かれこれ三時間ほど、このじめじめとした怒りに耐えていた。

「ありがとうございました。じゃあ俺は、責任持って彼女のこと送っていきますんで」

 恭しく私の背中に手を添えて、ホークスさんは言う。さりげなく背中をよじってホークスさんの手から逃れると、彼は私にしか聞こえないぐらいの声で「あれ」としらばっくれてみせた。
 しばらくぶりに浴びた夜風は冷たくて、すこしアルコールの入った体には寒さよりも爽快さを感じさせる。
 私とホークスさんが見送らんとしている黒塗りの高級車にはスモークがかかっていて、いかにもという風体をしていた。三時間も食事の場をともにしたというのに「協会のえらい人」だということ以外なにも明かさなかった男は、二十センチほど開いたすきまから顔を覗かせる。

「それと、これ。バレンタインだからって気を遣わせてすまないね。ホークスに嫉妬されないうちにありがたく頂くよ」

と、さっき私が渡した白い紙袋をひらひらと見せびらかした。

「……いえ、お口に合うかわかりませんが、ほんの気持ちです」
「ちょっと、俺はもらってないんですから、ひけらかさないでくださいよ〜」

 ホークスの冗談に男はハハハと笑うと、「ではまた」と車を走らせた。
 エンジン音が聞こえなくなったころ、「そんな律儀に頭下げてなくても大丈夫ですって」というホークスさんののんきな声が頭上から聞こえて、とうとう私は唇を尖らせた。
 店の中に置いたままだったバッグとコートを引っ掴むと、まだ店の外で突っ立っているホークスさんを追い越そうと、ヒールの踵を鳴らす。

「あーちょっとちょっと、俺が送ってくって言ったでしょ」
「……じゃあ早く帰り支度してください」
「ハイ。……あはは、相当怒ってますね」

 ホークスさんは眉を下げて頭を掻くと、一分も経たないうちに小走りで店を出てきた。

「ひどいじゃないですか。私を接待要員に使うだなんて」

 先に口を開いたのは私だった。息が詰まるような数時間のうち、この場を作り上げたホークスさんへの怒りが少しずつ蓄積していた。水捌けの悪い地面にずっと雨を降らし続けたような、じめじめとした怒りに苛まれているのは、このせいだった。

「『知り合いが君に会いたがってるから』なんて言って……ホークスさん、相手があんなえらい人だなんて一言も言ってなかった」
「あー……ごめんなさい。あの人には昔からお世話になってて、無下にはできませんでした。けど、俺は君に接待させようなんて考えてもなかったし、嘘ついたつもりもないですよ」
「そうですか……」
「だって他にいないでしょ。俺がいま一番可愛がってる子を連れて来なよって、そう言われたんで」

 涼しい顔でホークスさんはそう言った。白く染まった息が唇から零れてきて、なんだか呪文をかけられているような心地がする。現に、私の怒りはみるみるうちに空気を抜かれて、萎み始めていた。

「それにあそこの店、まあまあ美味かったでしょ?」
「……それは、美味しかった、ですけど……」
「あはは、よかった。リクエストしたんですよ。なまえさんがこっち来てからずっと『本場の水炊きが食べたか〜』って言ってたの、ちゃんと覚えてたので」
「私、博多弁なんて使いませんよ」
「ですよね〜」

 彼は、私のとがった部分をくるむような和やかな笑い声を立てる。つられて怒りが収まってきたらきたで、今度はよけいな意地が生まれてくる。「そうですか」としか言えない、かわいげのない女が爆誕してしまったのだ。
 強いてホークスさんの半歩前を歩いていた私を、ホークスさんが追い抜くのがわかった。遠慮がちな視線を感じて思わず目を合わせてしまうと、ここぞとばかりににっこりと微笑みを返されて。
 ――知っている。彼にとってはこんな顔をするのは朝飯前だということも、私の機嫌をなんとかおさめようとして最善策を選んでいるということも。

「そういえばなまえさん、お酒大丈夫でした? 俺、なるべく止めたつもりだったんですけど、けっこう勧められて飲んでましたよね」
「大丈夫です。少しだけなので」
「ならよかった」

 ホークスさんは満足気に前を向いた。ポケットに両手を突っ込んで歩く姿と相まって、どことなく少年のようだ。
 彼の言う通り、ふだんほとんど飲まないお酒を久しぶりに飲んでしまった。体の内側から熱が滲みだすような感覚が新鮮で、今日はもう少し外を歩いていたい気分だ。
 来たときにはなかった屋台が、ずらりと河辺に軒を連ねていた。中州を抜けたところでタクシーを拾おうとしたとき、通りかかったサラリーマン三人組が彼を見つけた。酔っ払いらしい彼らはうすら赤い顔で「ホークス!」「こんな時間までパトロールしようと?」と騒ぎ出すのに対しても、ホークスさんは愛想よく応える。
 その最中に「帰り、ちょっと寒くてもいいですか?」と尋ねられたので、わけもわからず頷くと、次の瞬間には屈んだホークスに体を下からごっそりと抱えられてしまった。

「わ! ちょっと!?」
「じゃあ、俺は今からこん人送ってかなきゃなんで。サインはまた今度」

 なにかを察して、ぎゅうとホークスさんの首の後ろに手を回すと、風を掻く重厚な音がしたあとに、浮遊感に体中を包まれた。みるみる小さくなっていく赤い三つの顔。驚きに恐怖が勝ってしまって、下を見るのはすぐにやめた。

