爆豪くんの部屋の寝室に、カーテンはなかった。手入れの行き届いた無駄に広いエントランスよりも、乗ってからなかなか目的階に着かないエレベーターよりも、一枚絵のように夜景を切り取ったカーテンのないその大きな窓が、「彼はもう非日常に住むひとなんだ」ということをいちばん強く実感させてくれた。

「うわあ、すごいね。こんな部屋に住んでるとか、芸能人みたい」
「アホ言え」
「まあ、似たようなもんか」

 彼の言う通り私はアホだった。片付いていて、嫌味のない程度にインテリアにも凝っているこの部屋を見て、ばかみたいな感想しか出てこなかったのは、すこし緊張していたせいだ。
 爆豪くんは返事をしないまま、私という来客に躊躇するようすもなくクローゼットを開けると、羽織らずに抱えていたブルゾンをその中にしまった。「オマエのも」と無愛想に言われて、慌ててスプリングコートを脱ぐと、言葉とは裏腹の丁寧さでハンガーにかけてくれる。
 彼の家のクローゼットのなかで、彼の服と自分の服が並んでいるのを見ると、つい数年前に抱いていた、淡くて甘酸っぱい感情を掘り起こしたくなってしまう。

「いつもここから下界を見下ろしてんの?」
「まあな。日課だ」
「ふふ、変わってないね」

 変わった、変わっていないと言い合えるほど、私と彼は親しくなかった。けれど、その言葉は自然と唇になじむ。大人になるってきっとこういうことだ。
 キッチンのほうから冷蔵庫の扉が閉まる音がする。戻ってきた爆豪くんは、大きな手に二本のペットボトルを持っていた。すこしの身動ぎでたゆんと揺れる透明な中身を、アルコールで乾いた体が本能的に欲しがっている。

「どっちだ。冷えてんの、と冷えてねーやつ」
「えーと、冷えてないやつ」
「ン。なくなったらテキトーに向こうから取って飲め」

 角ばった指先が私に差し出したぬるいペットボトルを、私はぼんやりと見つめていた。

「常温も常備してるとか、コンビニみたい」
「おまえはクソみてえな比喩しかできねえのかよ。別にフツーだろ」

 どっかりとソファに座ってペットボトルの蓋を開ける彼が「女は常温飲むヤツばっかだろ」と小さく呟いたのを、私は聞き逃さなかった。

「……爆豪くんって、やっぱ遊んでるんだ」
「ハァ? なンだいきなり」
「たしかに、モテないわけないもんなあ。今となっては」
「オイなんだ最後の。一言余計だろが」

 ペットボトルを無機質なテーブルのうえに置いて、爆豪くんは口元を拭った。やけに色っぽく見えるのもアルコールのせいだ。
 そもそも、昔好きだった同級生の部屋に上がり込むなんて、アルコールを入れていなきゃ到底できやしない。あのころは直視するだけで呼吸が止まりそうだった赤い瞳が、ぎろりと鋭くきらめきながら私を睨んだ。今の私は、そんなことじゃあ呼吸を止めない。張り合うみたく見つめ返すことだってできる。

「……突っ立ってねーで座れや」

 黒い皮張りのソファはすこし固めで、ひどく彼の感性を感じた。たいして爆豪くんのことを知りもしないまま恋に恋していたあのころの私も、意外と見る目があったのかもしれない。
 爆豪くんが手のひらでバンバンと叩いた場所に、素直に腰を下ろしてあげる。膝がぶつかるのを彼は気に留めない。こんなに近くで視線や言葉を交わすのは、はじめてだった。
 ――ほんとうはそんな色を、顔を、していたんだ。瞳は思ったより鈍い赤だった。髪の先は思ったより細くて、うすい色素が人工的な照明の色を吸っていた。
 そんなふうに知らないことがたくさんあったけれど、どこかで聞きかじった「好きなひとの顔は覚えられない」という迷信は、ほんとうだったのだと知った。

「……みょうじは変わったな」

 爆豪くんは、はじめて耳にするような掠れた声でそう言った。数秒硬直したあと、それがしばらく前の「変わってないね」という私の言葉に対するアンサーだと理解する。

「そうかな」
「正直オマエがどういうやつだったかとか毛ほども覚えてねー、つーか知らねえ。けど、死んでも俺と目ェ合わせなかったヤツってことだけ覚えてる。……ちょっとだけな」
「目、緊張して合わせられなかっただけじゃない?」

 まるで他人事みたいに浅はかに思い出を匂わせる私に、爆豪くんはむっと唇を山なりに結んで見せた。どういう感情、それ。尋ねたいけれど、そうするのはなんだか子どもっぽい気がして、曖昧に笑って誤魔化した。

