ドンと背中に衝撃が走るのと同時に、ぱたりと上履きの上に透明の水が落ちる。ゆっくりと視線を下げて確認すると、手のなかの花瓶のなかの水が三分の一ほども失われてしまっていた。ぐらぐらと表面を不規則に揺らしながら、これ以上零れまいと必死にとどまっている。

「あっ、わりーわりー! ぶつかっちった!」
「もう、ちゃんと周り見てよ」
「だっから謝ったじゃんかよ! ったくみょうじちゃんは小うるせえなー! うちの母親みてえ」

 誰かをコケにして大笑いするワイドショーほど下品ではないけれど、けっして心地のよくない腑抜けた笑い声が私を取り巻く。
 その渦の隅で気だるそうに壁に身を擡げる彼に「勝己くん」と呼びかければ、申し訳程度に赤いひとみだけがこちらに寄越された。

「花瓶の水替え、一回もやってくれないじゃん。今学期は私と勝己くんが担当なの、わかってるよね。火曜と木曜、毎週交代でやろうって話したのに」
「ア? るせーなァ。んなくだらねえことで」
「くだらないとは思うけど、腐ったら臭いし」

 そう言って、花弁の端が茶色く草臥れはじめた花たちを勝己くんの目の前に差し出せば、彼は呆れたみたいに鼻で笑う。

「ッハ、んな理由かよ」
「うん。だから、明日はやってね」
「知るかよ。ちょっとぐらい臭かろうがどーでもいいっつの」

 そうして逃げてしまった彼の赤いひとみは、もう私のほうには戻らない。小さくため息を漏らしたら、「出たよ、カツキの『オサナナジミ』」といやに甲高い声の野次が飛んでくる。「うるさいなあ」と言い捨てて教室を出る。手洗い場の排水溝にうすく濁った花瓶の水を流しながら、昔の彼のことを思い出していた。
 お揃いの青いバッグを提げて音楽教室に通っていたころは、

「俺さ、もうオクターブ届くようになったんだぜ!」
「へえ、すごいね! 勝己くん手大きいもんね」
「まあ『コセイガラ』ってヤツだな! ホラ合わせてみろよ、なまえの1.5センチはデカいもん!」

なんて他愛ない会話ができていたのに。その事実が今では信じられない。

「すっかり変わっちゃったな」

 なんとなく古びた口調になってしまう。親戚のおばさんみたいだ。
 クラスメイトとばかみたいに小突き合っているのか、腰で履いたズボンがだぶついた勝己くんの後ろ姿が廊下に見え隠れする。色褪せた砂のような色の髪も、笑った顔がいやに得意気なところも変わらないのに、私が知っているあのころの「勝己くん」はもうどこにもいない。
 小学生になって、ピアノのレッスンに加え、いろんな楽器を触らせてもらえるバラエティレッスンも始めた勝己くんが教室から出てくるのは、私よりも三十分遅かった。
 彼の誕生日、教室のとなりのコンビニの前で勝己くんが出てくるのを待って、手作りのお菓子を突き付けては走って帰った思い出が、痛々しくも懐かしい。
 そんな人生で一回きりの私の「初恋」の思い出は、花瓶のなかの花よりも早く、饐えて、腐ってしまったのだ。



 勝己くんとは、そのまましばらく言葉を交わすことがなくなった。
 久しぶりに言葉を交わしたのは学校でも近所の道でもなく、私が風邪で学校を休んだ日の夕方だった。
 階段を上がってきた母親の足音。どこか高揚した声とともに私の部屋をノックした。

「なまえ、勝己くんが来てるわよ」
「え……?」
「だから、勝己くん! 大きくなってからぜんぜん遊んだりしてなかったでしょ。ほんと久しぶりよね。休んでるあいだに学校で配られたものとかいろいろ持って来てくれたって。ちょっとだけ部屋に上がってもらうわね」

 ぐったりと重い体を起こして、母の口から零れるのは数年ぶりのはずの彼の名前を必死に処理しようとする。けれど頭はぐらぐらと揺れて、思わずまたベッドに倒れ込んだ。
 手の甲で打ったにしては乱雑に聞こえるノックのあと、ほんとうに勝己くんは部屋に入ってきた。
 一日中寝ていただけの私は、せめて乱れた前髪だけでも、と必死に手櫛を通してから、ドアの前に仏頂面で立ち尽くす学ランの少年に向かって「なんでいんの」と問った。