「もうやってると思いますけど、しっかり捕まっててくださいね」
「言うの遅すぎます」
「やっぱり? けど、もう怒ってないみたいでよかったです」

 いつだって余裕が滲んでいるその声が、いつもより間近で聞こえる。首に回した手に、男の人らしい低い声が振動になって伝わってくる。
 下も見れないのに、彼のことも見れない。視線を合わせれば加速していく心音が、この距離ではぜったいに伝わってしまう。しばらく黙っている私に、ホークスさんの確かめるような視線が降ってきていることには気付いていた。

「どこ見てるんです? 怖くないですか?」

という彼の無邪気な問いに、思わず「髭見てます」と答えると、ホークスさんの高らかな笑い声が、私たちを取り囲んだ夜の丸い空の中で響いた。冬の空気は澄んでいる、というのは本当かもしれない。普段より何十メートルも高い空の空気を吸い込んでいるだけなのに、自分もその一部になれそうな気さえしてくる。

「飛んでるときに笑わせないでくださいよ。落としちゃうかも」
「縁起でもない」
「でもまあ、おかげ様で俺の機嫌も直ってきました」
「俺の機嫌もって、なんですか。ホークスさんはご機嫌に見えますけど」
「そう見えてたならよかったです」
「……本当は?」

 おそるおそる尋ねた声が掠れたのは、思い当たる節がありすぎたからだ。ホークスさんに悪気なんてないことはわかっていながら怒って、可愛げのない返事ばかり寄越して。
 博多に来てから数か月、ホークスさんにはたいがいお世話になった。軽口を叩き合える程度には仲を深めてきたと思ったけれど、親しき仲にもなんとやらだ。おまけに、帰り際に彼にも渡そうと思ってバッグにしまっておいたチョコレートの小箱だって、渡せずにそのまま。
 ――もしかしたら愛想をつかされたんじゃないか、と怖くなってホークスさんを見上げる。うっすらと影の落ちた黄金色の瞳は、予想に反して、溶け出しそうなぐらいやわらかく笑んでいた。

「……なに笑ってるんですか?」
「いじけてます。俺にはないんですか? バレンタインのチョコレート」
「はい?」
「今日って『そういう日』じゃなかったんでしたっけ?」
「そうみたいですけど、ほしかったんですか? 事務所にいっぱい届いてるでしょうに」
「そういう意味じゃないですって。だって、初対面の知らないオジサンにはあって、俺にはないとか。さすがに、あれ〜? そんなに意識されてない? とか思っちゃうじゃないですか。いくらいい大人でも」

 じんわりと黄金色の瞳が細められる。ゆるく弧を描く唇はどことなく意地が悪そうで。

「……そんなに言うなら、あげますよ。ホークスさんにはお世話になってるので」
「え〜? なんか申し訳ないなあ。俺がせびったみたいですね」

 彼は表情だって豊かだ。ころころ変わるそれらからは、感情が伝わりすぎることもある。今も、仰々しく芝居じみたそのようすから、申し訳ないなんてことは微塵も考えていないのだろうと見当がつく。
 ホークスさんとはちがって、私は感情表現が苦手だ。私にとって、一秒すら素直になるのが難しいと、きっと彼には見透されている。
 ただ今は、彼の腕の中にいるあいだは、彼と二人で夜の空を駆けているあいだだけは、いくら嘘をついたってどこにも逃げられないような気がしていた。そして、それが幸福だとも思った。

「……そんなことないです」
「ん?」
「……申し訳ないとか、思わなくていいです。ホークスさんにあげる分は、もともと用意してありましたし。……今日、急に電話で呼び出される前から」
「なんでです?」
「……ホークスさんには、お世話になってるし」
「え〜、それだけですか?」
「……誰にあげたいかって考えたときに、まっさきにホークスさんが思い浮かんだ、ので……」

 びゅうびゅうと風を切る音が耳のそばで鳴いているけれど、ホークスさんがやさしくこちらへ顔を傾けてくれたせいで、きっと私のか細い声でさえもその耳には届いてしまっている。
 すでにいっぱいいっぱいの私の言葉を聞いてなお、ホークスさんはにんまりと笑んでいた。

「う〜ん。やっぱ申し訳ないなあ」
「……なんでですか。ここまで言わせておいて――」
「いや〜俺も、今日なまえさんのこと呼んだの、半分口実みたいなもんでしたし。あの手この手使って懐開いてもらおうとしてたのに、君ってぜんぜん懐いてくれないし。やでも、ここまで言ってもらえるとは想像以上でしたし」

 「――感慨深い」、という掠れた続きの文字と同時に、翼が大きく広げられた音がする。ゆっくりと高度は下がっていって、やがて爪先からゆったりとコンクリートに降り立った。やんわりとした温もりと、固くごわついた彼のジャケットの感触が肌から離れた瞬間に、もう名残惜しくなる。
 地上に降りたってホークスさんは私を逃がしてはくれなかった。真ん前に立ったまま、期待と、ひとさじだけの卑劣さが混じった瞳で私を見据えていた。

「じゃあ遠慮なく、もらってもいいですか? あと、なにか言いたいことがあるんだったら、それも一緒に聞きたいです。俺も同じ分、君に返すつもりなので」
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