「でも、安心はしてよ。もうさすがに昔の思い出になってるし、迷惑とかかけないよ」
「……あ?」
「家とかバラしたりしないよって話」
「人として当たり前だっつの。個人情報だろ」
「明日の朝、また会いたいからってわざとピアスとか時計とか忘れていかないし、お風呂場に化粧水とか隠していったりしないよ」
「チッ……んなメンドクセー女、実在しねーだろ。何の話をしとんだテメーは」

 彼は耐え兼ねたように色素のうすい髪をかき上げた。
 濁ったため息をついた彼の背後に、赤みがかった都会の夜が広がっていた。

「寝る前から朝のハナシなんかしてんじゃねえ。萎えんだろが」

 爆豪くんの声がくぐもっていく。その親指が、私の下唇を押しつぶす。熱かった。窓の外で点滅する赤が、視界の隅でぼやけていく。
 すべてが夢のようだった。こんなだだっ広い部屋に、カーテンも引かずに、私の手の届かないところで暮らしている彼と再会できたこと自体が、たぶん、あのころの恋に恋していた私が見せた夢なのだ。



 爆豪くんの部屋の寝室に、カーテンはなかった。もはや攻撃的なぐらい潤沢に降り注ぐ陽光のおかげで、時計を見るよりも先に朝がきたとわかった。
 首のしたには、逞しい二の腕が敷かれていた。おそらく痺れから、しばし感覚を失ってしまうことだろう。爆豪くんが「こういうこと」にマメなふうには見えなかったから、ギャップにすこし驚いたりもした。
 私が体を起こしたせいか、衣擦れの音がする。彼のどこか子どもじみた瞼がぴくりと動いてからゆっくりとひらいた。私を視界にとどめると、開口一番に

「……あ゛ークソ、オマエが先かよ。寝顔イジり損ねたろうが」

とため息をついてみせる。色気もへったくれもない台詞だった。けれど彼も「昨夜のこと」を、「昨夜かぎりのこと」にしようとしてくれているのだとわかって、すこし安心する。

「残念でした。シャワー借りてもいい?」
「……オウ。タオル、洗濯機の上。どれ使っても許す」

 時計を確認してから、枕のそばでくしゃくしゃになっていたシャツを悠長に着直す様子を見ていると、時間には余裕があるらしい。
 とはいえ、私が長居するのはほんとうに迷惑だろう。てきぱきと身支度を済ませ、なるたけ整然とした姿でリビングに戻ると、爆豪くんは白んだ窓からバルコニーに出て、「下界」を見下ろしていた。朝の風が黒いシャツの裾をもてあそぶ。

「爆豪くん」

 こちらを振り向いた彼の揺れる髪を、彼の手のなかでたゆたうミネラルウォーターの水面を、できるだけ濃く記憶に刻めるように、私はまばたきをこらえる。

「そろそろ帰るね」
「メシは。テキトーなもんでいいなら――」
「いいよ、悪いし。爆豪くんはもうすこしゆっくり寝てなよ」

 爆豪くんはスウェットのポケットに手を突っ込んで、唇を山なりに結う。だからそれ、どういう感情なの。最後まで聞けずにいたけれど、ただの彼の癖かもしれない。爆豪くんのことで、知らないことはまだまだたくさんある。そしてそれを、これから二度と知ることがないのだと思うと、心臓がせつなく鳴いた。

「……忘れモン、してくんじゃねーぞ」

 背を向けかけた頃合いに、彼の声がする。へらへらと笑って「しないってば!」と返事をすると、彼の口角もすこしだけ釣り上がったように見えた。
 「じゃあね」と告げたら、すぐに部屋を出た。爆豪くんが玄関まで見送りにきてくれなくてよかったと思う。もしあとすこしだけ爆豪くんと一緒に過ごしたら、あのころの感情を引っ張り出されてしまいそうな気がして、こわかった。
 嗅ぎ慣れないにおいのエレベーターに閉じ込められている気分になって、マンションを出たところで思わず深呼吸をした。いつもよりすこし早い朝の空気は心地よい。まだ冷たさをはらんだ風から指先を守るようにスプリングコートに手を突っ込むと、指先に固いものが触れた。
 それを取り出すのと、バッグのなかのスマホが震えるのは同時だった。
 あわてて通話ボタンを押した私の耳を、掠れているのにどこか甘やかな声がなぞる。

『…………よお。オイ、悪ィけど、オマエのコートん中に時計忘れたわ』

 え、と声を詰まらせる。手のひらのうえで転がるごつごつとした黒い物体。それから視線を上げていく。

『……今度、返せ。絶対パクんじゃねーぞ』

 白んだ空を背景に堂々とそびえ立つマンションの上のほう、南向きのバルコニーにはまだ、黒いシャツが小さくたなびいているのが見えた。
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