オンボロ寮の玄関を開けた外に突っ立っていたエースは、その威勢とはうらはらに、ずびずびと鼻をすすった。
「風邪を引いて熱が出た、ルームメイトに移すのは悪いからオンボロ寮の一室を貸してほしい」――というメッセージが来たのは、ついに十分前のこと。目が覚めて寝ぐせを直していた最中だった。
私が着ているのとおなじ制服はまとわずに、ゆったりとしたチェリー色のプルオーバーを着たエースの姿は新鮮なものの、学校を休むほどに体調が振るっていないことの証明でもあった。
「ごめん。エースも風邪引くんだと思って」
「お前さ〜……全快したらめちゃくちゃ言い返してやるから、覚えてなよ」
「言い返す元気もないなら、ほんとに心配だよ」
入って、とあちこちが軋むオンボロ寮のなかにエースを通して、合宿のときに彼が使っていた部屋を案内する。合宿からたいして時間も経っていない部屋のなかは、幸い埃などもすくない。
エースはバッグをどさりと下ろすと、倒れ込むようにしてベッドに全体重を委ねてしまった。
「大丈夫?」
「ウン、たぶん。あ〜……なまえ、ティッシュある? 超鼻水出る」
「うん。箱ごと持ってきてあげたよ」
エースの手がこっちへ伸びてくる。いつもエースとそうしているくせで、箱をひょいと投げてしまう。あ、と思ったら案の定、指先まで覇気が通っていないエースの指先は、はじめてそれを取り逃してしまった。
「……も〜、もっと優しくしてよ、なまえ」
顔をはんぶん枕に埋めたエースの視線が、責めるようにこちらを向く。
「今のはほんとにごめん。ついいつものくせで。はい、ティッシュ。ごみ箱はそこにあるから。飲み物も、水とお茶でよければ冷蔵庫に」
「はいはい、ありがと。あとさ、魔法史のテスト範囲さ……」
「ちゃんとメモっておくよ」
「頼むかんね。デュースはアテになんないからさ」
エースはそう言うと、はあと熱っぽい吐息を深く漏らして、掛け布団を首までかぶった。
寝慣れないベッドで落ち着かないのか、もぞもぞと蠢く白い山に「じゃあ、学校行ってくるね」と告げる。
エースは「うん」とも「おう」ともとれる曖昧な返事をなんでもないようによこしたけれど、私のほうはなんとなく、友達であるエースに「行ってきます」と告げるこそばゆさに、背筋をなぞられていた。
◇
昼休み、ミステリーショップで「風邪を引いた友達がいる」と言えば、サムさんはあれこれとおすすめのアイテムを出してくれた。
本当かは分からないが、サムさんいわく「これがベスト」というスパイシードリンクと、元の世界の記憶を頼りにフルーツや食材を買いこんで寮に戻る。
「エース、入るよ。食べられるなら何か食べたほうがいいと思って」
お粥(こっちの世界で知られている料理かはさておき)とフルーツをお盆に乗せて、小さくノックをしてからエースが寝ているはずの部屋へ入った。
足音をおさえても、ぎいと軋む床。
やがて、すうすうと規則正しい寝息が、ゆるやかに盛り上がった白い山のなかから聞こえてきて、いくらか安堵した。
「……ん……なまえ?」
お盆をサイドテーブルに置いたかすかな物音でエースは目覚めたらしく、呻き声をあげた。
「エース、おはよう。いまちょうどお昼だけど、ごはん食べられそう?」
エースは寝惚け眼をこすって頭を整理しているようだった。朝よりもいくらか顔色はよくなった気がするけれど、こめかみにはうっすらと汗が滲んでいた。
「……お前の手料理とか、大丈夫なのソレ」
「それだけ憎まれ口叩けるなら十分だね。はい、口に合うか知らないけど」
「……どーも。てか、昼休みにわざわざ戻ってきたの? コレ作りに」
「そうだけど」
「ふーん……べつに、そこまでしなくたって死なないってば」
目を逸らしたままそう言うエースが病人じゃなければ、殴っていたかもしれない。
とは言っても、いつも憎まれ口を叩き叩かれしている間柄のエースに、ここまで目に見えて親切にしたのははじめてだ。今朝ほんのりと感じたくすぐったさも、きっとそのせいだと納得する。
エースはじいと白い湯気をはらんだ碗をぼうっと見つめていた。
「もしかして食欲ない?」
「いや、べつにそんなことねーよ」
「じゃああったかいうちに食べなよ。それともエースくん、ふーってして冷まして食べさせてあげようか?」
「はは、バカ。……いや、よろしく。オレ病人だからさ」
軽い冗談にもかかわらず、エースはすこしおかしそうに笑う。おまけに、お盆のふちを指でつんと押しては急かすように揺らしてみせた。
「本気で言ってる?」
「んなわけ」
「もう……じゃあ、ゆっくりでいいから食べて。私、冷たいタオル取ってくるから」
ため息をついて、スプーンを碗に沈めるところまではやっておく。ベッドに片手をついて、折っていた膝を伸ばそうとしたとき、溶かされそうなほど熱い手が、私の手に覆いかぶさるようにして置かれる。
はっと息を呑んだと同時に、エースの瞳がうかがうように私を見すえた。
「……タオルはいいからさ、もうちょっとココにいてよ」
どこか潤んだような熱をはらんだような目線は、毎日見ているエースのとはまったく違っているように見える。
じわじわと右手の指先から溶けていく。シーツに縫い付けられて、そのまま一体化してしまいそうだ。
私は数秒のあとにようやく我にかえって、さっきの仕返しにと笑ってみせる。
「いいけど、エース、もしかして私のこと好きなの?」
からかったつもりが、もっとべつの感情が滲んでしまったような気がしてならない。自分で言ったくせにうるさくなっていく鼓動。
逃げたい。そう思った瞬間にぎゅっと右手が握られた。うっすらと汗ばむ。熱が全身に伝播して増していく。
「……そーだけど、もしかしてダメなの?」