「あんたっていつ結婚するの?」

 ショートケーキにフォークを沈めながら、母は言った。甘くもなくさっぱりもしていないクリームの味付けに負けず劣らずのどっちつかずな生返事をすると、母は溜息を吐いた。

「独歩くん。うちに挨拶に来たいって言ってくれてるんでしょ? そろそろ連れて来なさいよ。夏にまとまった休みあるんなら、一緒に帰って来ればいいわ」
「ああ、わかった。独歩くんにも言っとく、言っとく」

 コーヒーで口の中のケーキを流し込んだ。伝票の上、店員の書いた頭の悪そうな文字に視線を落としたら、二度目の母の溜息が聞こえた。



「独歩くん」
「……会社でその呼び方はやめてくれ、バレるだろ」

 キーボードを叩くのをそろりと止めて、独歩くんは小声で私に怒った。

「ごめん。外出中に観音坂くんの担当の病院から電話が入ってて、見積書に不備があったから作り直して持って来いって、伝言……」

 ためらいがちにそう言い終えると案の定、独歩くんは頭を抱えて、呻き声とも溜息ともとれる音声を垂れ流した。終電ぎりぎりまで作成にあたっていた書類だということは知っていたから、きっと独歩くんも疲労困憊だったのだろうと思うと、胸が痛い。

「俺の確認不足です……すみません。すぐに修正して今日中にお持ちしますと、俺から折り返しておきます。わざわざ伝言ありがとうございました」
「観音坂くん、大丈夫? 手伝うよ」
「いや、元はと言えば俺の、ゴミみたいなミスのせいです。そこまで時間もかからないと思うので今日中には……あ」

 そこまで言うと独歩くんの顔はにわかに青ざめた。子どもみたいに歪んだ泣きそうな表情になると、声を殺して私の名前を呼んだ。

「……ごめん、今日の食事行く約束。この件の対処で行けそうにない……かも。本当にごめん……俺のせいで」
「いいよ、気にしないで。独歩くんの食べたいもの作って家で待ってるし。無理しないでね」

 私の答えに、独歩くんは瞳を揺らした。感極まっているような表情の独歩くんをこのまま放っておくとオフィスで半泣きになりかねないので、あからさまに「じゃあ、お願いします」と明るく独歩くんの肩を叩いて、私はデスクに戻った。
 結局、他の対応に追われて電話越しにぺこぺこと謝っている独歩くんを見かねて、私が修正を手伝っておいた。帰り際にやっと携帯を耳から離した独歩くんのデスクに書類をそっと置くと、憔悴しきった顔で彼は私を見上げた。

「あの、今日は、俺……できる限り早く帰るから。できたらでいいから、その……俺のこと待っててほしい。できたらで、いいから」

 独歩くんの途切れ途切れの声に私は黙って頷いた。いつも先に飯食っててくれ、先に寝ててくれ、と決まって言う独歩くんがこんなことを言うのは珍しいことで、その願いを聞き入れない理由はないと思った。
 今日は、独歩くんと付き合って1年の記念日だった。もう1年か、となんとなく空を仰ぐ。独歩くんと過ごす時間は、告白をされて付き合う前から、どこか心地よかった。彼は私に何の害も与えず、私を深く愛してくれる。私が食事を温め直して出したときに「ありがとう」といつまでも丁寧すぎるお礼を言ってくれるところや、体を重ねたときに、どうしようもないというような顔をして私を見つめるところが、好きだと思う。
 家に帰ると、独歩くんの部屋着が目に入る。申し訳程度に畳まれたスウェットの下と、脱ぎ捨てられたスウェットの上。独歩くんはいつも、脱いだスウェットの上だけなぜか畳まない。なぜだろうと考えることもなくなっていた私は、くったりと地面にへたっているそれを、無言で拾い上げた。



 その男と会ったのは2週間後のことだった。
「また会ったな」とどこか弾むような声は、彼の機嫌の良さと機運の良さを示していた。

「帝統くん、久しぶりだね」
「ああ。ちょうどさっき、お前のこと最近見かけねーなあと思ってたんだ。仕事終わりか?」
「そうだよ。ちょっと寄るところがあって」

 そうかと相槌を打ちながら、彼は私の横に並んだ。
 彼の詳しい年齢は知らないが、私よりもいくらか若いはずだ。三度の飯より賭け事が好きだと話していた彼の、そこはかとない危うさがより若さを際立たせていた。私と帝統くんが並ぶ光景は、道行く人にはどう見えているのだろうとふと考えた。独歩くんと並んでいるときには感じない違和感のようなものが、帝統くんとの間には鎮座していた。
 帝統くんは私を横目で見下ろすと、上から下までに視線を這わせる。持ち前の無邪気さのせいか、いやな感じはしなかった。

