※99%颯砂/巴←主←颯砂/巴ルートの薄いネタバレあり

 ――思い返せば、あの子は最初からずっと、眩しかった。

「えっ、じゃあきみ、高校まで柔道は全くの未経験だったの?」

 オレの問いに、みょうじはなぜか恥ずかしそうに頷いた。

「……やっぱ変わってるかな。未経験なのに急に柔道部に入ろうなんて」
「ぜんぜん! むしろ、何かにイチからチャレンジするのってすごいと思うよ。相当カロリーいることだし。きみの打ち込み方見てると、てっきり昔っからの柔道バカなのかと勘違いしてた。あ、今のは超褒め言葉! きみってやっぱすごいんだな」
「ありがとう、颯砂くん。本当は自分でもびっくりしてる」

 こんなに柔道にハマっちゃうなんて、と続けて一層照れくさそうに目を細めて見せた。
 昼休みの最中に学内のトラックを走っている生徒なんて、今日も今日とてオレと彼女しかいない。でも初めて出会った一年の春は、こんなふうに走りながら笑みを浮かべる余裕は彼女にはなかったはずだ。「そういえばわたし、柔道部に入ることにしたんだ」と不安と期待の混じった顔で言われたあの日から、彼女は変わっていった。

「オレにも伝わってくるよ。きみ、柔道が好きなんだなって。それに、強くなった」
「強く?」
「もちろん褒めてるよ。あんまりうまく言い表せないんだけど……凛とした? っていうか、そうだ! スポーツドリンクのCMあるだろ? あれを見てるような感じ! 爽やかで、かわいくて、芯がある」

 言葉を探しながら隣を走るみょうじを見たら、こめかみに光る汗がきれいで、とっさに出た言葉だった。ヘンな喩えだとは自分でも思ったけど、みょうじはぷっと吹き出して笑ってくれた。

「それって、キュートでストロングってこと?」
「分かんないけど、たぶんそういうこと!」
「ありがとう。嬉しい」

 みょうじの笑顔は見ていて気持ちがいい。弾けるように笑うからオレも釣られて笑ってしまう。
 ――オレも負けてらんないな。気持ちがぐっと上に持ち上がるのがわかった。

「なんか居ても立ってもいられなくなってきた。オレ、ちょっとペース上げてくる! また走ろうよ!」
「うん。頑張ってね、颯砂くん!」

 みょうじに名前を呼ばれると、背中を押してもらえたような感じがする。いつもより体が軽くなるような感じがする。がむしゃらに前へ前へ進もうとするみょうじの、疲れてもどうしたって楽しさが勝ってしまったような笑顔を見ると、負けていられないと思える。

 彼女の戦績は試合のたびに耳に飛び込んできた。そのたびに彼女の姿をきょろきょろと探した。「おめでとう」の言葉に彼女はいつも照れ笑いをしながら「ありがとう」と返してくれて、その逆も然りだった。
 いつしかそのやり取りも、目線を通わせるだけで叶うようになった。第三日曜の次の月曜日は、移動教室のすれ違いざまにみょうじがきゅっと唇を弧を描くように引き結ぶので、オレも拳を握ってみせる。するとみょうじは笑い声を漏らして、オレの拳に一回り小さなそれをぶつけた。

「はいはい邪魔でーす、スポーツバカ同士、随分と仲がよろしいことで」
「玲太! なんでいんだよ」
「俺もこいつと一緒で移動教室なんですが。ほら、おまえも颯砂も、早く行かないと遅刻するぞ」

 玲太は嫌味たっぷりに目を伏せながらそう言って、オレから引き離すみたいにみょうじの背中を押した。

「颯砂くん、おめでと! またね」

 去り際にオレを振り返ってみょうじはそう言った。「うん、きみも」と返したつもりだったのに、思いの外声は伸びず、唇の数センチ先で落っこちる。
 正直に言って、試合後の「おめでとう」という言葉は掛けられ慣れていた。悔しさや不満、あるいは羨望がそこに滲んでいることも少なくない。あまりにいろんな「おめでとう」を貰いすぎたのか、本心で言っているかどうかなんてすぐにわかるようになってしまった。
 みょうじの「おめでとう」は、胸のあたりを底からくすぐっていくような、くすぐられたところからじんわりと温かくなっていくような「おめでとう」だ。みょうじの声で紡がれるその五文字だけは、今までに感じたことのない、特別な響きをしてるみたいに思える。

