利き手じゃないほうの手で一生懸命にマニキュアを塗っていると、今でもふと思い出してしまう。無骨な指先に似合わず、ブラシの跡ひとつ付けない丁寧な塗り。指先に息を吹きかけられたあとの、「死ぬほど乾かせ」という粗雑な完成の合図。「クセー」と眉間に皺を寄せて、力いっぱいにその小瓶の蓋を閉めてしまう様子も。そのせいで、次に使うときに私の握力じゃ蓋を開けられなくなることを、いつまで経っても学ばなかった彼のこと。
 鼻をつくようなツンとした香りを逃がすために窓を開けたら、まだ春には程遠い外の空気が流れ込んできた。身震いする寒さの代わりに、マニキュアの香りに満たされていた頭はすっきりと晴れていく。
 スマホが鳴ったのは、そのときのことだった。
 爆豪勝己。着信音が鳴った瞬間に壁に掛かった時計を見て、なんとなく彼だろうと思った。通話ボタンを押す。「もしもし」という声が冷静そうなのは、わざとだ。

『オメー、今何しとんだ』
「久しぶりだね。爆豪は何してたの?」
『質問してんのはコッチだろうが』
「そっちこそ、久しぶり、ぐらい返してよ。久しぶりなんだし」

 電話の向こうの爆豪が口籠るのがわかった。その沈黙を、散らかった人々の声が埋める。経験則からわかることは、彼がアルコールを入れているということと、それならきっと明日はオフだということ。
 手に取るように彼の一日がわかってしまうのは、私は爆豪の恋人だったからで。そしてわざわざ「こうでしょ」と確かめる気になれないのは、もうとっくに私と彼は「ただの友人」だからだ。

『……コッチはオファー終わってメシ、の帰り。木椰子のへん』
「ふうん。木椰子とかなんか懐かしい。お疲れ様だったね。ゆっくり休みなよ」
『ババアみてえなこと言ってんじゃねえ。オメーは』
「私は家でネイル塗り直してたとこ」
『……あっそ』
「聞いといて何?」

 一応責めてはみたものの、酔っぱらった男の電話には、もともと大した用件がないことはわかっていた。けれど、職業柄あまりお酒で酔うことのない爆豪がとりとめもない電話をかけてくるのが、楽しみじゃないと言ったら嘘になる。翌朝に「昨日、悪かった」とだけ送られてくるメッセージも、しおらしくておもしろい。
 ただ、爆豪が返事をするまでの僅かな沈黙にも、私は胸をくすぐられる。まさかとは思うが、今更彼に対してなにかしらの期待をしているというのか。二年も前に別れた男に、なんらかの言葉を待っているのか。ばかばかしいと思いながら小さく咳払いをしたら、爆豪の低い声が鼓膜をなぞった。

『……オメー、コッチ出てこい。今から』
「今から? ええと……木椰子まで?」
『飲み直せっつってンだ、俺と』

 別れて少し経ってから、酔っぱらったらしい爆豪からの電話は何度もかかってきたけれど、こんな誘いを受けるのははじめてだった。
 私は頭の中で瞬時にイメージする。今から半乾きの髪を乾かして、またメイクをし直して、木椰子に着くのなんていくら急いでも一時間後だ。ただでさえ気の短い爆豪が、一時間も元恋人をどんな顔で待っているのか。会ったらなんて言うのか。そもそも、別れてからプライベートで顔を合わせたことは一度もないのに、こんなにいきなり――。
 そこまで考えてはっとする。酔っ払いの言動を真に受けることのほうがもっとばかばかしい。

「……あ、せっかくだけどもうお風呂入っちゃったし、遅くなっちゃうから。それに、酔っ払いのテンションで言われてもなあ。爆豪が居眠りしてて、いざ着いたのに連絡つかないとかなったら嫌だし」

 無意識に、言い訳をあれこれと並べてしまう。ここはきっぱりと潔く、でもすこし嫌な女らしく、「元恋人と話すことなんてない」「あなたと会う理由がない」とでも言えればよかったか。
 こんなことで気を悪くしない――というか、大抵のことで気を悪くするのでいちいち気にすることではない――彼のはずだけれど、小さく「ア?」と異論の滲む声がぽつりと聞こえた。

「ごめん。そんなに飲み相手欲しかったの?」
『ちげェ』
「そういや最近集まってないもんね。またみんなで飲もう」

 当たり障りのない台詞で穴を埋めてみる。爆豪はアアだかオウだかわからない小さい母音で返事をした。そろそろ本当に用件がなくなってきた。塗りたてのネイルの表面をぼんやりと眺めながら「じゃあ」とゆっくり切り出したけれど、爆豪のどことなく優しい声に遮られた。