「スーツなんか着ちまってよ、まだしょうもねえ仕事やってんだ。つまんねえなら、はやく辞めちまえばいいのにさ」
「そういえば、あんまりスーツで会ったことないよね」
「だな。最初に会ったときのお前はもうちょっとイキイキしてたぜ。絡まれてたけどな」
「……あの時は、ありがとう」
「どうってことないぜ、うまい飯も奢ってくれたしな」
 
 帝統くんは屈託のない笑顔で、私との出会いを笑い飛ばした。
 1年以上も前のことになるか、裏道で酔っ払いのサラリーマン3人に絡まれていたところを助けてくれたのが、紛れもない帝統くんだった。ありがとうございました、と何度も言う私を見て彼は子犬のような瞳で、「そこまで思うなら、一緒に飯食わせてくれよ」と言った。後で聞けば、相当に切羽詰まっていたらしい。人生で出会った人間の中で一番おいしそうに料理を頬張ったあと、何かを思い出したみたいに、帝統くんは私に言った。

「なんかお前、人生つまんないって顔してるな」

 赤提灯だったり、いかがわしい色のネオンだったりが、代わる代わる、忙しなく帝統くんの頬を色付けていた。すべらかな頬。罪のない目元。何にも縛られない足取り。それらを初めて見たあの時、私は熱に浮かされていた。
 この人が、何か自分に変化を与えてくれるのではないか――そんな馬鹿げた他力本願の考えのせいか、弾丸に撃たれたみたく記憶が飛び、気付けば私は帝統くんと寝ていた。奔放に私を抱く彼に、どこかで「ああ、思った通りだ」なんて思った。
 翌朝目が覚めると、その暗い髪はまだ布団に埋もれていた。身支度をして部屋を出るとき、もぞもぞと身動ぎした彼が掠れた声で言ったのを鮮明に覚えている。

「俺ら、きっとまた会うだろ」

 連絡先の交換もしていないのに。

「どうだろう。じゃあ会ったら、運命かもね」

 冗談のつもりで陳腐な台詞を吐いた私は自嘲気味に笑った。「ああ、そうだな」と、何も取り繕っていない返事が彼から返ってきたのはもちろん予想外で、困惑した私は、そのまま部屋を出た。けれど彼のしなやかな肩の筋肉が、目と手のひらに焼き付いていた。
 金曜日の朝焼けを背に、つまらない日常に戻った。変わり映えのしないオフィス。遠くで鳴る固定電話のコール。変わったことと言えば、まださほど親しくなかった独歩くんが私のデスクに来て、やけに大きい声で「あの」と歯切れ悪く発したことぐらいだった。独歩くんに告白をされたのは、その日の夜のことだった。



 帝統くんと会って1時間もしないうちに、私の手には紙袋が2つほど増えた。

「重いだろ、持ってやるよ!」

 帝統くんは、私の指から紙袋をほどいて、ひょいと乱暴に担ぐ。

「帝統くん、暇なの? なんか気付けばずっと付いて来てくれるけど」
「ああ、今日は暇だぜ。それにギャンブルの調子も良かった。さらにはお前にも会えたしな、こんな完璧な日ってそうそうねえよ」

 今日という日が彼にとっては本当に良い日だったらしい。噛み締めるように言う帝統くんを見てそう思った。用事を終えてしまった私が、帰ろうか、どうしようか考えているのを返事のはっきりしなさから彼は読み取ったらしい。

「なあ、飯行こうぜ!」
「うーん、今日はちょっと」
「言っとくけど、お前の奢りで、じゃないぜ。今日は俺が調子良かったって言ってんだろ? この俺が人に奢るなんて、滅っっっ多にやんねえんだからな」
「そういうことじゃなくて。今日は、人と約束がある」

 帝統くんはすっと目を細める。

「ふうん。男か?」
「いや、別に、会社の同僚……」

 どうして曖昧な、卑怯な言い訳をしているんだろうと、自分にぎょっとした。スマホを握り締める。ちょうど1回の振動が伝わってきた。独歩くんからの連絡だろうか。
ごめんね、と両手を合わせて笑って見せるけれど、かえってわざとらしくて不自然になってしまう。忘れていたが、私は演技も嘘も、下手だ。
 心なしか歩調を早めると、おい、と帝統くんが追いかけてくる。こんなに食い下がってくるなんて思いもしなかったから、なぜか彼から逃げているような気分になって、鼓動が早まる。待てって、という言葉と一緒に手首を掴まれる。何ともない素振りで振り向けば、帝統くんは射るように鋭い瞳をしていた。