「はァ? なんでもクソもねーだろ」
「だって」
「お前がセンセに俺と家近ェとか幼馴染だとかナントカカントカ抜かすから、こんな面倒なことになっとんだろうが」
「ああ……こないだの進路指導のとき、たまたま勝己くんの話になって……それでそんな話をした気もするなあ」
「なに俺がいねえトコで俺の話しとんだ。ったく不快極まりねー」

 勝己くんはひとつ舌打ちをして、今にも底が擦り切れそうなバッグのなかをごそごそと漁り始める。
 まるでひどいコラ画像かと思うぐらいに、学ランに身を包んだ勝己くんと、私の部屋は馴染まない。「花瓶の水」のこと以外で、久しぶりに勝己くんとまともに言葉を交わしていることへの驚きが、じんわりと体の内側から滲むような熱に早変わりする。

「とりえあずそのへん座ったら? お母さん、ジュースかなにか持ってくると思うし」
「いらねー。すぐ帰る」
「そっか。まあ、風邪移ったらダメだしね」
「……それもそーだけど、どう見てもオマエが無理だろ。喋るだけで息切れしてるクセして」

 バッグのなかからプリントを引き抜きながら、勝己くんは鋭い眼で私を睨んだ。俺はすべてを見抜いてるけどどうした、言い訳でも並べるてみるかノロマ、とでも言いたげな表情は、たしかに私の知っている「あのころの彼」のおもかげを秘めていた。
 ン、と素っ気ない声でプリントの束をテーブルに置いた勝己くんは、私を見て眉を寄せる。

「お前、その調子じゃ明日もガッコ無理だろ」
「うん。……たぶん」
「……なに笑っとんだ」
「いや、まだ勝己くんと普通にしゃべれたんだなあと思って」
「イミわかんねえ」
「だってほとんど口利いてないじゃん。これでも昔はよく一緒に音楽教室行ったのにね。青と黄色のダサいトートバッグ持ってさ。最初、勝己くんのバッグにはライオンのマスコットが付いてたけど、途中からオールマイトのやつに変わったよね」
「……ハァ? ……んでそんなクソみたいなコト覚えとんだ。その記憶のキャパ受験勉強に回せや」
「たしかに」

 彼の言う通り、今日の私は笑うことすらつらかった。昔勝己くんの家でやった格闘モノのゲームを思い出す。勝己くんが手加減もせずに私に使った、変な毒みたいな技のせいで、すこし身動きしただけで体力ゲージが砂時計のように減っていった。
 勝己くんは黙って頬杖をついたまま、私の部屋の壁のなかで一番見ていてもおもしろくない面を睨んでいた。

「あんときお前、俺の真似しただろ」

 低くて、鼻先で籠るような「男の子の声」は、いまだに聞き慣れない。

「……何を?」
「……オールマイトのやつ。テメーも付けてた」

 はっとして上半身を起こしてしまう。じろり、赤いひとみも私のほうに滑ってくる。絶対に私が上手になれないと、その鈍く光る眼差しを見ただけで分かる。
 べつに勝己くんを好きだったことは、ひた隠しにしていたわけでもなかった。
 彼の誕生日にはわざわざ蝶々結びの練習までしてリボンを付けて、手作りのお菓子を渡したくらいなのだ。「付き合う」の意味すら理解していないあの年だったから明瞭な言葉こそ告げていないだけで、その裏にあった感情を悟られていないほうが不自然だろう。

「たしかに、真似したかも」

 あいまいな微笑みを交えながら答える。

「なんで」
「なんでって、好きだったから」
「……何が」

 ほとんど尋問だった。勝己くんの、こういうときに目を逸らさないところが嫌いだ。私の指の曲がり、瞬きの速度も含めて、一挙手一頭足を彼は見逃してくれない。布団の端を握って、乾いた唇を擦り合わせる。

