※プロヒIF

 ――今夜、彼と過ごした五年間に終止符を打とうと思っていた。

「……なあ、俺らそろそろ一緒に住まねえ?」

 ほんのすこしの躊躇いを孕んでいただけで、彼のその提案は唐突だった。
 私は驚きをちっとも隠せずに、皿のうえのレタスを掬うのに苦戦していたフォークをぴたりと止めて、しばらく黙ってしまった。

「……え、え? アレ? もしかして、嫌?」
「いや、ちがう。そういんじゃなくて……ごめん。びっくりして」
「あ、そうだよな! てか俺こそごめんな、何の脈絡もなくこんな話してさ」

 上鳴くんはひっくり返った声を元に戻して、グラスのなかの黄金色の液体をあおった。すぐさま、上等なスーツに身を包んだ店員が滑るようにやってきて、彼にリストを差し出す。「お、おんなじやつで」としどろもどろに答えるのを見て、今夜の彼はたしかに調子が外れている、と確信する。
 私も私で動揺を隠すために、グラスに唇をつけた。乾いた喉を焼くように、じんわりと液体が体内を滑り落ちる。

「……急にどうしたの、『一緒に住もう』とか」

 卑怯だとはわかっていながらも、答えのかわりに、時間稼ぎのような質問を彼に寄越した。
 上鳴くんは私の問いを聞いて、ほんの一瞬の間、固まってしまったように見えた。え、と掠れた母音だけをテーブルのうえに落として、ただ瞬きをする。

「……どうかしたから言ってるってゆーか、俺はずっと、いつかなまえと一緒に住めたらいいなって考えてたけど。将来に向けて、生活リズムとかモロモロすり合わせる意味でも……まあ、なまえの意見も聞かずに急に言い出したら、そりゃビックリもするよな。ゴメン」

 やがて彼は曖昧に笑って、おどけたように後ろ髪を掻いた。

「……別に、今すぐにーとか考えてるわけじゃねーから、焦んないでほしいんだけどさ。大事なことだから、しっかりじっくり、考えてほしいっつーか……俺は真剣だから、いくらでも待てっし」

 たしかに彼は真剣だとわかった。こういうときに真剣であればあるほど、自信なさげに眉が下がるくせを知っているからだ。この表情がたまらなく好きだった、と思う。私たちが寮のベッドのなかで夜な夜な他愛もないメッセージをやり取りする「友達」だったあの頃から、あまりにも時間が経ちすぎたみたいだ。
 思い出せないことが日に日に増えていく。こんなのただのツーショット写真なのに、なんでお気に入りマークを付けてたんだっけ。上鳴くんの走り書きの字と、変な落書きしか書かれていないメモを、どうして通帳の間になんて挟んで置いておいたんだっけ。
 思い出せないことが増えるたび、どんどん私が私でなくなっていくような心地がした。
 その一方であの頃とちっとも変わらない上鳴くんが、どうして私なんかのそばにいてくれるのか。それが何より大きな疑問として、ずっしりと重々しく、私のなかに居座るようになったのだ。

「……一か月!」
「え?」
「とりあえず一か月、考えてみてくんね? 俺んち泊まりにくる回数とか増やしてみるとかどう? 俺がそっち行くのでもどっちでもいーしさ。んで『こーゆートコ無理』って思ったら遠慮なく言って。めいっぱい善処すっから」

 「あ、あと、電気代はチョー浮くぜ」と付け足した彼の得意気な顔を見て、思わず笑みを零してしまった。上鳴くんがすこしほっとしたように見えて、さっきまで別れを切り出そうとしていたことも忘れて、申し訳なさすら感じてしまう。

「……じゃあ、決まりな」

 彼の弾んだ声にかんたんに頷いてしまうほどに、私の意志は脆かったらしい。彼に返した笑みがどこか同情に似ているとわかっていながらも、まるで子どものように、必ず来るはずの痛みをただただ後回しにしてしまった。



「あ! ちょっと待って」

 仕事の合間を縫って食事に行ったあと、気分転換にと夜の公園を散歩をしていたときのこと。となりを歩いていたはずの上鳴くんの手が肩に添えられて、歩みを制止される。どうしたの、と尋ねる前に私の足元にしゃがみ込んだ上鳴くんは、所在なくコンクリートの上に散らばっていた私のスニーカーの靴紐の端と端を拾い上げて、きゅっと結び直してくれた。

「んあーゴメン、若干縦結びっぽくなっちったからやり直してい?」
「そんなに縦結びに見えないよ?」
「俺が気に入らねーの! 悪いけど、もーちょい待ってな」
「ありがとう。ていうかこんぐらい、自分でやるのに!」
「いーの、俺の自己満だし。こーゆーの、彼氏の特権だし」

 上鳴くんは、私を見上げてにっかりと笑う。「はいできた」と立ち上がると「それに俺、スニーカーの紐結ぶの慣れてっし」と、足元に纏った大ぶりのスニーカーを見せびらかすみたいに足取りを弾ませた。
 上鳴くんが一年ほど前からスニーカー集めにハマったせいで、今や彼の家のシューズボックスには色とりどりのスニーカーがきゅうきゅうに並んでいる。毎朝どれを履くか選ぶのが楽しみだと言い、たまに私にも「これ、なまえが履いたらゼッテー似合うしかわいいと思って!」とスニーカーをプレゼントしてくれた。今履いているのだって、上鳴くんからもらったものだ。

「なまえが履いてんの、やっぱ超似合ってる。やっぱ俺って見る目しかねーよなあ」
「プレゼントしてくれてありがとう。上鳴くんが履いてるのも、冗談抜きでどれも似合ってるよ」
「またまたぁ〜、ついこないだは『また増えた? 上鳴くんの脚は二本しかないのに』とか言ってたクセに!」
「それこそ冗談だって。こないだごはん食べに行ったときみたいなキッチリした格好も新鮮でよかったけど、私はいつもの、スニーカー履いてる上鳴くんのほうが好きだ」

 私がそう言うと、数歩先をふらふらと歩いていた上鳴くんが、ぐるりとこちらを振り返る。
 誰も座っていないベンチを健気に照らし続けていた街灯が、ぱちりと一度だけ点滅した。
 
「……好き? 俺んこと」

 聞き返しただけ、にしては、彼の声は乾いていた。目じりはどこか泣きだしそうで、それでも唇は弧を描いていて。最近の上鳴くんはよくこんなふうに、ちぐはぐでどこか痛々しい表情をする。

「……うん、そう言った」

 私の声のほうが渇いていた。上鳴くんが紐を結び直してくれたスニーカーの右側が、左側よりもちょっときつい。釣り合わない。ちょっとだけ気持ちが悪い。足をよじれば、コンクリートと靴底のはざまで砂利が悲鳴をあげた。
 短い沈黙のあと、笑い声を零したのは上鳴くんだった。「じゃ、コンビニでアイスでも買って帰ろーぜ」と私の背中を叩く、その手のひらが優しいと思った。



 別れを告げようとしたちょうどその日を境に、皮肉にも彼と過ごす時間は増えていた。
 上鳴くんは言葉通り、私を頻繁に家に誘ってくるようになった。「さすがに俺の部屋着ばっか着せんのも悪いなーと思って」と、メンズとレディースでペアになったルームウェアを渡されたとき、あまりの意外さに目を見開いてしまった。
 お互いの職業柄、四六時中べたべたと過ごすよりも適度な距離を保っていたほうがいいと考えていたから、部屋着を置いておくほど彼の家に入り浸ることもなかったのだ。上鳴くんだって、事務所で頼りにされているぶん出動が多い。たまに会えた夜もクタクタだった。私をエントランスまで見送りながら「もっと一緒にいてーとか、ワガママ言ってくれてもいいんだぜ?」と笑っていたけれど、本心では同じことを考えていると思っていた。
 今思えば、一緒にいた月日のわりに、お互いの生活の深いところを見た機会は少ない。彼との生活はこんなものだろうな、と大方の想像はついても、しょせんは想像だ。
 けれど、彼の家にはじめて三連泊した朝、窓から差し込む朝日を額いっぱいに浴びた上鳴くんが「今日、昨日よりすっげー晴れてね!?」と子どもみたいなボリュームでそう言ったのは、あまりにも想像通りで笑ってしまった。
 上鳴くんは、私に笑われたのがすこし恥ずかしかったのかぎゅっと唇を噤んでから、すこし改まったように表情をつくる。

「……で、三週間くらい経ったけど、どーよ。俺との生活」

 「つってもただの半同棲に過ぎねーけど」と付け加えた彼は前髪の寝ぐせを手で掻き上げて、朝日を背に私を見下ろした。

「なあ、楽しい?」
「……楽しい、っていうか」
「……んえ、楽しくねーの!?」
「楽しいっていうか、なんだろう――」

 その続きに、けっしてネガティブな言葉を並べようと思っていたわけじゃなかった。それなのに、頭のなかから知っている言葉がすべて抜け落ちてしまったみたいに、何を言えばいいかわからなくなった。
 あてもなく緩んだ唇の代わりに、瞬きをする。上鳴くんははっとして、私が見せてしまった明らかな空白を、その全身でもって埋めた。きつく私を抱き締めた上鳴くんの腕から、背中から、首筋から、すこし着古した白いTシャツから、どこか懐かしいようなにおいが漂う。たっぷりと陽に晒した布団にくるまったような、日曜の午後のような、そういうにおいに似ていた。

「いーよ、言葉になんないこと無理に言葉にしなくたって。俺は言葉がほしかったんじゃねーから」
「……ごめん」
「もぉ〜、ホントなまえってすぅぐ謝る。なんで謝んの〜」

 まだ手ぐしすら通していなかった髪を、上鳴くんが余計にぐちゃぐちゃにしてしまった。
 彼が腕の力をもっと強くしたせいで、身動ぎして顔を見ることもできない。ただ、上下した喉から、私の肩に寄せられる首筋から、すこしだけ涙のにおいもした。



 窓の外の橙がうっすらと紫を帯びてきたころ、上鳴くんがカーテンを閉じた。
 月に一度あるかないかの二人揃っての非番の日だったけれど、ソファに並んで座り、テレビで映画を垂れ流すだけで今日が終わってしまった。たぶん、私も彼も真剣に映画を観てはいなかった。二人の間を埋めるなにかがほしかっただけなのだろうと思う。

「……そろそろ、自分ちに帰ろうかな。明日は朝早いし」

 カーテンがレールを滑る音をきっかけにして、そう切り出した。

「……ん、わかった。じゃあ送ってく」
「いいよ、わざわざ」
「んじゃ駅まで。タクシー拾うっしょ」

 上鳴くんは手近なパーカーをすっぽりと被った。乱れた髪を整えている最中に私の視線に気付くと、にっこりと口角を上げてみせた。今朝のどこか湿ったような空気の気配がしないことに、ほっと胸を撫で下ろす。
 彼のマンションから駅まではさほど遠くない。「夜は意外と冷えるね」「おまえ上着それしかねーの?」「家に帰ったら分厚いのがある」「バーカ、俺んちからなんか持ってこいよ。……や、気付かない俺が悪かった。彼氏力低くてごめん」――と他愛ない会話をしていれば、すぐにロータリーが見える。
 じゃあここで、と切り出すタイミングを探していたところで、上鳴くんはだんだんとスピードを失って、とうとう立ち止まった。

「どうしたの?」
「いや……なんか、もうちょっと歩かね? もういっこ先の駅からタクシー乗るってのはどう?」

 自信なさげに宙を彷徨う人差し指。彼がいつも通りではないことだけはわかる。

「いいよ。もうすこし話す?」
「ウン。……っていうか、やっぱ来た道戻って俺んちにもう一泊してけば? なんか外出てみたら想像以上にさみーし、タクシー乗るとはいえ夜道心配だし。なまえんとこの事務所までなら、明日の朝タクシー呼べばそんなかかんねーし、タクシー代俺が出すから」
「……上鳴くん」

 ――またこの顔だ。私まで泣きそうになってしまう、少年のようにあどけなく、切り傷に息を吹きかけたようにひりひりと痛々しい表情。
 名前を呼んだだけなのに、なぜか上鳴くんの肩がびくつく。私も言葉を探している最中だというのに、上鳴くんの震えた声が「待てって」と小さく響いた。ぎゅっと眉根が寄せられる。

「俺、やっぱなまえのこと帰せねーよ」
「……べつに、家に帰るだけだよ。どこにも行かないよ」
「ウソつけ! 行こうとしてたじゃんかよ!」

 突然荒げられた彼の声に刺々しさはない。けれど、乾ききっていた。
 自分が彼に告げようとしていた言葉。流されるままに曖昧に過ごしてしまったこのひと月。上鳴くんがそれに気付いていながら私に笑顔を向けてくれていた現実。見ないふりをしていた切っ先を喉元に突き付けられて、短く息を呑んだ。

「俺はバカだけどさあ、なまえだって隠すのヘタなの。気付かないわけねーよ、あーなんとなく今日明日にでも振られそうだなっつーことなんか……」

 目じりに滲んだ透明の粒は、彼が自嘲的な笑みを浮かべたその拍子に零れ落ちる。

「上鳴くん、ごめん。私、自分の気持ちわかんなくなって――」
「『ごめん』とか、そんなのマジでいらねーよ。けどこんなこと言ったってどうしようもないのもわかってるよ。だから、ちょっとでも考え直してほしくて勇気出して、一緒にいる時間増やして、逆効果だったかもなーとかビクビクしながらも、なまえの気持ちを差し置いて、俺はなまえが傍にいる生活がバカみたいに楽しくて……てかなんかもう、俺アホだよな」

 上鳴くんは力が抜けたみたいにへらへらと笑って、そのあと項垂れたように視線を落とした。釣られて視線を落とした先で、上鳴くんが前に「一番のお気に入り」だと言っていた、黒いスニーカーの紐が解けていた。そういえば、上鳴くんの靴紐が解けているところを見たことがない。人間の脳は馬鹿らしくて、そんなどうだっていいことに今更、しかもこんな局面で気付いたりする。

「……あーあ、俺、靴紐結ぶのチョー得意なのに」

 彼は鼻声のまま、力なく笑ってそう言った。けれど結び直すために屈むことはなく、そのまま立ち尽くす。

「……きっと、どんなにうまく結んでても、歩いてたらいつか解けちゃうよ」
「だよな。ま、そのたびにまた結び直せばいいんだけど。自然にちょうちょ結びに戻ることなんかあり得ねーし」

 上鳴くんはパーカーの袖で目じりを拭って、すこし笑った。じんわりと、温かく染みるような感情が喉元に広がる。それは、五年前に「おまえのこと、マジで好きなんだけど」と真っ赤な顔で告げられたときの息の詰まりとも、はじめて上鳴くんと手を繋いだときの胸のはずみとも、どれとも違うようで、どれとも少しだけ似ていた。

「話戻るけど、俺はなまえといて楽しかったし、これからも一緒にいてーから、別れたくねーよ」
「……私の気持ちがあいまいだったこと、いやじゃないの」
「五年も一緒にいんだから、どんなに好きでもわかんなくなるときぐらいあるって。……ま、俺はまだねーけど。だってさあなまえ、ひらがなの『あ』って五億回書いてみ? アレェ!? 『あ』ってこんなんだったっけ!? ってなるぜ、絶対」

 的を射ているようで射ていない喩えがどこか上鳴くんらしくて笑ってしまう。

「そしたら、そのたびに俺が『電気のことやっぱ好き!』って思わせればいーじゃんね。思い出話とかすればいい? どっちが自撮りうまいか言い争いながらツーショ撮った話とか、お互いの家から帰るときにこっそりスニーカーん中に落書き付きのメモ入れんの一時流行ったよなーとか。ま、俺はなまえのこと好きかどうかわかんなくなったことはまだねーけど」
「いちいち私のモノマネ入るのはなんなの?」

 私はすでに、笑いを堪えられなくなっていた。
 思い出せないことが日に日に増えていた。こんなのただのツーショット写真なのに、なんでお気に入りマークを付けてたんだっけ。上鳴くんの走り書きの字と、変な落書きしか書かれていないメモを、どうして通帳の間になんて挟んで置いておいたんだっけ。――なんて、くだらないひとつひとつの記憶は、私が思い出せなくても彼が思い出させてくれると、どうして気付かなかったのだろう。
 上鳴くんは私を見て、幸福そうに目をやわめた。

「……いろいろ言ったけどさ、思い出とか、この際別にいらねーよ。明日、俺のとなりになまえがいればそれでいいや。俺の人生にはさ、おまえがいてくれなきゃ意味ねーの」

 まだうすく涙の幕が下りたたままの瞳が、私をまっすぐに見つめた。いつもは茶化さずにいられないくせに、だいじなときに限って、なんの飾り気もなくキザな台詞を吐いてしまうひとだ。
 じんわりと染みるような感情が愛おしさだと、今ならわかる。
 「私こそいさせてほしい」、そう返事をしてゆっくりと膝を折る。所在なく地面に散らばった、黒いスニーカーの靴紐。両端を引いてぐるりと輪をかけている最中に、生ぬるい透明の粒がまた、ぱたりと落ちてきた。
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