※記憶喪失ネタ

 身支度と軽いアップをして、いつものランニングコースに出た。雨が続いたせいで学外に出て走るのは久しぶりだった。
 まだ雨でてらてらと光るコンクリートに、赤い花弁が絨毯のように落ちている。落ちるというよりも、コンクリートに這いつくばるようにしているその花を、踏みつけないようにして少し右に逸れた。バカらしい、と思うが、噎せ返るようなその鮮やかな赤い花弁にはいやに視線を引かれた。最後に外で走った日にはなかったからか、それとも、あの女がくだらない知識なんかを──覚えておくに足らない、どうでもいいことを──俺にひけらかしたからか。
 『牡丹の花言葉って知ってる?』、という声がすでに得意げで腹が立ったのを覚えている。興味がないと示したくて「知らねー」と低く答えたのに、あの女はその日の曇天に不釣り合いなバカに明るい声で続けた。

『爆豪くんに似合うと思う』



 目が覚めると泣いていた。頭の隅にはすでに、最悪だったであろう夢の残滓しかない。気色悪くて、とっさに服の袖で頬に張り付いた涙を拭う。ごわついた袖口と吸い込む空気の辛気臭さで、いま自分のいる場所がどこだか、ゆっくりと理解した。

「爆豪くん!」

 ノックもなく開いた扉の奥から、ふいに名を呼ばれる。

「目、覚めた? 大丈夫? 学校の外で事故に遭ったって聞いたから、心配で走って来ちゃったよ。痛いところとか苦しいところとか、ない?」

 まるでガキみたいにまくし立てられたその声は、知らない響きをしていた。一方で、女が纏っているのはよく見知った灰色の制服だ。しばらく記憶を掘り返してみても見覚えのないそのまるい目元が、俺を見降ろしたまま歪む。

「……うわあ、そこ、痛そうだね。ちょっと血が滲んでるし、看護師さんにガーゼ変えてもら――」

 伸びて来た白い手のひらが頬のあたりに触れようとしたのを、反射的に振り払う。指の関節のあたり同士がぶつかって、どこか間抜けな音がした。

「……あ、ごめん」
「……つーか、ンだよ急に」
「え?」
「どちら様だつってんだよ。保健委員ならとっとと医者に『大したことねー』つって来い」

 そう言い放ったあと、にわかに空気が乾いていくのを感じた。見開かれた瞳が、余計にまるくなる。
 「……ええと」、と情けない声が千切れて落ちる。やけに大袈裟に、傷付いたような歪な笑顔をする女だと思った。
 けれど、白くすべらかな床に落ちたその声を拾い上げてやる義理なんか、俺にはなかった。
 湿った空気が流れる室内に、引き戸ががらがらと開く音が割って入る。

「バクゴー! 大丈夫か!? ……って、なんか思ったより大丈夫そうだな! 気失ってるって聞いたから焦ったじゃねーか!」
「お前の仮免が道路に落ちててさ、たまたま近所の人が拾ってガッコに届けてくれたってセンセーが言ってたぜ」

 逐一の返事が面倒になってウルセエ、と呟いた。上鳴が「心配して来てやったのにそりゃねーだろ」と犬のように吠えたあと、切島が「つーか先客がいたんだな」と、もう存在すら忘れかけていたさっきの女のほうを見やった。
 女の顔を覗き込んだ上鳴が「あれ、どっかで――」と半笑いの口を開いた瞬間に、女は何の言葉を発することもなく、踵を返して出口のほうへ走り出した。慌てた女の肩はすれ違いざまに、上鳴の右肩を掠めていく。

「ちょ、危ねーよ! ……って、もう聞こえてねーか」
「バクゴーの知り合いか? 普通科の制服だったけど」
「シラネー」
「『知らねえ』? わざわざお前の見舞い来てたみたいなのに? しかもフツーに可愛い子だったじゃん」
「知らねーつってんだろ。ホケンイインか何かだろ」
「…………いやバクゴー、俺、あの子知ってるぜ」
「だよなー! 俺も見たことあんだよな」

 なけなしの記憶を辿っているのか、ガラにもなく神経質そうに眉を顰めた切島に、上鳴も指をさした。

「……ああ、思い出した! あそこのコンビニでバイトしてる子じゃね? ほら、あんときバクゴーが中年のオヤジから助けてた――」
「それだ!」

 上鳴の声が、病室に響き渡る。ウルセエと怒鳴りつけたのに、「お前もう忘れてんの?」と上鳴の呆れたような笑顔が向けられる。

「俺はあんとき、もしかしたらこれをきっかけに爆豪とあの子がナントカなるかも! って思ってたけどな〜。あのあとあの子のこと聞いたら、お前キレてたし。ま、抜け駆けされてねえんならいいんだけどさ」
「あ?」