「これ、忘れんなよ。ったく、ドジだな」
「あ、ごめん……持ってくれて、ありがとう」

 帝統くんは担いでいた紙袋を下ろすと、私に差し出した。受け取ろうと手をかけたところで、彼は離してくれない。その、どちらかというと繊細そうな指先にどれだけの力を込めているのかというほど、びくともしなかった。へらへらと口角を緩めているのは私だけだった。

「いやいや、離して?」
「一個だけ聞くけどな、そのつまんねえ会社のつまんねえ奴ってのはよ。そいつって、俺と一緒にいるより面白いんか? なあなあでやってんなら、俺と飯食ってるほうが百倍有意義だぜ」
「なんの話」
「1年前のあの夜のこと、ただのよくある間違いだったって思ってんのは、お前だけだ」

 帝統くんのぎらついた目を見て、思わず唾を飲んだ。思い出してしまう。血液が、細胞が、湧き上がるようなあの感覚を。互いへ伸ばした指先が、まるで何度も体を重ねていたかのように引き寄せ合って、知り尽くしているような感覚を。また会ったら運命かもねという、くだらない自分の言葉を。
 大きくなりすぎた鼓動ではっと我に返る。このままでは逃げられなくなると、即座に踵を返して、人混みを掻き分けた。



「俺、お前が作ってくれる魚の煮つけが好きだ……。一番の好物は他にあるけど、お前の料理の中だと、これが一番、うまい。てか、ごめん……急に一人で喋って。いつも、ありがとう」

 独歩くんは箸の先をぼんやりと見つめたまま、何の脈略もなくそう言った。独歩くんに食事を作ることは付き合い出してから何度もあったが、彼は少しも煩雑にすることなく、ひとつずつ確かめるように私の料理を食べ、心からの「ありがとう」を返してくれた。恋人からの扱いが雑になった、などという友人の愚痴を聞く度に独歩くんのことを思い返しては、「この人のことを、当たり前だと思ってはいけないのだ」と認識し続けてきた。

「独歩くんって、変わらないね」
「え……お前も、急だな。それってどういう」
「付き合って1年も経つし、慣れたり、飽きたりとか。釣った魚に餌をやらなくなる、みたいな。ほらよく聞くじゃん。そういうのって、独歩くんには全くないね」

 知らない国の言葉をまくし立てられたみたく、独歩くんは固まり、黙った。やがて困惑したように情けなく眉を下げると、宙で浮いていた箸を行儀よく置く。

「……分からない。俺が馬鹿なのか? お前に飽きる、とか、餌をやらない、とか……それって好かれてる自信があって、相手の想いの上に胡坐かいてるような人間がすることのような、気が」
「確かに、そうかもね」
「俺は、しないよ」

 珍しく、確固たる意志が滲むような物言いを、彼がした。

「俺はお前に変わらず傍にいてもらえるだけで、それだけで死ぬほど幸せなことだと思う」

 私の話をするとき、独歩くんは難しい問題を読み解いているような話し方をする。ぐるぐると考えながら言葉を選んで選んで、そしてようやく零せるような、そんな感じがする。

「……いや、何言ってんだろ、俺。違うな、いや、違くないけど」
「ううん、ありがとう」
「あのさ、なまえ。俺……夏季休業中はきっちり休み取れるように今から頑張るからさ、前も言ったけど、その、お前の実家に挨拶にお邪魔させてもらえないか……とか。ほら俺、もういい年したおっさんだろ。いや、それなのに親に会わせてっておこがましいんだけどさ。俺はずっとこのままお前と一緒にいたいと思ってるから、ちゃんと挨拶したい」

 独歩くんが何を言わんとしているのか、ある程度の察しはついた。強いて努力して、可能な限り私の目を真っすぐに見据えながら口を開いているところに、彼の並々ならぬ想いの強さが表れていたからだ。

「……わかった。予定とかいろいろあるから、聞いてみとくね」

 自分で持ち掛けた話題のくせに、独歩くんは「いいのか?」と目を丸くした。俺なんかで、と後に続くことは分かっていたから、私は彼の後ろに回って、頭を撫でた。ふわふわと沈む毛束が子どものようで、可愛らしかった。