『オイ、風邪引くなや』
「……引くつもりはないけど?」
『風呂上がってからまだ髪乾かしてねーんだろどうせ。テメーの体とたかがツメの色のどっちが大事だァ?』

 思わず、まだ湿り気のある毛先をぎゅっと掴んだ。二年も前のことなのに、思い出してしまう。私が髪を濡らしたままぼんやりスマホをいじっていると、背後から吹っ飛んでくる怒声とバスタオルのこと。舌打ちをしながらソファに座った両脚をがばっと開けて、そこに私を座らせる。ドライヤーをかけながら、器用にも反対の手の分厚くて固い指が地肌をなぞって、髪を毛先まで梳いていく。いつだかテレビに反射した彼が、私の髪の先に恭しく口付けていたことは、うすら恥ずかしくて茶化せなかった。

「お見通しかあ。お恥ずかしい限りで」
『……オメーが成長してねえだけだろうが』

 爆豪はすこし笑っているのだと声でわかった。途端に喉元がぎゅっと締め上げられるような心地がして、目の奥が熱くなる。あくびをしたら涙が出るのと同じぐらいの当たり前さで涙が滲んだ。
 その声を聞けば聞くほど、わからなくなることがある。人間は、特に私は、記憶力がよくない。二年前の出来事のうち、覚えているのはどうでもいいことばかりだ。上鳴くんがスマホをトイレに落としてしまってメールアドレスを変えていたとか、梅雨ちゃんとごはんに行ったときに被っていた帽子の色がかわいかったとか。それなのに、肝心なことだけどうしても思い出せない。
 ――この疑問はもしかしたらもう、爆豪に尋ねても許されるのだろうか。

「ねえ、爆豪」
『……なんだ』
「私たち、なんで別れたんだっけ。……って、たまにわかんなくなるときがあるんだよね」

 今回ばかりは怒られてしかるべきことを言ってしまったと、途中で気付いた。だんだんと自信をなくして小さくなっていく語尾を刈り取るみたいに、爆豪は『ッ知るか、ボケ!』と言い放った。あまりのボリュームに音割れすらしていた。たぶんスマホと2メートル離れていたって、今の怒号は聞こえただろう。

「……ごめん、無神経なこと言った」
『……なに考えとんだテメーは』
「こうやって爆豪とあんまり普通に会話できるものだから、ついわかんなくなっちゃうんだよ。なんか、爆豪とはずっと前から友達で、これからもこのまま仲良くしていられるような気がして……」

 あんな「別れ」なんて、なかったような気がして。とまでは言わなかったけれど、きっと爆豪にも真意は伝わっているだろう。
 私と爆豪の別れは、梅雨ちゃんに言わせると「ありがちね」「よくあるすれ違いなだけじゃないの」「どうせ来月にはヨリを戻してると思うわ、なまえちゃんと爆豪ちゃん」とのことだった。残念ながら梅雨ちゃんの言う「来月」にも「再来月」にも、爆豪と復縁するような日は来ず、ついぞ二年が経つのだけれど。
 爆豪にしては珍しく、沈黙が十秒以上に達していた。爆豪が苛立っているのは明らかに私のせいだ。軽はずみな言葉を謝ろうと「ごめん」ともう一度告げたとき、爆豪が酸素を吸う音が聞こえた。

『お前のことダチだなんて思ったことねーよ。今までで0.0001秒たりともねえ。金輪際ねえ。クソウゼエ』
「え……口、悪」
『ア?』
「ごめん」
『…………チッ』

 今度はしゃかしゃかと何かを掻きむしるような音と、肺まで出てしまいそうなほどの深いため息が聞こえる。

『……オイ、やっぱ出てこい。今から』

 有無を言わせぬ言葉の圧と罪悪感に背中を押されて、私は頷いた。
 それから爆豪との電話を切って、ついさっきシュミレーションしたばかりの行程をこなして外に出れば、マンションの前にはちょうどタクシーが停まっていた。脇にいた中年の運転手はぱっと表情を明るくして「みょうじさんですね。爆豪様の依頼でお迎えに参りました」とドアを開けられた。苛立ちをエネルギーとしたその用意周到さには、すこしぞっとした。
 けれど億劫なときほど、目的地にはあっという間に着いてしまう。タクシーが停まった先は、路地の奥にあるいかにもプロがお忍びで訪れそうな、小ぢんまりとした料亭だった。案内された個室の引き戸を開けると、爆豪は赤い瞳だけをぎろりとこちらに寄越した。

「遅くなってごめん。……爆豪、久しぶり」

 強いて笑ってみたけれど、上品にもかすかな音だけを立てて閉まった引き戸に、逃げ場を閉ざされた感覚になる。
 仕事でちらっと顔を見る以外、二年間まともに顔を合わせることのなかった元恋人の表情は、お世辞にも明るいものではなかった。

「久しぶり久しぶりウルセーけど、嫌でも仕事で顔会わすじゃねえか」
「あ、でもそんなに話さないし、現場は同じでも私と爆豪じゃ同じ作業やることはほぼないしね、だからその……久しぶり」

