目が覚めたとき、もうとなりにホークスはいなかった。というか、これまで一度もいたためしがない。だいたい、すでに部屋のなかは私一人ぶん以外の質量を失って静まり返っているか――もしくは、「じゃあまた」と簡素な言葉だけを残して窓から飛び降りる直前の、その後ろ姿が残っているだけだ。
 今朝は珍しく、そのどちらでもなかった。
 ぼんやりとした意識が晴れると、くぐもった水温が聞こえる。かと思えば、ぴたりとやんだ。

「ホークス、まだいるの?」

 ぎい、とバスルームのほうでゴムパッキンが悲鳴を上げてから、衣擦れの音がした。

「……え? なまえさん、いま俺のこと呼びました?」

 「空耳?」と目を丸くしたホークスが、頭の上でわしゃわしゃと蠢くバスタオルの隙間から見え隠れする。着たばかりらしい白いTシャツには、体についていた水滴がすこし滲んでいた。
 私はあわてて上体を起こして、肩から滑り落ちていたシャツの首元をたくし上げる。

「……あ、いつも私が起きたころには仕事に行ってるから、まさかまだいるとは思わなくて。用もないのについ」
「起こしちゃったみたいですね。ゆっくり寝ててもらいたかったのに」

 彼はベッドのそばまで歩いてくると、端っこに腰かけた。そして、まるで猫や犬にするみたいに、私の顎の下を指でさすった。どうしたらいいのかわからずに顔を顰める。

「嫌がられちゃった」
「……動物じゃないんですから」
「ごめんなさい。いっつも寝顔ばかり見てるから、寝起きの顔を見るのが新鮮で、用もないのについ」

 ついさっき私が言ったせりふをなぞったのは、きっとわざとだ。責めようにも、穏やかに細められた黄金色の瞳が名残惜しくて、唇をぎゅっと真横に結うだけの抵抗にとどめおく。

「もう起きられそうです? もう少し寝る?」
「目は覚めてます」
「そう。一緒に二度寝しようと思ったのにな」

 すこし残念そうに声をあげて、ホークスはベッドにどさりと倒れ込んだ。寂しさを助長させるほど余白が大きかったキングサイズのベッドを、赤い翼がまたたくまに埋めてしまった。まだ濡れた髪の束が、筆のようにベッドシーツに染みをつくっていく。
 なによりも、悠長に伏せられた瞼を見て、私の心は弾んだ。

「仕事には、まだ行かないんですか」
「お休みです。一応ね。昨日眠る前に言ったでしょ」

 彼はぱっちりと片方のを開いて、すこし意地の悪い声色で続ける。「なまえさんはうとうとしながら生返事だったし、きっと覚えてないなと思ってましたけどね」

「……そうですか。じゃあそろそろ――」
「あ、待ってください」

 休息の邪魔にならないようはやくこの家を出なければ、と慌ててベッドから立ち上がろうとしたとき、逞しい腕に手首を引かれる。元いたやわらかな場所に逆戻りした私に、ホークスは

「眠らないなら、朝ごはんでも食べてきません?」

と、どこか誘惑じみた笑顔で言った。



 目が覚めたとき、ホークスがとなりにいたためしは極端に少ない。
 朝ごはんを食べていかないかと誘われたのが最初だ。それから、目を覚ますと彼がじいっと私の顔を見下ろしていたのが二度目。三度目は、目を覚ますとキッチンのほうから香ばしいにおいが漂ってきていて、「やっぱり、そろそろ起きると思ってました」と彼が顔を覗かせた。
 怖くなるぐらいの幸福を、私はたしかに感じていた。四度目、五度目と重ねるほどに、見慣れていたはずのぽっかりと空いたスペースに、より強く心を締め付けられるようにもなってしまったけれど。

「そういえば、俺がいないとき、なまえさんは何してるんですか?」

 ある朝、ホークスがナイフでオムレツを半分に切りながら私に尋ねた。中からどろりと溢れたミンチときのこに、「おお」と子どものように声を上げる。私はそれどころではなかった。

「何を、とは?」
「この部屋広いし、一人だと持て余しませんか? 俺が仕事行ったあと、ヒマじゃありません?」
「ヒマもなにも、ホークスがいなくなったらすぐ支度して自分の家に帰ってますよ」
「え、そうなんですか!?」
「はい。ホークスの十分の一も大変じゃないけど、私にも一応仕事がありますし」