「明日行けば土日か……明日行けば休み……」
「そうだね。2人でゆっくりしよう」

 身支度を終えて先に布団に潜り込んでいた独歩くんは、返事はせずに、やってきた私を無言で両腕の中に閉じ込めた。捕食される弱者みたいに身動きを封じられるのは私でも、真っ暗な夜が不安な子どものように、独歩くんの指には力が籠もる。
 少しすると、額に少し乾いた唇と、諦めたような吐息が触れた。

「あのさ……いい? して」

 許しを請う彼の指先に、自分の指を絡める。独歩くんの伏し目がちな目が、熱を帯びていく。私の好きな、どうしようもないというような表情だ。私が作った料理を食べるときと同じように、確かめるように、彼は私の首筋や胸や至るところをなぞった。触れられたところから優しく溶かされていくようなその感覚は、違う。血液が、細胞が、湧き上がるような「あの」感覚と。互いへ伸ばした指先が、まるで何度も体を重ねていたかのように引き寄せ合って、知り尽くしているような「あの」感覚と。
 振り切ろうと前を向いたら、当たり前に独歩くんの顔があって、私はそれを両手のひらで包む。よく見ろ。これが私の好きな人。これが私の大好きな、大切な独歩くん。そして、私をたぶん心から愛している独歩くん。
 噎せ返りそうな罪悪感が、私の顔を歪めたらしい。

「……どうしたの。ごめん、体調、悪い? いや、だった?」
「ちが、違うよ」

 独歩くんは至極ゆっくりと、私の両手のひらに自分の手を添えると、そっと剥がした。最初にしたみたいに指を絡ませると、ふうと息を吐く。

「……もしかして、だけど。他のこと、考えてた?」

 他のやつのこと、と独歩くんは力のない声で言い直した。私は無言で首を横に振って、身動ぎをした。このまま独歩くんの顔を見ていると、泣き出しそうだった。独歩くんはまた私を両腕の中に仕舞いこんで、小声でぽつりと何かを言う。聞き取れないその言葉を、私は聞き返さない。

「……いやだ。どこにも行くなよ……」
「独歩くん、行かないよ」
「わかるに、決まってるだろ。なんかあるってことくらい。俺……お前が思ってるよりたぶん何倍も、お前のこと好き、だし。お前が思ってるより何倍も長く、お前のことが好きだった。なんで、なんで、こんなに、やっと手に入れたのに、また手放さなきゃいけないんだ……なんで」

 独歩くんが泣いているのは息づかいと、首筋に触れる冷たいもので分かった。子どもみたいに縮んで、私をより強く、そこに閉じ込める。その力強さに呼吸さえしづらくなりながら、独歩くんは怒っているのだと思った。

「私、独歩くんが好きだよ」

 その言葉には、確かに嘘は混じっていなかったはずだ。独歩くんが下手くそな呼吸をしながら、僅かに首元で頷く。もう一度「好きだよ」というと、また独歩くんは頷く。何度も何度も繰り返しながら、眠りに落ちた。



 アラームが鳴って、はっと目が覚める。まだ薄暗い視界。カーテンを開けようと体を起こすと、独歩くんが隣にいないことに気付く。独歩くん、と思わず声に出したのは、私が起こす前に独歩くんが起きるなんてことが、今まで一度もなかったからだ。
 昨晩のことが思い起こされてにわかに不安になる。立ち上がった瞬間に、玄関のドアが開いた。まだスウェットのままの独歩くんがレジ袋を提げて、玄関で立ち止まった。

「……おはよ。ごめん、目が覚めたから、コンビニに缶コーヒー買いに行ってた」

 独歩くんは脱力気味に笑んでみせたけど、いつもより赤らんで、心なしか腫れている瞼が、そんな余裕なんか本当はないことを物語っていた。ぎりりと、心臓の上のほうが痛む。

「今日はきっと早く帰るからさ、そしたら、飯にでも行かないか。こないだ、ほら俺のせいで行けなかったからさ……埋め合わせをさせてほしい」
「……うん、わかった」
「じゃあ……約束だ。ハゲ課長ぶん殴ってでも守るからな……ってことで、また夜」

 独歩くんは今度は、自然に口角を緩める。
 関係がバレないように、独歩くんは私より先に家を出る。いつも通りに。独歩くんが行ってきますと出て行ったあとも、さっきまであった気配は完全に消えず、ごく控えめに漂っている。独歩くんのにおい。相変わらず、上だけ頑なに畳んでもらえないスウェット。何も変わらない。無言でそれを拾い上げた私は、無性に泣きたくなった。



