていた。
 だけど、私の名前を呼んだことは一度もない。特別なんて言葉を貰っても、私の中ではひとつも膨らみはしなかった。そんな薄っぺらの言葉よりも一度、名前を呼んでほしかった。その他大勢のうちの一人じゃなくなりたかった。



 夜風が中途半端に頬を撫でていって、むしゃくしゃした。明日は業界の人と会うから朝が早いのだと乱数くんが言うので、22時には別れた。人でごった返す駅前でスマホが点灯する。「今日はありがとー! またね!」という至って簡潔な、乱数くんからのメッセージだった。返事をしようと画面上を滑らせた親指を視界に入れれば、動けなくなる。乱数くんの、人よりちょっと冷たい指先が爪の丸みに添ってにじっていくあの感覚が残っている。
 そのままでいてね、なんて残酷な言葉はないと思った。私はずっとこのまま、彼と近付くことも離れることもないまま。想像するだけで辛いけれど、だからと言って、乱数くんが私をもっと近い場所に受け入れてくれる想像のほうがもっと、頑なに現実味を帯びてくれない。
 泣きそうになって改札手前まで来ていた踵を返すと、当たり前に肩がぶつかった。

「改札手前で急に逆戻りする迷惑な通行人のことを小生は鮭と呼んでます」

 ごった返す人混みの中で、その男は一際目立つ。

「で、どうしたんですか? 鮭。乗らないのですか? 電車」
「……出たな」
「出るも出ないも小生の自由です。帰路についていたところ、落ち武者の霊のごとく改札前で佇立する女性を人混みの中にたまたま見つけたので、興味を惹かれて寄ってみたところ、あなたでした」
「私がいろいろと辛いときに限って現れるのって実は嫌がらせだったりする?」
「とんだ言いがかりですね」
「ごめん。でも今日は本当にちょっと」

 無理だから、と続けようとした声が思いの外震えていて、ぎょっとした。涙がもう喉元まで上がってきてしまっていることに気付いて、ふうと大きく息を吐く。男は亡霊のように私の前に立ち、静かに私を見据えていた。

「はてさて、たまには僕も付き合いましょうか? アルコールの過剰摂取」
「私が、あなたと?」
「小生はしがない作家ですが、あなたのその辛気臭い表情を些かでも和らげる話くらいはひとつやふたつ、持っているつもりです。さ、参りましょう」

 見た目からは想像のつかない強引さと手の力強さに、私の涙は確かに引っ込んだ。
 彼は私を椅子に座らせるやいなや、休むことなく話し出した。休むことはないが、疲れることもなく、至極心地のよい話をする人だと思った。艶やかな唇から流れるように紡がれる話のどれが本当で、どれが嘘かは分からないが、どれも楽しかった。私の相槌や返事に、時折ふっと緩んだような笑い方をするのが印象的だった。

「そんな笑い方もするんだ」
「何か珍妙な笑い方でもしました?」
「いえ、そういうわけじゃなくて。あまり素を見せない人だと思っていたから優しい笑い方をするもんだと思ってびっくりした。いや、今も素のあなたではないんだろうけど」
「なるほど。変わったことを言われました」
「あまり言われないんだ」
「ふむ、思えば人を笑わせたいと思うことばかりで、自分が笑えるかどうかに関して深く慮ったことがないですね。こう見えて、作家になる前は芸人を目指していましたしねえ」
「ええ、それは嘘でしょ!」
「ええ嘘ですね」

 私が喉をくつくつと鳴らしながら笑っているのを、彼は満足げに見ていた。波が返すときみたいに、空間が少しだけ静かになる。

「……あなたみたいな不器用な人、僕は初めて見たので。なかなか放っておけませんよね」
「不器用って」
「己の本能が理性に惨敗しているというか。思うことがあるなら思うように動くことが時折あってもいいのではないかと思いますねえ。下等生物のように感情を垂れ流しにしてぶつける人間も多いというのに。あなたは決してそれをしない。できないのかもしれませんけどね。誰よりも抱えている想いが強いように見えるのに、誰よりもそれを隠蔽しようとしているさまが、小生の目にはとても興味深く映りました」

