「おいコラ俺のスニーカー踏んでんじゃねえ」、玄関のほうからふいに聞こえた爆豪の声に思わず肩を揺らしてしまう。ほんの少しだけ、テーブルにいるみんなには到底気付かれない範囲で。三日前に些細なことで喧嘩をした夜の、ささくれ立った彼の声がまだ鼓膜に引っ付いているのだ。
 私と爆豪が喧嘩をしていることになんて、クラスの誰もが気付かない。それどころか、クラスのなかでもあんまり関わっていない者同士に見えているに違いない。彼とただの友達から恋人になったのも、まるで音も立てずにそっとすれ違いざまに手を握るような感じで、自分自身ですら二週間は実感が湧かなかったし。

「今朝も賑やかですわね」

 百ちゃんが柔く微笑む。彼女がくゆらす紅茶の湯気までもが、どことなく優雅だった。
 特に約束もしていないけれど、クラスの女の子たちと談話室のテーブルに集まって、おのおのの『朝の一杯』を飲みながらゆったりとくだらない話をするのが、日曜の朝の恒例行事だ。

「男子たち? うるさいだけでしょ、まあ私たちも負けてないかもだけど!」
「あーっ、芦戸が俺らの悪口言ってる!」

 無作法にも人差し指をこちらに突き出した上鳴を先頭に、ぞろぞろと男子たちが談話室に入ってきた。Tシャツにハーフパンツ、首に引っかけたスポーツタオルを見るかぎり、ランニング帰りらしい。平日とはちがってしなびた髪の切島の後ろに、爆豪の姿もあった。スカした不良みたいに一人だけ壁のカレンダーに目をやっている。お茶子ちゃんの、お茶子ちゃんらしい字で、クラスメイトの誕生日が書いてあるだけのカレンダー。本当にそんなカレンダーなんかが気になったのか、それとも私の姿を視界に入れたくなくて見ているフリをしているだけなのか、分からない。

「言ってな〜い! 休みの日もみんなでランニングなんて、仲良しだねえって言ってたの!」
「俺らが勝手に爆豪に付いてっただけだけどな!」

 上鳴が言うには、途中から苛立ちのあまり全力疾走でみんなを撒こうとした爆豪に付いて行くのに、相当骨が折れたらしい。どうりで爆豪の唇はいつもに増して歪に曲がっているし、どうりで上鳴の前髪は汗でびしょ濡れて、ぱっくりと割れているわけだ。

「そう言うお前らだって仲良くお茶会してんじゃん! ったく俺も呼べよな」
「上鳴、しんどかったって割には元気じゃん」
「そ? まーな! ゆーて爆豪も、長キョリより短キョリタイプだし?」

 皮肉を浴びせようとした上鳴くんの意地悪な顔に、爆豪は手のひらをかざさなかった。それは私を含めてみんなの予想に反していたらしく、拍子抜けしたみたいに空気が緩んだ。
 爆豪はテーブルの周りに渋滞したクラスメイトを躱して、「ルセー」と紙くずみたいな言葉を捨てていった。「あーコレはガチのやつだわ」と呑気に肩を竦める上鳴のかたわら、私の心の端っこには寂しさが降り積もり始めていた。



 私は夕飯どきの前の談話室がいちばん静かなのを知っている。不思議なくらいに誰もいない。このことは百ちゃんにも、三奈ちゃんにも、お茶子ちゃんにも教えたことがない。けれど付き合ってからはじめて爆豪が部屋に来たとき、二人きりの空間でじんわりと滲んでくる、生々しい恋人同士の空気に耐えかねて、このことを含めて、どうでもいいことをべらべらとしゃべってしまった。
 そんなことを思い出しながら、興味もないゴルフ番組を垂れ流し、ソファの上で借りたマンガのページを捲る。時計の秒針だけが進んで、テーブルの上に出した数学の課題ノートは、四十分ほど手つかずのままだ。やる気もないのに出し続けている理由は、百ちゃんとか轟くんとか、真面目な人にこんなだらけた姿を見られるのはちょっとばつが悪いからで、あとひとつは。
 ――『爆豪、課題教えて』、メッセージにすればものの数秒しかかからない文字列に、どうしてこんなに手間取っているのか。語尾に『よ』を付けてみたり、やっぱり全部消して『こないだはごめん』と売ってはまた全部消してみたり、そんな堂々巡りを三分ごとに繰り返している。
 エレベーターホールから話し声が聞こえて、なぜか慌ててスマホをロックした。