 私も独歩くんも、たぶん必死で取り繕っていた。何も変わっていなかったかのように、綻びなんてひとつもなかったかのように。
 いつもと同じ駅のホームから、いつもと同じ電車の、同じ号車に乗り込む。スマホを開いて、カレンダーの8月の日付を眺めた。会社の休業期間と照らし合わせながら、独歩くんと両親が会話している、そんな場面を思い浮かべた。独歩くんはきっと石みたいに緊張して、いつもよりもっとどもり気味になって。ああ、スーツじゃなくていいからねって、前もって言っておこう。「こないだ話してくれた挨拶だけど、14日はどう?」と独歩くんに送ろうとメッセージアプリを開く。
 これで、いい。
 家から4駅しか進んでいないのに、電車はいつまで経っても出発しない。怪訝そうに時計を見るサラリーマンが増えてきたころ、車両点検のため運転再開時間は不明との旨が、無機質な男性の声でアナウンスされた。うんざりしたような顔の人の波が、向かいのホームの電車に乗り換えるために流れ出る。半ば押し出されるように私も向かいの電車に乗り込んだとき、閉まりかけるドアの間から、男が駆け込んできた。

「どいてくれ!」

 何やら叫びながら全速力で乗り込んできたのは、彼だった。怪訝そうに睨み付けるサラリーマンに「すまねえな」と謝りながら周囲を見渡す帝統くんは、私で視線をはたと停止すると、目を丸くした。動き出した電車が、帝統くんの前髪を揺らす。視線を合わせたままよろめく私の腕を、彼がしっかりと掴んだ。

「おい、しっかり立てよな。ドジなんだからよ」
「帝統くん、ありがとう」
「……結局こないだも、俺に荷物持たせたまま逃げたろ。今日は持ってってねえけど、今度ちゃんと返してやる。特別だぞ」
「……賭けに使われてなくてよかった」
「なかなか言ってくれるな。他人のものなんか賭けたってスリルがねえ。まあまさに今も負け越して追われてたんだけどな!」

 帝統くんはどこから湧いてくるのか分からない自信を満々に笑っていた。おかしくなって、私まで呆れて笑ってしまう。
 職場に近付くにつれて、だんだんと増えてくる通勤時間帯の乗車人数。窓際まで追いやられた私に帝統くんは被さるようにして乗っていた。かばってくれているようにも見える。距離が近付くにつれて、逆に会話はなくなる。すぐそばに凛々しい首筋があって、思わず目を背けた。
 職場まであと1駅。

「じゃあ、私もうすぐ降りるけど、元気でね。無茶はしないで」

 彼と会ったのは偶然で、その後だって偶然に偶然が重なっただけだ。何もなければもう会うこともないし、それが当たり前のことだった。帝統くんは何も言わずに私を見下ろしていた。彼は何も物を言わないと、喉で声をつっかえそうになるぐらい、迫力のある冷ややかな目をしている。帝統くんは一度遠くを見たあと、口を開いた。

「そうだな。でもそれじゃつまんねえから、最後に賭けに付き合ってくれよ。つまんねえ顔してるお前の人生にも、ちょっくら刺激を添えてやる。ここで賽が振れないのは残念だが……そうだな、あの椅子の前に立ってる、すかした眼鏡かけてるリーマン、お前と一緒の駅で乗って来たよな。んで、終点まであと2駅。あいつが次の駅で降りたら、俺の負け、お前はリーマンと一緒に降りて、つまんねえ会社に行く。でもあいつが降りなかったら、俺の勝ち、お前はこのまま俺と一緒に来る。明日も、明後日も。つまらねえもん捨ててもいいぜ、俺なら退屈だけはさせないしな。で、どうだ」
「なにそれ」

 笑って終わらせようとした私を、爛々とさんざめく彼の瞳が捕らえる。すべらかな頬。罪のない目元。何にも縛られない足取り。彼はいっとう、真剣だった。それに魅了されるように私は馬鹿らしさを失って、押し黙る。きっと私は今、帝統くんと同じ瞳をしている。
 窓の外を流れる景色がゆっくりになって、喧噪が車内に流れ込んできた。じんわりと汗が滲むのを感じながら、蠢く人混みを見ていた。
 そして、やがて喧噪はドアにシャットダウンされて、降りるべきホームのアナウンス音が小さくなってゆく。動き出した電車に揺られながら、すかした眼鏡をかけたサラリーマンとやらが、暢気にあくびをしていた。
 職場と彼がいるはずの銀色のビルが、みるみる遠ざかってゆく。帝統くんの口角が、少し上がった。
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