 途中で、私の乱数くんへの感情のことを言っているのだと気付いた。

「本当に最初から気付いてたんだね」
「ええ、これから彼女は一体どうするのだろうと。いつか抱えきれなくなるのではあるまいかと」

 そのままでいてね、という乱数くんの声が鼓膜の奥でこだました。こびりついてとれない乱数くんの声が、今は憎らしかった。喉に籠もり始めた熱を飲み下した。でももう遅く、目頭から水滴が零れ落ちる。嗚咽は込み上げず、溜息と一緒に涙だけを零した。

「あなたがこのままでいたいのなら、また小生がこうしてアルコールの過剰摂取の相手になるもいいですし。ええ朝まで付き合いましょう。そしてもし彼のことをやめたいのなら、それはそれで。小生に出来るだけの力添えは致しますよ。多少なりとも、覚悟は、して頂きますが」

 覚悟って、なに。そう聞く勇気は今の私にはなく、ただ瞼を開いた。泣いている私がさも当たり前かのように、穏やかな目をしていた。透き通っていて、静かであるにも関わらず、爛々としていた。それを見て、前に進みたいと思ったから、私は彼にそう答えた。



 彼が指定した時間よりも早く着いてしまったので、駅前の書店に入った。少し効きすぎた冷房。二の腕をさすりながら中をゆっくりと歩くと、平積みになっているタイトルが目に入った。夢野幻太郎。その作者名にはっとして、本を手に取った。固い背表紙に、彼が載っていた。これは一人の幽霊と心を通わせていく少年の話だと、筋書きにはそう書いてあった。彼の経歴にはいくつかの本の名前が書いてあって、その内の一つは、読んだことがあった。

「こんにちは。ところでどこかばつの悪そうな顔ですね」

 手の平から本が取り上げられると同時に、彼が私の顔を覗きこんだ。

「……こんにちは。著者近影と同じ人が目の前にいる」
「いかにも。小生が夢野幻太郎。著者近影の写真だけは影武者ですけどね。写真を本に載せられるなど小生には恥ずかしいので。まあ嘘ですけど」
「夢野、幻太郎」
「……何ですか? 急に」
「いや、私、幻太郎のこと何も知らなかったんだなって」
「今更ですか。あなたといえば、小生がどんな本を書いているかはおろか、作家であることすらも知っていたか怪しいですよね。一応ここの書店には平積みされている程度には名が知れていると思っていましたが。さらには僕の名前がどんな字を書くのかも、僕が何を好いていて、何を好かないかも、何に興味をくすぐられて仕方がないのかも、なぜあなたが辛いときにいつも現れるのかも、どれぐらいあなたに焦がれていたのかも、どうせ知らないでしょうし」
「え?」
「はて?」

 彼はあざとく、きょとんとしたような表情のまま私から目を逸らさなかった。私が持っていた本を恭しく閉じて丁寧に最上段に積み直すと、まだ眉間に皺を寄せる私を見て、眉を下げた。

「もしや、まだとぼけるおつもりですか。小生の決定打を受けたからには、真剣に向き合ってもらいたいんですけどねえ。まあ些か、やり方は卑怯でしたけど。こうでもしないと僕への興味など永遠に湧く気配がありませんでしたから。うん熟慮してみれば、小生こそ人のことを不器用だなんてよく言えたもんだ」

 彼は困っているようすではあるが、余裕は頑なに失わなかった。鼓膜がじんわりとぼやける程度には動揺している自分の方が、恥ずかしくなってくる。二人揃って佇立しっているその隙間を縫って、見知らぬ男性が夢野幻太郎の新刊を一冊、手に取って立ち去っていった。黙って顔を上げる私に、彼は黙って手のひらを差し出す。

「……行かないのですか?」

 その手のひらを取ったら、きっと私は彼から目を逸らせなくなってしまう。そんな予感、というより確信が、彼の言っていた“覚悟”という単語を思い起こさせた。それでもいいと思った。躊躇はもうなかった。
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