 「インターハイ優勝の喜びを、今一番に伝えたい人は誰ですか」――口元に向けられたマイクに、オレは言葉を詰まらせてしまった。というか、慌てて飲み込んだというほうが正しい。みょうじなまえという名前が喉元まで勝手にせり上がってきて、あともう少しでバカみたいな大声で叫ぶところだった。
 まだ誰のものにもなっていないような澄んだ朝。夏休み期間なんだから会えるかどうかもわからないのに、学校までの道を走った。その途中で、予定よりもはるかに早くその背中を見つける。

「みょうじ!」

 風に遊ばれる髪を分けながら振り返った彼女は、オレを見てあっと声を上げた。

「颯砂くん、おめでとう!」

 時が止まったように感じがして、同時に彼女のことをひどく眩しく感じた。夏の朝の太陽が水面をぎらぎらと揺らしていたけれど、それだって彼女には負けている。
 思わず目を細めながら、絞り出すように

「……ありがとう。オレもきみの試合のこと聞いたよ。ほんとにおめでとう」と言えば、みょうじはなんだか泣きそうな顔で笑った。

「正直、まだ信じられなくて」
「信じられないのはきみだけだよ。オレはきみが目標に向かってがむしゃらに突き進んでたとこずっと見てたし。……自惚れだったら恥ずかしいけど、きみがオレを見ててくれたみたいに」
「うん。たくさん励まし合ったもんね!」
「……うん、ほんと。きみのおかげでずっと、モチベーションキープできた」

 ペースを考えずに家から走り続けてきたせいで、まだ少し呼吸は乱れている。
 頭の中にはたくさん言いたいことが浮かぶのに、全部がこんがらがってでっかい塊になって、胸のあたりでつっかえている。オレらしくもない、と唾を呑む。
 沈黙は心なしか大きくなった波の音が埋めてくれる。いつだかイノリが「朝が調子づき始めたころの波が一番最悪だ」と言っていたっけ。
 彼女の視線がぎらつく水面に移ったのを見て、思わずオレのほうに引き止めたいような気になって、とっさに声を出していた。

「――あのさみょうじ。今度の日曜――」
「インハイは終わったけど、わたし、まだまだ立ち止まっていられないって」

 みょうじの凛とした声と被ってしまった。声をすぼめるとみょうじは「ごめん、なんて言ったの?」と眉を下げる。

「ううん! なんにも! きみのほうを先に聞かせてよ」

 オレが続きを促すと彼女は改まったように背筋をぴんと伸ばした。

「……颯砂くんには、『勝ったよ』って一番に伝えたい人って、いる?」
「……いるよ」
「ほんと! ……わたしも」

 心臓がぎゅっと締め付けられた。見たことのないような顔で彼女が笑ったから。
 その続きの言葉をどうしても聞きたいと思うのと同じぐらい、何がなんでも聞きたくないと思った。それでも彼女は続ける。

「ずっとその人のことを追いかけてたら、こんなところまで来れて、見たことない景色を見ることができて……でももっと先の、同じ景色を見てみたいって」
「――その人は、きみのこと、見てくれてるの?」

 からからに乾いた喉が、勝手に声を絞り出してしまう。

「たとえ今見てもらえてなかったとしても、見てもらえるところまで行くの。そう決めたから」

 彼女の瞳にはオレが映っているのに、ほんとの彼女はもっと別の場所を――別の誰かを見ているのがわかった。
 息ができなくなりそうだった。目の前の女の子があんまりにもきれいで、かわいくて、強いから。今更「オレはこの子のことなんて好きじゃない」って知らんぷりをすることなんかできなかった。人生ではじめて、こんなにはっきりと人を好きだと思った。恋って、ほんとに身が焦げていくような気持ちなんだな、と思った。ローファーの下のコンクリートが日に焼かれるのと、たぶん似てる。

 ――思い返せば、彼女は最初からずっと、眩しかった。
 彼女すら気付いていないのかもしれないけれど、きっとオレと出会ったころから彼女はもう恋をしていて、オレはその姿がただただ眩しくて、目を細めていただけ。
 立ち尽くすだけでじんわりと汗が滲むころ、やっとやってきたオレの春は、どうやら遅すぎたみたいだ。
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