 それ以降、あのとき何のスナックを買っただとか、何を話しただとか、どうでもいい話題で盛り上がっていく二人。ピンと来ていないのは自分だけのようだが、とりとめもない記憶を思い出そうという気にもなれずに、余計に苛立ちが募った。



「あの……こないだは、急にお見舞いに行ったりしてごめん」

 わざわざイヤホンを耳から引っこ抜いてまで聞いてやっているというのに、それでも女の声は小さかった。ついさっき上がった雨のように、今にも消え入りそうだった。

「ア?」
「実は私、保険委員でもなんでもなくて……バイト中にたまたま、爆豪くんが近くで怪我したって聞いたから、心配で思わず駆けつけちゃったんだ」
「……わざわざそんなクソどうでもいいこと言うために俺のこと呼び止めたんか」
「……やっぱり、私のこと覚えてない、よね」
「知らねー」

 俺の答えに女が息を呑むのが聞こえた。

「どっかで会ったか」
「……私、学校の下のコンビニでバイトしてて。変なお客さんにレジで絡まれてるところ、後ろに並んでた爆豪くんが『早よしろや』って言って助けてくれて……」

 話す内容は切島たちのものと辻褄が合っている。記憶力にはそこそこ自信があるがまったくピンと来ないことが不快だが、きっと「取るに足らない」記憶だったに違いない。もしくは、あり得ないだろうが、頭ん中から綺麗サッパリ抜け落ちでもしているか――。

「やっぱ知らねー」
「……そっか。しかたないよね」

 女は苦い笑みを浮かべた。仕方がないの言葉で自分の感情を嚥下できているとは到底思えない痛々しさがあるが、俺には関係のないことだ。会話は終わりのつもりだった。
 もう一度イヤホンを耳に突っ込もうとしたら、今度は女は眉を下げて心配そうに俺を覗き込む。

「っていうか、もうランニングなんかして大丈夫なの? 怪我は?」
「大丈夫だから出て来とんだ」
「ああ、そっか。じゃあよかった」

 会話になりそうでなっていない、奇妙な空気感。じれったいようなまどろっこしいような感じがして思わず女を睨み付けたが、女はアホみたいな顔で愛想笑いをするだけだった。
 このあいだ病室で見せた、今にも壊れそうな表情と比べればまるで別人のようだ。やっぱり変な女だと思う。
 これ以上話していても何の実にもならないと、今度こそ立ち止まっていたランニングシューズを進めようとしたとき、背中にまた女の声が降りかかる。

「爆豪くん」
「……まだなんかあんのかよ」
「もうひとつ『実は』の話なんだけど」
「は?」
「私……爆豪くんのことが好き」

 今まででもっとも明瞭な声で紡がれたその言葉を理解するのに数秒かかった。言葉の意味はわかるが、にわかには理解できなかった。俺を見て今にも泣きそうに目じりを歪めている理由もわからなければ、かすかに震える手が、縋るようにスカートを握りしめている理由もわからない。
 それも、目の前の「ほとんど他人の女」が、だ。

「……俺とお前、しゃべったことすらねーだろ」

 思い違いをぶつけられるほうの身にもなれ、そういう真意をぶつけてみたつもりだが、しばらく待ってみても女は何も言わなかった。
 ランニングを再開しようと女に背を向ける。ランニングスニーカーの底が、すこしやわらかい何かを踏み付ける。葉だか花だか、そんなことはどうでもいい。
 それなのに、視線を落とした先、噎せ返りそうな濃い赤の花弁が捩れているさまを見て、胸のあたりを何かに引っかかれたような心地がした。

『牡丹の花言葉って知ってる? 爆豪くんに似合うと思う』

 頭の後ろのほうで、どこかで聞いたような声がする。目の前の女のそれに似ているような気もして思わず振り返ったら、反対方向に駆け出していた女の姿は想像よりもはるかに小さくなっていた。
 待て、と声を荒げそうになって思い止まる。あの女を引き留めたとして、一体なんの言葉をぶつければいいのかわからない。腹の底から理由もわからぬ焦燥感が込み上げては、苛立ちに色を変える。
 立ち尽くしたまま見ていた揺れる後ろ姿が乱暴に腕で顔を拭ったのを見たとき、スニーカーの底はコンクリートを蹴っていた。ざり、と花弁が擦れる。
 俺の足音に気付いて女の足取りも速くなった。追い付けないはずもなかったが、足を止める気配のない女の肩をしかたなく掴んだ。諦めたように立ち止まった女の息は切れ、肩は上下に揺れている。
 どんな言葉を掛けるつもりでここまで来たのか自分でもわからない。ただコンクリートに這いつくばった赤い花弁を、この女が踏まずに避けて歩く理由を、俺は知っているような気がした。

「……もっかい教えろ。お前が今まで俺に言ったこと、全部」

 女の赤くなった目元が俺を捉えて、梅雨明けの空みたく、一瞬だけ明るく瞬いてみせた。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -