※三年生IF

 月曜の朝。ごうごうと低く唸る四角い箱の中の、狂ったように踊る布のかたまりを眺めていた。轟音のなかに、ドアノブを力任せに捻る音が混じる。
 姿を現した爆豪は、部屋着を肘までまくったその逞しい腕の中に、どっさりと体操着の入ったカゴを抱えていた。私を見るなり呆れたように瞼を細めては、ピクリとひくつかせた。

「……っとに気持ちわりーな、お前。洗濯物ガン見する以外にやることねーんかよ」

 「おはよう」なんて爽やかな単語は、彼のボキャブラリーにはないらしい。丸い透明のドアを開けて豪快に洗濯物を放り込んだあと、フタに印字された目盛りをこれでもかと鋭く睨み付けながら、青い液体を注ぐ。ガサツなのか神経質なのか、ハッキリしなよと言いたくなる。

「おはよう、爆豪」
「……おう」

 爆豪は自分が放った「おはよう」を隠すみたく乱暴に、洗濯機のドアを閉めた。彼がとなりのベンチにどっかりと座って、組んだ脚のうえでマンガ雑誌をぱらぱらと捲り出したと同時に、四つある洗濯機のうちの二つめが、ゆっくりと獣のように唸り出す。
 月曜の朝。ごうごうと低く唸る四角い箱の中の、狂ったように踊る布のかたまりを眺めていた。轟音のなかに、爆豪の指の腹がマンガのページをなぞる、その乾いた音が混じる。
 土曜の夕方なら、三奈ちゃんがイヤホンをひとつ貸してくれて、流行りのダンスミュージックを聴かせてくれる。日曜の朝なら、みんなで洗濯機を使う順番をかけたじゃんけんをして、待っているあいだは談話室でテレビを観たりなんかして。
 どれも洗濯が終わるまでの二、三十分の隙間を埋めるには楽しすぎる時間のひとつだけれど、実は私は、月曜の朝のこの静かな時間がとりわけ好きだった。
 当たり前だが、クラスメイトとは生活リズムがほとんど同じなだけあって、日曜の共同スペースは混雑を極める。きっかけは「それならすこし早起きをして、一番みんなが使わなさそうな月曜に」と考えてランドリー室のドアを開けたことだ。誰もいないと高を括っていた薄暗い部屋のなかに、色褪せた髪がゆらりと揺れた。そのあとその「先客」に、あからさまな舌打ちをされたことは鮮明に覚えている。
 授業で交わす最低限のもの以外の、他愛もない会話を爆豪としたのは、たぶんあの日がはじめてだった。

「今週のはおもしろい?」
「……まーまーだわ」
「爆豪は一回も『おもしろい』って言ったことがないよね」
「惰性で読んどるようなモンだからな」
「じゃあ、私と喋ってるのとそれ読んでるのだったら、どっちがいい暇つぶしになる?」
「コッチに決まっとんだろうが。どっから湧いてくんだその自信」

 爆豪は親指でモノクロ一色刷りのページを示して、顔を顰める。

「……だいたいみょうじ、てめーが変なんだろ。時間潰してんならスマホいじるなり問題集見るなりしとけや。ぼーっと真ん前ガン見して気持ちわりィ。鳥かよ」
「はは、いるよね、動かない鳥。川辺とかに」
「どーでもいいトコ拾っとんなや」

 爆豪は何かを吹き飛ばすようなため息をついて、ページを捲るスピードを徐々に早めていった。横目で盗み見た爆豪の頬の肉が、頬杖でよれていた。それがどことなくあどけない子どものように見えて、胸のあたりがこそばゆくなる。
 もうほとんどマンガへの興味を失ったらしい彼が、ようやく私の視線に気が付いたのは数秒のあと。

「……俺のカオ暇潰しに使うんじゃねえ」
「暇潰しじゃなかったら見ていいの」
「は?」

 勢いよく閉じられたマンガ雑誌から生まれたわずかな風が、色褪せた前髪を一瞬だけもてあそんで、消える。怪訝そうに顰められた表情には予想がついていたから、私はなんでもないふうを装って笑った。
 こんな月曜の朝も、あと数回でなくなってしまうのだと頭の中ではわかっている。だからか、言葉のタガが外れかけている。すこしでも気を抜けば、口をついて言ってしまいそうだ。一言でも多く言葉をかけてほしくて、「暇かよ」って絡まれたくて、スマホなんて部屋に置いてきているのだとか。本当は爆豪の言う通り、二時間目の小テストに向けて、文法書の一ページでも読んでおきたいと思っているのに、とか。
 ぶっきらぼうな声色で寄越されるのがどんなに乾いた言葉でも、嬉しかった。いつのまにか、青く四角いこの部屋に漂う彼の洗剤のかおりすら覚えた。たまたま同じのを使っていた三奈ちゃんのことを、こっそり「いいなあ」なんて思ったりもした。
 けれど、言いたいことも聞きたいことも、結局ここに来れば頭の中をぐるぐると回って終わりだ。数えるほどしかないこの朝を失うかもしれないと思うと、なにひとつ声にできなかった。
 私は、不愛想な視線を続ける爆豪に「なんでもない」と告げる。

「……なくはねーだろ、気色わりィ」

 彼の声色は私を責めるようなものではなかった。ごうごうと、依然規則正しく響き続ける低音に掻き消されてしまいそうなぐらいには掠れていた。
 月曜の朝。ごうごうと低く唸る四角い箱の中の、狂ったように踊る布のかたまりを眺めていた。爆豪がページを捲らなくなったとたんに喉が渇き始める。私と爆豪の二人ともが目の前の布のかたまりをただ眺めて過ぎていく時間が、いけないことのような気がしてならなかった。

「……あのさあ」

 からからの喉で切り出せば、視界の隅で、色素のうすい頭が少しだけ揺らぐ。

「……ひとつ聞いていい?」
「いちいち聞いてから聞くな。さっさと言えや」
「もうすぐ卒業だけど、爆豪は、その……雄英を卒業したら……どうするの」

 言い終えた瞬間から、爆豪が次に口を開くのがひどくこわくなる。部屋着のスウェットをぎゅっと握った。

「どうって、別に見たまんまだろうがよ。ヒーローやる以外に――」
「それは知ってるって。そんなこと一年の春から知ってる」
 そういう意味じゃない、と小さく呟くと、彼が言葉を飲み込むのがわかった。

 ――どうして私がこんなに怯えているのか、目の前のクラスメイトには見当もつかないのだろう。

「……アノ話か」

 そう言うと、爆豪は煩わしそうに髪を掻き乱した。
 ――「爆豪って、ウチ出たらアメリカ行くらしいぞ」「確かにアイツ、日本に収まんなさそうだもんなあ」――そんな、よく知った声で囁かれていた「噂」が、言い逃れもできない「現実」になろうとしていた。

「『あの噂』って、本当?」
「俺がアメリカ、行くっつー話だろ」

 その単語は爆豪の口からなんでもないふうにこぼれる。後頭部をバットで撃たれたような衝撃が、音もなく全身に走る。それどころか、世界からすべての音が消え去ったような気さえして、私はしばらく硬直していた。

「……てめーが聞いたクセして黙んな」
「……あ、ええと……いつまで? いつまで行くの?」

 やっとのことで絞り出したその問いに、爆豪はハアと息を吐く。

「キッチリとは決めてねー。たぶん二、三年。そっからはそン時の俺と相談して決める」

 その時間は、今の私には途方もないもののように思えた。この学校に来てからの三年間にすら、数え切れないほどの出来事があった。出会いも別れも幸福も後悔も、何もかもが。
 「この三年間と同じだけの時間、爆豪が目の前からいなくなる」という事実は、ずっしりと頭の上にのしかかってくる。
 爆豪は、何も言えない私のことを今度は責めなかった。ただただ小さく、「このままではいられない」というようなことを呟いたのが聞こえた。彼は最初から、ぼうっと目の前の洗濯機を眺めているような人間ではない。瞳の奥は燃えていた。だから、その鋭い視線の先――にはいない誰かのことを頭に浮かべているのはなんとなくわかる。

「……てめえ、なに鬼のように泣いとンだ」

 まるで、饐えたにおいを放つゴミを見るような目つきで、爆豪は私を見た。短く息を呑んで、私は頬を伝う涙を拭う。頬に垂れる髪のおかげで、彼からは見えないと思っていた。というか、「……爆豪は、女子が泣いてるとか、気付いてても無視するタイプだと思ってた」そう口に出してみれば、爆豪は異議を含んだ「あ?」を漏らす。
 突然号泣したことを無視してほしかったのは、どちらかと言えば私の都合だ。今の私は誰がどう見たって、爆豪がアメリカに行ってしまうのが悲しくて泣いたようにしか見えない。しかも、実際にそうだ。
 それを暴かれるのがこわくて、けどほんの1ミリは、このどうしようもない感情を知っててほしい、なんて気持ちも息づいていて。ごうごうと音を立てて回る洗濯物と同じぐらいに、私の初恋は雁字搦めだった。
 爆豪は意外にも言葉を選んでいるみたいだった。口元にすこしの躊躇が見える。

「……無視するに決まってんンだろ、フツーならな」
「じゃあ、今からでも無視して」
「チッ……タイミングってもんがあんだろーがよ。今のオメーが泣いてんのはどう考えても俺のせいだろ」
「これは別に、爆豪がどうとかで泣いてるんじゃないから」

 なんのひねりも飾りもない否定。勘のいい彼になら、明らかに「嘘」だとわかってしまうだろう。
 案の定、爆豪は何か言いたげにじいっと私を見ていた。恐る恐る目を合わせてみれば、予想外のことだったのか、両の瞳がすこし揺らぐ。

「……だったらなんでだっつうんだ。気に入らねえ」

 爆豪は眉を寄せて、重く呟いた。
 思い切って、「実はちょっと好きだった」「さみしいけど、アメリカ行っても頑張ってね」――と、可愛げのある台詞を言えれば、すこしは彼の記憶に残るのかもしれない。そんな考えが頭には過るけれど、唇はびくともしなかった。甘酸っぱい告白のかわりに飛び出す嗚咽をとめるために、下唇を噛む。
 私の目の前で唸っていた四角形の箱が、ピーと無実な音を立てて静かになる。
 居た堪れなくなった私はとうとう、爆豪の視線を断ち切って、すっくと立ち上がった。

「オイ、どこ行く」
「どこって、洗濯終わったから、部屋に戻るの」
「……ア゛? 話の途中だ」
「話、終わったじゃん」

 「だから爆豪のせいで泣いてるんじゃないって」と言い終えたところで、見下ろしていたはずの爆豪の視線が私の視線を追い越した。行く手を阻むように私の持ったカゴを引っ掴む。
 私の頬に影を落とした彼の表情が、いつものように不機嫌そうで、けれどいつになく真剣だったから、思わず息を呑んでしまった。

「……ソコは世辞でも俺のせいで泣いとけや」

 例の洗剤のかおりが鼻先を掠めた。彼の背後のかごからか、それともすぐそばに立つ彼の纏う服からか、判別のつけがたい絶妙な距離に、かえって心臓が疼く。
 まるで私に惜しんでほしかったと取れるような爆豪の台詞に、頭のなかが期待と否定でぐちゃぐちゃになる。

「……じゃあ、そういうことでいいから」
「なんだその言い草。……オイ、こっち向け」
「無理」
「ア゛?  まだ話終わってねーっつってんだろ」

 掴まれたカゴごと爆豪にゆっくりと手を引かれて、しぶしぶ私は体の向きを変えた。瞼が腫れているかもわからない顔で爆豪と視線を通わせることは、到底できやしない。
 頑なに目を合わせないでいると、爆豪が諦めたように舌打ちをするのが聞こえた。

「今ちゃんと目ェ見て俺の話聞かねーならそれでいいけどなァ、それならみょうじが選べよな」
「……何を選ぶの?」
「来週またここで聞くか、それも無理だっつうんなら、三年後に聞くか。選べ」

 まるで脅迫のような物言いだった。指先から解けるようにカゴが奪われて、その代わりに、切実さの滲む強さで手首を握られる。同一人物の所業とは思えない硬度差に、すでにぐちゃぐちゃだった頭のなかが、これ以上ないほどにかき乱される。
 麻痺したように動かない唇を見かねて、爆豪は畳みかけた。

「今更『話って何』とかバカなこと言わねーだろうが、俺がクッソ大事な話しようとしとんだ」

 「だから逃げんな」という掠れた声を聞いてはじめて、爆豪にも余裕がないことを悟った。
 「来週」か、「三年後」か。差し出された二択を噛み砕いて、そんな極端なことがあるか、と呆れそうになってしまう。来週の月曜日は卒業式だなんてことも、それが終われば、きっと次に会うのは数年後になるなんてことも――いや、きっと爆豪はわかっているはずだ。

「……じゃあ、「来週」で。それか「来週」と「三年後」、どっちも聞こうかな」

 冗談めかすには震えすぎている声でそう返事をすれば、しばらくの沈黙のあと、爆豪はかすかに笑った。



 月曜の朝。青くて四角い部屋のなかに、色褪せた髪を見つけた。
 珍しくネクタイまで締めた制服に身を包んだ爆豪は、ごうごうと低く唸る四角い箱の中の、狂ったように踊る布のかたまりを眺めていた。他に何をするでもない、所在なさげなその姿は、爆豪勝己という人物と、恐ろしいほどに不釣り合いだった。
 ぎい、とドアノブを捻る音に反応して、赤い瞳が不機嫌そうに、けれどどこか不安定に揺れる。

「……遅え」

 彼のとなりに腰かける。澄んだ朝の空気。軋むベンチ。目の前でぐるぐる回る白いラインの体操着には、もう袖を通すこともない。目の前の好きな男の子は、三日後にここを発つ。空気中に飛散する寂しさの粒子を吸い込んでもう既に泣きそうな私の頭を、大きな手のひらが遠慮がちに撫でた。

「……三年経つまで一回しか言わねーから、マジでこっち向け」

 洗剤のかおりと一緒に、爆豪の指が肩におりてくる。ごうごうという規則正しい轟音のなか、たったひとつだけの甘やかな言葉が混じって、溶けていった。

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