夏の日差しが、好きなひとの白いワイシャツだけをひときわ眩しく照らしつけるのはなぜだろう。
 ひらいたままのドアから流れ込んでくる熱気に気圧されて、冷房が敗北しかけている車内。頭上から降ってきた「おう」という声に顔を上げると、轟くんがそこにいたのだ。

「みょうじも今から実家帰んのか」
「……そう! 轟くんも?」
「ああ」

 彼は頷きながら、空いている私の右隣に腰かけた。しっかりと背もたれに背中をつけてから「あ、隣いいか」と尋ねられて、タイミングのちぐはぐさに笑ってしまう。「もちろん。ていうか私も五秒前に座ったばっかり」と返事をすると、彼は「だよな。ここ最寄り駅だしな」とすこし空気を零した。
 轟くんの笑顔を見ると、たまらなくなって胸のあたりをしわくちゃに握りしめたくなる。夏休みのうちしばらくは、寮も閉まってしまう。夏休みが明けるまでもう会えないからと、寮の門を出るときに名残惜しさに背中をなぞられながら見つめた平たい背中――が、偶然またとなりにある。

「みょうじん家は、こっからどんくらいなんだ」
「二時間弱かな」
「まあまああるな。俺も一時間ちょいだけど、二時間も乗ってるとだいぶ暇じゃねえか?」
「暇だよー。スマホの充電なくなったら困るし、もはや寮からマンガ持ってきちゃった」

 こんなことを言ったらアホっぽいと思われるかも、と思い当たったときにはもう、それをバッグから取り出してしまっていた。真面目な轟くんはくだらない私の話に乗るために、すこしだけ首を傾けてくれる。白銀の髪の束がさらさらとこちらに落ちるのを、視界の端で捉えてしまった。呼吸が止まりそうだ。

「……普段そんなに読まねぇから、表紙見ただけじゃどんな話か分かんねえな。戦うやつか?」
「え、おもしろいよ! あのね──」

 思いのほか轟くんが興味を示してくれたのが嬉しくて、数秒前の反省は地球の裏側まで飛んで行ってしまう。
 ひととおりのあらすじを夢中で説明したあと、はっと我に返る。轟くんの両のひとみはいつの間にかマンガの表紙ではなく私のほうに向いていた。どこかきょとんとした表情に、完全に轟くんを置いて行ってしまったことを悟る。

「ご、ごめん! 超早口で説明しちゃった。わかんなかったよね」
「いや、だいたいわかった。……多分。みょうじの言う通り、おもしろそうだって思った。というか、夢中でしゃべってるみょうじがおもしろかった」

 好きなひとから向けられる「おもしろい」という言葉が、こんなに捉え方に困るものだとはじめて知った。少なくとも手放しでは嬉しがれない。轟くんの瞼がやわらかに伏せられているのだけが救いだった。

「……よかったらだけど、轟くんも読む? 家着くまで暇だよね」
「いいのか」
「うん。私は何回も読んでるやつだし。はい」

 マンガが轟くんの手に渡るとき、一瞬だけ指先同士が触れあった。指先にじんわりと冷たさが残る。体温を灯されたみたいでどきどきする。夏休みのあいだ、この名残が消えなければいいのに、とぎゅっと拳を握り込んだ。
 しばし黙って揺られるだけの時間が続いたあと、轟くんはマンガを数ページめくったところで、ふいにぱたんと閉じてしまった。

「轟くん、どうしたの」
「悪い、気付かなくて。これじゃお前が暇なままだよな」
「え?」
「なあ、これ借りて帰ってもいいか?」
「うん、いいけど」
「……じゃあ、俺が降りるまでこのまま話してていいか。お前が好きなマンガよりおもしろい話できる自信は、ねぇけど」

 轟くんはすこし申し訳なさそうにそう言って、窺うような視線をこちらへ寄越した。
 すっかり冷房が効ききった車内、私の体温だけが上昇する。
 あまりの嬉しさに喉元がぎゅうと締まって、言葉が出ないままに深く頷いたら、轟くんは口角をわずかにやわめた。
 十数秒のあと、「急に何話していいかわかんなくなっちまった」と言う轟くんの不思議そうな顔に吹き出してから、会話は一度も途切れなかった。



 実家の玄関の引き戸を開ける音にどこか懐かしさを感じていたものの、夏休み四日目にもなればそんな感覚も薄れてしまった。
 立地のせいか学校よりもいくらか涼しく、日が暮れかけてからはエアコンもいらないのはいまだに新鮮だが。

「焦凍、おかえり! 遊びに行ってたの?」
「ただいま。ああ、ちょっと本屋に」
「へえ、焦凍も読書とかするんだ」

 頬に手を当て興味津々に見える姉さんをなんとなく躱して、一人になれそうだと踏んだ客間の襖を開けた。
 畳の上に背中を預けて、買ってきたマンガの表紙を捲る。みょうじに勧められたマンガは、みょうじの言う通りにおもしろかった。借りてきたのは一巻から四巻まで。その続きが気になって、近くの書店に急ぐほどには。
 ページを捲る手は止まらず、最新巻の裏表紙を閉じた頃には、空はとっぷりと藍色に染まっていた。

