※大学生設定です


 嵐くんに話せば「はあ?」とため息をつかれそうなほど、どうしようもなく些細な出来事が理由だった。

「……もういい、ニーナのことなんかキライ」
「キラ……!? ちょ、アンタ……待てって。落ち着いて話そーよ」

 年上のわたしよりも随分大人びた言葉でたしなめてくれたニーナだけれど、その声色には苛立ちが宿っていた。
 カップルの三年目には魔物が潜む、とはよく耳にする。高校時代の部活仲間でもあったニーナとは言いたいことも言い合える関係ができていたし、そんなものは他人事だと信じ切っていた。
 だからこそ、一度零してしまった強い言葉は見栄や意地をはらむばかりで、もう後に引けなくなってしまったのだ。

「しばらく、会いたくない」
「……アンタさ、本気で言ってんの?」
「……本気」

 乾いたような湿ったような空気が、部屋のなかに充満している。
 ニーナの顔を見たくなくて、ベッドのそばのラバライトが無邪気につくる模様をじっと見つめていた。昔、わたしがあげたもの。
 あのときニーナは、『ただ単にオシャレなだけじゃなくってさ、二度とおんなじ模様がやってこないって思うと、なんか切なくてずっと眺めてられんだよね』と笑って喜んでくれたっけ。
 今の、ぐちゃぐちゃにかき乱された心のままでは、そんな思い出すらも優しく撫でてあげることはできないけれど。

「……わかった。でも、カッとなってそのままバイバイとか、オレは納得できねーよ。……しばらく頭冷やそ、お互いにさ」

 ニーナは私の頭をひとつ撫でて、でもそれが限界だというふうに、顔を歪めていた。
 心の端を、力一杯にぎゅっと掴まれたような感覚。呼吸だって苦しい。
 けれど、今のわたしにはニーナの言葉に頷くことしかできなくて、そしてそれが正解だという冷ややかな確信があった。
 静かに頷いたあと、ニーナはなにも言わなかった。すこし俯いたあとに、今日は泊まるはずだったわたしを駅まで送ってくれた。

 


 
 講義中にポケットの中で震えた携帯を、テーブルの下で盗み見た。
 「今日飲みに行こうよ」という別の学科の友達からのお誘いだった。バイトのシフトもないので、「行く〜」とだけ返信して画面を閉じるけれど、そのほかのメッセージは受信フォルダにはなかった。
 ニーナといわゆる「冷却期間」に突入して二週間。
 あれ以来、ちょっとした連絡すらも断っているはずなのに、三年という時間で染み付いたクセで、ニーナからのメッセージをチェックしてしまう。朝起きたとき、講義が終わったあと、昼休み、お風呂から上がったあと、眠る前。他愛のないやり取りすらも楽しかった。
 時間が経って、大学三年生になった私と、二年になったニーナ。通う学部もサークルもちがえば、講義以外の時間、ニーナはバイトとアクセサリーづくりに追われている。わざわざ会う約束を取り付けないかぎり、そんなに顔を合わせることはない。
 『ニーナ』という文字列が、ほかの友達の名前に塗り替えられて、どんどんと下に埋まっていくのを見て、やっと実感する。
 高校時代とはちがって今は、こうもカンタンに「他人」に戻れていくのだと。

 



「嵐くん!? 久しぶりだね、どうしたの」

 その夜。ほろ酔いで鈍った頭のせいで、思わず夜道で高らかな声を上げてしまった。
 『声デケえぞ』と電話の向こうの嵐くんに昔と同じ声で叱られて、笑いながらごめんごめんと謝る。

『確かに久しぶりだよな。半年くらいか、会ってねーの』
「そうだね。前にニーナと三人でごはん行ったっきりかな。嵐くんはどう? 元気?」
『まあいつも通りだ。でも俺のことより、おまえだ』
「わたし?」
『ああ。なんとなくおまえが元気かどうか気になって、暇だったから電話した。飲みの帰りか? 声が酔ってる』
「そうだけど、よくわかったね」
『まあな。家帰るまで繋いでてやる』
「え? いいよ、忙しいのに悪いし、すぐそこだし」
『駄目だ』
「なんでそんなに頑ななの……」
『そういう約束だ』

 嵐くんは重たいものをどすんと置くような口調でそう答えた。こうなったら、どんな説得も嵐くんは聞かない。経験上、知っている。
 ただ「約束」というセリフがやけに引っかかって、「まさか」という疑念が頭をよぎる。
 それでも、もしちがったら。昔からわたしとニーナのことを応援してくれていた嵐くんに変な心配をさせてしまう。ただでさえ忙しいのにそれは避けたい。
 いろんなことを悶々と考えながら嵐くんと近況報告をし合っているうちに、ほんとうに家まで着いてしまった。

『着いたみたいだな。無事でよかった。ところで、最後に一個だけ聞いていいか?』
「なに?」
『みょうじ、指輪のサイズってどんくらいだ? 最近急に太ったり痩せたりしたか?』
「え……? なに、急に。最近測ってないけど、してないはず」

 嵐くんが放つには突拍子もなさすぎる質問に、思わず硬直してしまう。

『ならいい。面倒かけたな。……ホント、面倒だ』
「嵐くん、結局今日は一体なんだったの」
『俺もいまいちわかってねーよ。とりあえず、みょうじが元気そうでよかったってのはマジだ。……風呂浸かって早く寝ろよ。じゃあな』
「……あ、うん。ありがとう、嵐くん」

 それ以外にはこれといった要件もないらしく、嵐くんは爽やかに電話を切ってしまった。
 というかまるで、わたしが元気にやっているか、無事に家に辿り着くかを確かめるのが要件だったようなあの口ぶり。
 最後の変な質問にだけは、わずかな違和感と期待が胸をよぎるけれど、一番よく目にしてきたカタカナ三文字の連絡先を、開いてやめて、また開いては、やめた。





『まあもし将来アンタがどうしようもなくなったらさ、オレんとこ来なよ』

 嵐くんに話せば「はあ?」とため息をつかれそうなほど、どうしようもなく些細な出来事が理由だった。
 大学三年になって就職先を探していたわたしに、ニーナはそう言った。
 文字列だけとらえれば、カップルにありがちな甘やかでくだらないやり取りに聞こえるけれど、そのときのわたしは朝から二通もの「お祈り」メールをもらっていて、漠然とした不安に溺れかけていたのだ。
 勝手に弱音をはいたのは自分なのに、ニーナはそれを励まそうとしてくれていたことも分かっていたのに、「そんな軽い言葉で片付けないで」なんて呟いてしまったのを皮切りに、見るも絶えない言い合いになってしまった。

『わたしの人生だもん』

 極めつけに放ったそのせりふを、ニーナは呆然として聞いていた。
 そのひとことが「だからあなたは関係ない」と言っているのと同義だと、あとになって気が付いた。
 ニーナと一か月も会わないなんて、はじめてのことだ。どうしてこんなにもニーナに会うことが後ろめたいのか、怖いのか、いまだにわからない。
 考えごとをしながら、気が付けばいつもふらりと立ち寄る、ショッピングモールのなかの雑貨屋に来ていた。

「あ、これこれ! ネットで告知入ってたの。委託販売始めたって」
「ほんとだ! 手作り感もあってカワイ〜。クリエイターの人って、確かまだ学生なんだよね」

 同じぐらいの年齢らしき女の子たちが弾んだ声を上げるのが聞こえて、はっと顔をあげる。
 アクセサリーに細かい削り模様を付けながら、たしかニーナがそんな話をしていた。ほんとうに嬉しいときは、なぜか得意気じゃなくて照れ臭そうに話をする、彼のくせを思い出す。
 ちらりと女の子たちの頭のあいだから、その棚を盗み見る。シルバーが店内の照明に照らされて、ちかちかときらめいていた。鋭くぎらつくもの、反対に鈍くやさしいきらめきを持つもの。
 「全て一点もの」というポップが掲げられたそのアクセサリーたちには、たしかに見覚えがあるような気がした。

「この人、ブログにはけっこう作品載せてるんだけど、最近けっこう作風変わったんだよね〜」

 女の子の白く細い指が、そのなかからひとつを愛おしそうに摘まみ上げてそう言った。

「作風?」
「そうそう。なんだろう……もっとこう、なんとなく葉月珪っぽい、みたいな? ああいうスタイリッシュなデザインだったんだけど、最近はちょっとポップな感じになって、それがすっごく可愛いの! ネットでも余計話題になってさ」
「へ〜、そうなんだ!」
「うん。『だいじな知り合いにアドバイスもらって、自分らしさをやっと見つけられた』って書いてあったよ。きっと明るくて楽しい人なんだろうなあ。この『Nina』って人」
「あはは! その人のSNS、見すぎじゃない?」
「だってファンなんだもん! これ、買っちゃお」

 レジに向かっていく嬉々とした背中を見つめていると、頭の奥のほうでやすりがけの音が聞こえた気がした。





 ニーナの家にいるとき、彼の手の中でアクセサリーができあがっていく、その音を聴くのが好きだった。
 ふとその音がやんだなら、ニーナが行き詰まっている合図だった。
 はあ、と情けないため息が聞こえるので「どうしたの」と近づくと、彼にしては珍しくも、落ち込んだようにあざとく頭をこつんと寄せられた。

「うまくいかない?」
「うーん。出来自体はいいんだけど、肝心なデザインがしっくりこねーっつーか、なーんかオレっぽくねえ? っていうか」

 ニーナは眉を下げて、ほとんど出来上がりのように見えるリングを長い指のなかでころころと弄ぶ。
 企業デザイナーとして就職して、ゆくゆくはデザイナーとして独立するのが夢だというニーナは、わたしにとっては十分すごくてかっこよかった。そんな彼にわたしなんかがアドバイスできることなんてないに等しい。ましてやアクセサリーのことなんてわからない。
 けれど、作業用テーブルの上できらめくアクセサリーたちは、スタイリッシュで洗練されたデザインであるものの、たしかにニーナとはアンバランスなふうに見えた。

「なーんでだろ……」

 ニーナはころんとリングをテーブルのうえに転がしてしまう。
 そのとき、たしかわたしは膝のうえの雑誌を閉じて、ああ言ったはずだ。

「……ニーナがほんとに好きだって思える、かっこいいって思えるものを作ったら? ……ええと、今もそうしてると思うんだけど。ニーナってもっと、かわいくてかっこよくて、なんていうか、一筋縄じゃいかない感じ……みたいな。だから、ちょっと遊びがあってもいいんじゃないかなとか。あ、よくわかんないのに勝手なこと言ってごめん」

 はっと顔を上げたニーナは鳩が豆鉄砲を食らったようなへんてこりんな顔をしていた。
 勝手なこと言ってごめん、と謝ったけれど、ニーナはなぜかふっと笑って「アンタってホント……なんかもー、あー……スキ!」とわたしの髪をくしゃくしゃに撫でた。





 『だいじな知り合いにアドバイスもらって、自分らしさをやっと見つけられた』

 何も知らないわたしの勝手な言葉のことを、ニーナは自分の言葉でそう綴ってくれていたんだ。
 ニーナのアクセサリーを手に入れて、満足気に帰っていく女の子の後ろ姿。わたしの目じりにはうっすらと涙が滲んだ。
 行き詰まったときに『そんな軽い言葉で片付けないで』『わたしの人生だから』なんて言って、励ましてくれたニーナのことを突き放してしまった自分とは、正反対だ。
 ――ニーナが軽い気持ちであんな言葉を吐かないことなんて、わたしが一番よく知っているはずなのに。ニーナはいつだってわたしの言葉をまっすぐに受け止めてくれて、一緒に人生を歩もうとしてくれていたのに。
 何かを考えるより先に、足が動いていた。





 バッグのなかからニーナの部屋の合鍵を取り出す。ちゃり、と控えめに揺れたのはニーナがはじめてデザインから手掛けたアクセサリーだ。細くて華奢なチェーンに、風花のような飾りがいくつかあしらわれている。
 「はい、プレゼント」となんとなく赤くなったニーナに合鍵と一緒に渡されて「どっちが?」と尋ねたら「どっちもだってば!」と怒鳴られたことも覚えている。
 インターホンを押しても返答のない部屋のなか、そっと鍵をあけて足を踏み入れると、嗅ぎ慣れたにおいがする。
 玄関に、ニーナがいつもつけている香水のにおい。リビングに、ルームフレグランスのにおい。どちらも二人で選んだもの。
 一か月以上も離れていたのに、香りはなによりも鮮明に、ときには残酷に記憶を呼び起こす。
 今年の初めにゲーセンで取ったドクロくまのぬいぐるみは、ベッドの端ですこし草臥れ始めている。
 主のいない作業用テーブルには、最近まで誰かがいたように気配を纏っている。そっと歩み寄ると、一本のリングがちょうどその中央に佇んでいた。
 まるでいくつもの風が吹き上げるような、繊細な流線模様に、小さな風花が彫られている。既視感のあるデザイン。思わず手を伸ばそうとしたとき、背後でドアの閉まる音がした。

「あー……ひょっとしてもう見つけちゃった? ソレ」

 ばつが悪そうに頬をかくニーナに、短く息を呑む。
 ニーナは普段着で、手にはレジ袋をぶら下げていた。家の鍵を玄関のトレイのうえに置くと、行き場にすこし困ったようにレジ袋をぶらつかせる。
 一か月会っていないだけなのに、どこか大人びたような顔立ち。不安そうにわたしを見て瞬く睫毛を見て思い直す。帯びているのは大人っぽさではなくて、寂しさかもしれない。

「……ごめん、ニーナ。何も言わずに急に来て」
「いーよ。オレ、アンタに合鍵渡したとき言わなかったっけ? 『いつでも』来ていーよ、アンタなら早朝でも深夜でも真昼間でも大歓迎だって」

 明るくそう言い終えたニーナが、ふっと目じりをやわめる。
 まだなにも言っていないのに、前と変わらない態度で接してくれるニーナの優しさに、心臓が誰かに掴まれたように苦しくなった。

「……あの、ニーナ、わたし」
「待って」

 ばさりとナイロンがこすれる音と、固いなにか同士がぶつかる音が、足の裏に響く。
 拾い上げるひまもなくわたしはニーナの両腕に閉じ込められた。今までにないほどきつく抱き締められて、体温と懐かしいにおいに全身をくまなく包まれる。
 馬鹿正直にニーナの続きの文字を待っていると、小さな吐息のあとに、ニーナがすこし笑うのが聞こえた。

「……オレこそ急に、こんなことしてゴメン。なまえちゃん、アンタが戻ってきてくれたら、ちゃんと説明したいと思ってたことがある。なまえちゃんのことただ待ってたんじゃなくて、オレももっかいちゃんと考えた。……つまり、オレには、今までもこれからも、やっぱり絶対アンタしかいねーってこと。…………まあ、もう知ってっかもしんねーけど」

 彼の言葉のとおり、わたしはそれを知っていた。
 馬鹿なわたしはそんな大事なことすら忘れそうになってしまったけれど、すぐに思い出せた。
 懐かしいにおい、やすりがけの音、風花、甘くてやわらかい声。そのすべてが、昔から変わらない愛おしさを思い出させてくれる。

「……知ってるよ。ずっと伝えてくれてたのに、見えなくなっちゃってごめん。わたし、ニーナのことずっと大好きだよ」

 いまだ緩まらない腕のなかで呟くように答えると、しばらくの噛み締めるような沈黙のあと「……ウン」という相槌だけが届いた。
 この言葉を言うといつも、犬のように大袈裟に喜んでくれたニーナからは想像もつかないほど、切なくてさみしくて、でも幸せに満ちた声だった。
 ようやく体が離れると、ニーナの目はすこし赤らんでいた。とっくに泣いていたわたしはそれを茶化すこともなく、ただ親指の腹で瞼をなぞった。

「……ね、なまえちゃん」
「……うん?」
「オレさ、もうすぐ誕生日だったりするじゃん」
「うん」
「……一生に一回のおねだりさせてよ。ほしいものがあんだよね」

 首を傾げていると、ニーナはテーブルからシルバーのきらめくアクセサリーのうち、ひとつを拾い上げた。
 そしてわたしの手をすくい上げると、人差し指、中指、薬指。一本一本をいつくしむように撫でていく。

「……この指の独占権、ちょうだい」

 一瞬のうちにみるみる高くなったニーナの熱が、触れた指先から伝ってくる。
 そのかわりに、ひんやりと冷たい金属の感触が、するりとわたしの指に宿った。
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