「おっす! お、みょうじひとりしかいねーの? 珍しー」

 ポケットに手を突っ込んだ切島くんが、誰かが隠れているはずもないのにあたりを見回して言う。

「うん。珍しく誰もいないからくつろいでた」
「貸し切りだな! そうだ、俺ら今から下のコンビニ行くとこだけど、お前もなんか買うもんあるなら行くか?」

 ほんとうはパックのピーチティーが飲みたかったけれど、『俺ら』という単語と、切島くんの後ろから遅れてやってくる足音で何かを察して、首を横に振った。

「そっか! んじゃ行ってくるわ!」

 案の定、彼の後ろからは爆豪が顔を出す。ソファの背もたれの向こうにいるのが私であることを確認して、きゅっと眉根を寄せたのがわかった。他の誰かの視線があるとき、爆豪は必要以上に目を合わせてはくれない。だからこそ二人きりになったときの、躊躇いもなく私のひとみに向かう、世界に私しかいないのかと錯覚するようなまっすぐな視線にたじろいで、くだらないことばかりしゃべってしまうのだけれど。

「……あ、バクゴー」

 乾いた声が、勝手にそう呼んでいた。逸らされかけた瞳が、私に引き戻される。それがどこか面倒くさそうにも見えて、泣きたくなる。自分がこんな情緒不安定だなんて、知らなかった。

「……ン」
「あ、いや、なんでもない。ごめん、切島くんたち待ってるから行って」

 視線を落としてはじめて、彼の足が目の前で立ち止まってくれていたことを知った。「コンビニ、行ってらっしゃい」とだけ言ってそのまま視線を上げずにいたら、角ばった彼の足は、視界から音を立てずにいなくなった。



  私は夕飯どきの前の談話室がいちばん静かなのを知っている。不思議なくらいに誰もいない。規則的で愛嬌のない時計の秒針の音が、私をますますみじめに仕立て上げる。たしかに、「ごめん」「そろそろ寂しくなっちゃって」の一言すら素直に口にできない可愛げのない女にはピッタリかもしれない。
 ソファの背もたれに頭をも預けて、天井を仰いだ。ゴルフボールがホールに入る、小気味のいい音がテレビから聞こえた。窓の外の道のうえに、切島の赤い髪が見える。梅雨明けの目の覚めるような青い空とその赤は、今にも喧嘩しそうなぐらいお互いが鮮やかだった。

「……可愛げのねェ女」

 ふいにそう聞こえて、はっとして重たい頭を背もたれから起こす。けれどその瞬間に広い手のひらが伸びてきて、また同じ場所に逆戻りさせられる。ぐわんぐわんと忙しい視界は、なぜか納得のいかなそうな表情の爆豪を一瞬だけ捉えた。だから、暗くなる視界も、唇にあてがわれる柔らかい感触も、一体誰のしわざであるのか、すぐに分かった。
 ほんの数秒だけそうしたあとに、何も言わず爆豪は離れていった。音も立てずに通りすがりにするようなキスは、きっと誰にも気付かれていない。

「おーいバクゴー、財布あったかー?」

 玄関から聞こえる陽気な声に、思わず肩が跳ねる。チッと舌打ちをした爆豪がくるりと私を振り返る。赤いひとみがわずかに揺れている。もっとこうしていたくて仕方がないというふうな、ひりついた視線。そう感じたのが、私だけの勘違いでありませんようにと祈った。

「……戻ったら、お前ん部屋行く。……あと、お前がいつも飲んどるやつ、買ってきてやっから」

 待ってろ、と言い終えないうちに視線はもう逃げてしまうけれど、鈍い残像を残した。

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