「焦凍ー! もうすぐ夕飯できるからね!」

 居間から響いてくる姉さんの声に、「わかった」と返事をする。静かな夜のなか、姉さんが絵付をしたという風鈴が夜風に泳いで、ひかえめに鳴いた。

『え、おもしろいよ! あのね──』

 帰ってくる電車でのみょうじとの会話が、ふと脳裏に蘇った。まるで口からひとりでに溢れてきてるみたいに、飾り気なく弾んだ声。好きなもののことを話すあいつの姿は、見ていてひどく楽しかった。もっと聞いていたくなった。
 今だってそうだ。なのに、夏休みが明けるまでの日数を頭のなかで数えて、うんざりした。
 数秒のあと、耳元ではすでにコール音が鳴っていた。

『……あれ、もしもし? 轟くん……?』

 どこか躊躇いがちだが、たしかにあいつの声が聞こえる。

「悪いな、夜に。今電話して大丈夫だったか」
『大丈夫……だけど、急にどうしたの!? 課題でわかんないとこでもあ……るわけないよね』
「なに勝手に話進めてんだ? ちょっと、みょうじと話したいことがあって電話した」
『えっ……話したいこと?』

 みょうじの身構えたようすの声は、俺が借りたマンガを読んだこと、おもしろかったこと、我慢できずに続きの巻きを買いに行ったことを話すたびにみるみると緩んで、軽やかな笑い声に変わっていった。

『うんうん、やっぱそのシーンいいよね! 私二番目に好き! 一番好きなのはやっぱ六巻の――』
「『俺の秘密を教えよう』のとこだろ。読みながら、なんとなくみょうじが好きそうだと思った」
『そーそーそー! ……っていうかまさか、轟くんとマンガのことで語れるなんて思ってなかったよ。楽しい』
「ああ、俺もだ」

 ただ相槌を打っただけの、その自分の声が想像以上にやわらかく掠れていて、思わず口を噤んでしまった。まるで自分の声じゃないみたいに優しくて、急に、得体の知れない羞恥心にくるまれる。
 ひととおり笑い声を立てたあとに、みょうじが呼吸を整えるのが聞こえた。同時に、夜風が頬を撫でつける。
 いつもは同じ階の、連絡通路をはさんだ向こうにいるみょうじだ。それが当たり前だった。けれど今はどんなに耳を澄ましても、今のみょうじがどんな顔をしているのかわからない。同じ夜風が吹くこともない。それは、苛立ちそうなくらいにもどかしい。

『そうだ。夏休み明けたらさ、他にも轟くんが楽しめそうなマンガ探しておくから、また読んでみてよ』
「いいのか。みょうじ、いろいろ持ってるんだな」
『先生には内緒だよ。勉強もせずに何やってんだって怒られるから』

 自分のことを考えながらみょうじが何かを見繕ってくれる姿を想像すると、胸のあたりでなにかが蠢いた。壁にかかったカレンダーを見やって、さっき数えたばかりなのに、夏休みが明けるまでの日程を数えた。減るわけもないのに。

「……夏休み、終わんの楽しみだな」
『え〜本気? 私、困るよ。ぜんぜん課題終わってないし』
「だろうな」
『なにその言いか――あっ、轟くんち、今風鈴鳴った? きれいな音だね』
「鳴ったな。今縁側にいるからな」

 まるで一年に十二個の季節があるみたいにみょうじの話題はころころと移り変わって、底が見えない。電話はいつか切らなければならないことも忘れて、とりとめもないことを話し込んだ。

「焦凍、電話中だよね?」

 襖の奥から顔を出した姉さんが、小声でジェスチャー混じりに尋ねた。同時に電話の向こうからみょうじの『もしかしてお姉さん?』という声もする。気を遣ったのか、

『ちょうど私も夕飯の時間だ。たくさん話せて楽しかった!』

と切り出されたので、俺も姉さんに向かって頷いた。

「ああ、また今度、学校で」
『うん、寮で!』

 またな、と言って電話を切ったあと、閉まりかけた襖から、姉さんがいそいそと姿を現す。

「ごめんごめん、電話の邪魔しちゃったね。ごはん冷めちゃうから様子窺おうと思っただけなんだけど」
「いや。別に大丈夫だ」
「そう……ふふ、焦凍、相変わらず学校楽しそうでホントによかった!」
「そうか?」
「そうよ! だって、さっきの電話だって、たくさん笑ってたもん。今だって、口がちょっとこうなってるし」

 姉さんは、両の人差し指でくちびるの端と端を、それぞれ上と下にちぐはぐに持ち上げた。あまりにトンチキな表情に言葉を失ってしまうも、それが自分の真似だと思い出して、はっとして手で口を覆った。
 自分の声が自分の声じゃないみたいに優しい理由が、もっとみょうじの声を聞いていたい理由が、夏休みが終わるのが楽しみな理由が、点と点で繋がってしまう。
 「電話してたのって緑谷くん? 違う? その友達も、またうちに連れて来てね」と姉さんは微笑む。居間のほうからは夏らしい香り炒めのにおいが漂ってきて、空になった胃に染み込んだ。腹は減ったけれど、とてもそれどころじゃない。
 目に入ったカレンダーの日付を、また数える。たぶんだけど俺は、あと八日も待てない。
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