 ぎこちない私の様子を、爆豪はまた睨んだ。睨まれるのにはもはや慣れっこなので動揺はしない。けれど、二年前から変わらない端正な――黙っていればの話だ――顔立ちがすぐ目の前にあることにはひどく動揺している。
 爆豪は流れるような動作でメニューを私に渡して、店員を呼びつけた。

「腹減ってんのか」
「ううん、ごはんは食べてきたからあんまり。お酒なら付き合うよ。飲み直したいんだよね」
「ちょっとでいい。もうしこたま飲んだ」
「え? 飲み足りないんじゃなかったの。……じゃあ私、なんのために呼ばれたの」
「フツーに喋るだけでいいだろ。文句あンのか」

 向かいの席にどっかりと山のように鎮座した爆豪は腕まで組んでいて、どう見ても気楽に話をしよう、と言っている人間の態度ではなかった。
 ちょうど「お待たせしました」とやってきた店員に「ウーロンハイ二つと、チャンジャを一つで」と頼むと、彼の肩眉がぴくりと動いた。私があの頃と同じ定番のメニューを頼んだのがこっ恥ずかしくなったのだろうか。私は、なった。

「文句はない、けど……なに話せばいいんだろうね。今更爆豪と」
「……さっきの話。お前が言い出したんだろが」
「ああ、『なんで別れたかわからなくなった』って話?」

 これが爆豪を苛立たせている原因でもあったことを思い出して、ついには自嘲的な笑みまで浮かべてしまう。
 貼り付けたようにさっきと同じトーンで「お待たせしました」と運ばれてきたグラス。私と爆豪は無言で会釈だけをして、無言でグラスの端を合わせる。私が店員だったらたぶん、この個室には入りたくない。そんなすこしひりついた空気が充満しているせいで、ウーロンハイの一口目は指先まで染み渡るように美味しく感じた。
 爆豪の唇も薄く濡れた。じっと見てしまっていると、それはぐにゃりとへの字に曲がる。赤い瞳と目が合えば、うだるような熱を帯びていて。たしかに酔っているのだとわかる。

「……ジロジロ見んな」

 掠れた声でそう咎められた。伏せった瞼が懐かしい。いつも強張っている眉間も目じりも、寝ているときだけは素直に解けていた。「ごめん」と謝ると、爆豪は小さくため息を吐く。

「コッチが聞きてえんだわ。なんで別れたとか」
「え?」
「……んでお前はこんなトコ来ちまっとんだ」
「それは、爆豪が飲み直そうって」
「ソーユー意味じゃねえアホ」

 爆豪は、意外と柔らかいその髪をわしゃわしゃとかき乱す。行儀よく手元に寝そべっている割りばしをおもむろに真っ二つに割ると、小皿の中のチャンジャを八割方かっさらってしまった。呆気に取られてその様子を眺めていると、ようやくそれを嚥下した爆豪が私を見据えた。まるで獲物を狙う鷹のような目だった。

「もしかしてだけど、ここに来いって言ったの、やっぱ冗談だった?」
「……んなわけあるか。こちとらそのために酒飲んで、そのために電話までしとんだ」
「……どういう意味」

 動揺からぎゅっと力がこもってしまった手を隠すために、ゆっくりとグラスをテーブルに置く。爆豪はもう「見るな」と怒ることはなく、ただいつもの不機嫌そうな表情で私を見ていた。

「どういう意味もクソもねえ。シラフで言えっつーんかァ? 『戻ってこい』とかクッセエ台詞をよ」

 「言えるわけねーだろ」「アホ抜かしてんじゃねえ」と爆豪は顔を顰めて、グラスの中の茶色い液体を空っぽにした。ぷはぁと気持ちよく唇を離すと、濡れたそこを手の甲で拭う。
 そして、言葉に詰まっている私のことを馬鹿にするみたいに笑った。テーブルの上で行き場を失っていた指が、分厚くて固い、よく知っている指にするりと掬われる。さっき塗ったばかりのエナメルが落ち着いたダウンライトを反射して、棒状の光が形を変える。爆豪は鷹のような目で、じいっとそれを目で追った。

「ヨレてんだよドヘタクソ。俺が塗ったほうが一億倍マシだっつの」

 やっぱり、鮮明に思い出せる。無骨な指先に似合わず、ブラシの跡ひとつ付けない丁寧な塗りを。指先に息を吹きかけられたあとの、「死ぬほど乾かせ」という粗雑な完成の合図を。「クセー」と眉間に皺を寄せて、力いっぱいにその小瓶の蓋を閉めてしまう様子も。そのせいで、次に使うときに私の握力じゃ蓋を開けられなくなることを、いつまで経っても学ばなかった彼のこと。二年経っても、私のなかでちっとも色褪せることのなかった、春とエナメルの香りも。

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