「……勝己くんが、好きだったから」



 元気がとりえの私が三日も続けて学校を休んだのは初めてだった。ほんとうは昨日の朝には熱は引いていたのだけれど、布団から出て学校に行って勝己くんの赤い視線を浴びる気には到底なれなくて、一日無駄に休んでしまった。
 「勝己くんが、好きだったから」。そう言った日の夜、小学校二年生のころクラスメイトに囲まれて茶化されながら、勝己くんが女の子にラブレターを渡された日のことを思い出した。私は男子たちの「こーくはく! こーくはく!」というたちの悪い手拍子には乗らなかったけれど、ランドセルに教科書を詰める手を止めて、その光景を見ていた。
 勝己くんは幼い年齢のせいで、今よりもさらに無慈悲だった。「キョーミねえ!」と大口を開け、ばっさりと目の前の淡い恋心を切り捨てた瞬間に、勝己くんを取り巻く声が男子の告白コールから、女子の批判まじりの悲鳴に変わった。
 ついに女の子が泣き出して、手の付けようがない混沌と化した教室のなか、勝己くんはなぜか私の名前を呼んだ。

「オイなまえ! なんで止めねえんだよ。イインチョーだろ」
「え、いや、止めるって言われても」
「オマエ、いっつもこういうの怒って止めるじゃねーかよ」

 早くどうにかしろよ、という勝己くんの声が鮮明に鼓膜の奥で響く。当時とまったく同じように、天井がぐるぐると回る。
 めまいがして、冷や汗すら滲んだのは、勝己くんに無理難題を押し付けられたからではない。私もすぐに、あの泣いている女の子と同じ立場に立たされると実感してしまったからだ。
 あれから何年も経ったし、私は小さい頃の思い出として「好きだった」と言って、ノスタルジーに浸っただけだ。勝己くんだって「フーン」と低く鼻を鳴らしただけだった。散ることもなければ実ることもない、すでに腐り落ちたはずの初恋を惜しむのは、この世の何より無駄なこと。

 三日ぶりの教室は、どことなくよそよそしく感じた。
 私がいないあいだ、三倍ぐらいの速さで時間が進んでいたみたいに授業内容も友達の会話もちんぷんかんぷんで、ついていくのが大変だった。
 二時間目の授業中になってやっと、日直の字を見て今日が木曜日であることに思い当たる。今朝は「体調はもう大丈夫?」とかわるがわるに心配の声をかけられて気付かなかったけれど、本来であれば、職員室に生花を取りに行って、花瓶の水ごと交換をしなければいけない日だ。私が休んだせいで、かれこれ一週間も花をほったらかしてしまったことになる。
 はっとして窓際の花瓶に目をやる。饐えた花のにおいが鼻先をよぎった気すらしたのに、予想に反してガラスの花瓶の中の水は一点の濁りもなく透明だった。調子づいてきた日光を取り込み、教室の白い壁にプリズムをつくっている。学校を休む前に見たのとはちがう色の花弁は、隅から隅まで鮮やかでみずみずしかった。
 私は先生が黒板に英文を書いているすきに、右斜め後ろの勝己くんを見る。
 突然振り向いた私に、勝己くんは険しい顔をして頬杖から顎を引いた。

「ありがと」

 くちびるだけでそう告げた。告げてから気付いた。もしかしたら、花瓶の水を変えてくれたのは勝己くんじゃないかもしれない。係でもなんでもない、ほかのクラスメイトが気を利かせて──。

「……別に」

 煩わしそうに瞼を伏せながら勝己くんが呟くのを聞いて、春の風に吹き上げられるようにして心が躍った。
 本当は、彼であってほしいと願っていたのだとわかった。ばかみたいに痛々しかった初恋を、まだ腐らせないでいたかった。
 躊躇いがちに視線を二、三度行ったり来たりさせたあと、勝己くんは「風邪はもういいんかよ」と呟きを返す。

「うん、もう大丈夫だよ」
「ふうん……アッソ。じゃあもう引くなよ」

 とうとう顔ごと反対方向を向いてしまった勝己くんの髪を、ゆるい風が撫でる。なぜだかわからないが、それを見てどこか懐かしい気分になった。

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