 思いのほか仰々しく声を上げたホークスをおかしいと思いながらも、さっき一緒に作った朝食を食べ進める。

「……俺、好きに使っていいよーぐらいのテンションで、あなたに合鍵渡してたんですが」
「……え、そうなんですか?」
「はい」

 今度は私が目を丸くする番だった。ホークスはナイフとフォークを置くと、親指を顎に当て、なにやら考え込んでしまった。

「俺、あなたの服とか必要なものとか、この部屋に置いてるじゃないですか」
「あ……はい」
「あー、部屋着が肩見えちゃうぐらい大きすぎたのは反省してます。べつにやらしい気持ちとか一切なかったですよ」
「気にしてませんよ」
「話は逸れちゃったんですけど、つまり、あなたに差支えなければ、ずっとここに住んで頂いても俺的には問題ないです。きっとあなたの家よりもセキュリティには優れてるし――あ、もちろん無理強いもしませんけど」

 彼の言葉に、私のフォークとナイフの先もぴたりと静止してしまう。ホークスの表情はどこか躊躇をはらんでいる。無駄だとわかりつつも、感情を推し量るのに必死になって、沈黙をつくってしまった。

「まあ、こんな言い方ずるいですよね」

 先に沈黙を破ったのはホークスだった。じわり、内側から一滴だけ滲ませたようなあいまいな笑顔を口角に宿して、ホークスは目を逸らす。
 「ずるいですね」と私が肯定すると、彼のあいまいな笑顔は完全な笑顔に成り上がる。

「あなたが大事だ。一緒にいたいです」

 彼のその言葉は、テーブルのうえに置いてもごろごろと転げて行き場をなくし、挙句の果てには落っこちてしまいそうなほど不安定なものだった。

「じゃあどうして、それ以外のちゃんとした言葉をくれないんですか」
「……ごめんなさい。なまえさんの言ってること、痛いぐらいわかってます」

 きっとそれは本当だろう。柳眉がわずかに寄せられて、私までいたたまれない気持ちになってくる。

「私だってわかってます。ホークスの言ってること」

 わかっている。頭ではわかっているけれど、私はどうしようもなく幼かった。
 ホークスが珍しく、喉元で言葉を詰まらせていた。「俺はあなたを苦しめてばっかりだ」と自嘲気味に笑って、私の頬に落ちる涙を拭ってくれた。その指先がやさしくて、余計に泣きそうになる。
 彼から「会えますか?」というたまの連絡が、なによりも私の心を躍らせた。マンションの扉を開けたら真っ先に抱き締められて、彼のにおいに包まれる瞬間も。「明日は朝早いので、あなたはゆっくり寝ててください」と髪を撫でられる夜も、すべてが愛おしかった。
 それなのに、というべきか、だから、というべきかはわからない。人間は贅沢な生き物だ。
 はじめて彼と結ばれたときに彼が言った言葉を、私はずっと忘れることができない。

『俺にとってあなたはすっごく大事で、一緒にいたいと思ってます。でも、俺の生活のなかには、あなたの髪一本でも指一本でも、絶対に巻き込みたくない領域がある。
 だから俺は、もしみょうじなまえというひとを知っているかと尋ねられたら、必ず「なんの話ですか。そんな女の子は知らない」って答えますし、なまえさんにも俺のこと、同じようにしてもらいたいんです。
 ――この先ずっと、この世の、俺以外の誰に対しても』

 道に喩えるなら、目に見えない、目的地もない道だ。彼が一緒に歩いてくれると言っているのに、私は進むのが怖い。どこで途切れるのかも、どこかで二手に分かれてしまうのかもわからない。
 足元も前も見ずに、視界のなかを彼ただひとりだけにして、歩き続けるしかないのだ。



 目が覚めたとき、ホークスがとなりで眠っていたためしは、これまで一度もない。
 だから、聞こえてくるくぐもった水温が、彼がシャワーを浴びている音ではなく雨の音だと気付くのに、数秒かかった。まだ朝の気配すらない時間帯だということは、窓の外の空の色でわかる。
 身動ぎをすると、となりにあるひとりぶんの重みを感じて、思わずはっとした。規則正しく寝息を吐いているのをはじめて目にしたせいで、彼もひとりの人間なのだという、当たり前のことに安堵した。
 そっと布団を這い出て、ひんやりとした床に足先をつける。彼の使っているベッドは上等で、私の身動ぎは、こちらに伸びていた彼の手のひらのあたりをすこし揺らしただけにすぎなかった。

「じゃあまた」

 なんとなく、寝惚け眼の私に彼がいつも残していく言葉を口にしたくなって、唇だけでそう呟いた。ホークスは眉ひとつ動かさなかった。
 ホークスは傘を持たない。雨の日だって晴れの日だって、空を掴むようにあの翼を広げ、飛んでいる。だからこの家に傘はない。上着だけを羽織って躊躇なく水溜まりを踏めば、そこに映っていたオレンジの光がこなごなに砕けた。
 靴の中がぐっしょりと濡れるまで歩いたころに、タクシーを見つけて片手を挙げた。

「申し訳ないのですが、お客様、あまりにもお濡れになってるので……」

 運転手が私を見て言いにくそうに切り出したのを聞いて、この姿じゃ当たり前だよなあと笑いそうになった。

「わかりました。そしたら、いいです」
「あの……大丈夫ですか? ご自宅は近くですか?」
「ぜんぜん」

 両方の質問に答えたつもりで首を横に振ったら、ばさり、ばしゃばしゃと、無邪気ともとれる水音が近付いてくるのがわかった。

「ちょ、っと……なにしてるんですか!」

 思わず振り向くと、着の身着のまま雨の下を飛んできたらしいホークスが、私を見て怒鳴っていた。雨で乱れた前髪が額にぺっとりと張り付いている。
 タクシーの運転手が顔を出して「ホークスか?」と問うのに、彼は少しの間のあと頷いて、開いたままだったドアに手をかけた。

「おじさん、ホント悪いんですけど、こん人乗らんから」
「わかったわかった。酔っ払いかね?」
「いやあ、ちょっと喧嘩しちゃって。……わかりますよね。内緒にしてくれます?」

 運転手は豪快に笑って頷くと「仲良うしーよ」とドアを閉めて、行ってしまった。テールライトが見えなくなるのを待たずに、黙ったままだったホークスが私の両肩を掴んだ。一言で言えば、「ひどい顔」だ。これ以上になく「ひどい顔」をしている。その原因だろう私が言えたものではないけれど。

「はは……さすがに、あんまりじゃないですか。こんなの。一体、どういうことですか」
「……勝手に帰ろうとしたことがですか? ごめんなさい」
「……そうじゃない。『さよなら』って、言いませんでした? 俺に」
「言ってないです」

 私が答えると、ホークスはゆっくりと首を傾げた。

「『じゃあまた』とは言いました。ホークスの真似をして」

 屁理屈のような私の言葉に、ホークスも眉をひそめる。そのあいだも、彼の肩や、私を掴んで話さない手に、ぱたぱたと雨粒が落ちては流れていく。

「……俺とはもう、さよならってこと……じゃない、ってことですよね?」

 途切れ途切れにそう呟くホークスの声だけが、世界で唯一、からからに乾いていた。こっくりと頷くと、濡れた唇のすきまから、濁ったため息が吐き出されるのが聞こえる。彼が顔を覆うと、ため息は声にならない声へと変わって。

「……はあ、もう……勘弁してくださいよ。だいたいなんで、傘も持たずにこんなとこまで来たんです」
「あの家、傘ないじゃないですか」
「その通り。いや、でも――」

 反論しようとしたらしい彼はやっぱり言い淀んで、口を噤んでしまった。
 心配かけてごめんなさい、と告げた私を、ホークスはまだ納得のいかなさそうな顔のまま包んだ。濡れそぼった体同士は、ふだんこうしているときよりも、より彼とひとつになったような錯覚を与えてくれた。
 ゆっくりと腕をほどいたホークスがいまだ恨めしそうに私を見下ろした。唇にたまった水滴を、彼の親指ではらわれる。ついでに、指の腹で軽く押し潰された。

「……俺はあなたが、めちゃくちゃ好きです。目が覚めたらあなたがいなくなってる朝なんか、二度と――いや、『極力』、もう味わいたくない。いや……はあ……ホント、やだった。悪い夢見たし、寒気だってしましたし、ていうか今も、窓から出て来たから靴、履いてないし」

 冗談めかして苦笑した彼は、やはり恨めしいほど愛おしそうに、黄金色の瞳を揺らしていた。

「……ってことで、明日から、毎朝『じゃあまた』とかじゃなくて『好きです』って言ってから家を出ることにします。……いいですか? それとできれば、なまえさんにもそうしてほしい」

 ホークスは気付いているだろうか。あなたが、その唇から私にたいしてこうも切実に願望を漏らすのは、これがはじめてだと。私は今気付いた。それだけで、満たされてしまう心に。
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