「こ、これかあ。意外……」
「なにがだ?」
「……もっとふんわりしたのを選ぶと思ってたから」
私の言葉には、もちろん願望も混ざっている。一生に一度のこと。やりたいことをすべて叶えられるまたとない機会に、「自分が着たいか」とは別に、「無理なく着られるかどうか」でドレスを選んでしまうのは本末転倒だとわかっているけれど。
焦凍くんは私の顔をじいと見る。目がふたつ、鼻がひとつ、と丁寧に確かめるように。
そしてなにやら納得したようにため息をつくと、
「やっぱりなまえに似合うと思うぞ。……まあ、俺はこういうのに詳しくねえから、俺の意見は聞き流してくれていいんだが」
カタログにふたたび視線を落とす彼を見て、思わず笑ってしまう。
「焦凍くんの意見を聞き流したら、ほかに誰の意見聞けばいいの。私と結婚するの、焦凍くんなのに」
私がそう返せば、焦凍くんはどこか腑に落ちないように目を丸めるのだ。
むろん、私の記憶違いでなければ、プロポーズをしてくれたのは彼である。
ある朝に目を覚ますと珍しく隣のスペースに行儀よくおさまっていた彼が(いつもは端に寄っていたり、下のほうに丸まっていたりする)、「おはよう、いい天気だな」というような自然な声色で「俺、お前と結婚してえ」と素直な言葉で伝えてくれたはずだ。
それから数か月がたつのに、その事実を言葉でなぞったとき、彼はいつもこういう表情をするのだった。
「焦凍くん? またぼうっとしてる」
「――ああ、悪い」
よく考えればそれもそうだよな、と困ったように眉を下げて焦凍くんは笑うのだった。それを見て安心するけれど、どこか浮付いたような地に足のつかないあの一瞬は、なんなのだろうか。
彼にかぎって、漠然とブルーになっているだとか独身の自由な時間が惜しくなっただとか、そういう理由はあまり考えられない。それがかえって私のなかに小さな違和感を残していた。
◇
これとかどうだ、と涼しい顔で彼が指さしたドレスにすこしでも見合うために、実に半年をかけて体をしぼった。
炭水化物をひかえている私が、彼と一緒になって蕎麦を食べなくなったことにはすこし不服そうだったけれど、何回食べたって幸福そうに蕎麦をすする姿を見ているだけで、私は満足だった。
努力の甲斐あって、試着のときよりもはるかにきれいにそのドレスを纏うことができた。鏡に映った自分を見て、ついに今日という日が来たのだ
と感慨に耽る。
ふいに聞こえたノックの音に返事をすれば、
「旦那様がいらっしゃってます。ご準備のほどはよろしいですか?」
と柔和な声がするので、横髪をかるく整えて頷いた。
うやうやしく開けられたドアの向こうに、焦凍くんは立っていた。それぞれきれいな色の瞳がふたつ、私を見とめて、かすかに揺らめいた気がする。
「……どうかな。ちゃんと似合ってるかな」
「……ああ」
焦凍くんはどこかうつろなままこちらに歩み寄ると、私の顔にかかるヴェールをつまんだ。
「この布外していいか?」
「挙式でやるから、今はダメ」
「……わかった」
もしかしてこんなところでキスをするつもりだったのだろうか。いつだってこういう素直さは、私の顔を綻ばせてくれる。
その代わりにか、おろした両手を掬われる。グローブをしていても、右手にじんわりとした温かさが、左手にひんやりと心地よい冷たさが伝ってくる。たまに手を握ることはあっても、両手を同時に繋ぐことなんてめったにないから、その新鮮さに気を取られていた。
気を取られていて、気付かなかった。私を見据える焦凍くんの両の瞳から、はらはらと大粒の涙が音もなく零れ落ちていることに。
「……あ、え? 焦凍くん!? どうしたの」
彼の顔に視線を戻した私はぎょっとして、思わず声をたててしまう。
焦凍くんは自分の頬を伝う雫に、私よりもずっと後に気付いたようで、はっとして指先でそれを確かめていた。
「……っ、ごめんな、驚かせて」
「ううん。でも大丈夫? どこか痛い? いやだった?」
「違え」
ふるふるとやわらかい髪を揺らして、子どものいやいやをするように首を横に振る彼。
予想外のことに言葉を探しているあいだに、彼はなにかを整理するみたくおおきなため息をひとつと、ふっと空気を抜いたような小さな笑いをひとつ漏らす。
「……いくら言葉で確かめても、ずっと実感みてえなもんがなかったから。俺も、お前みたいな心から大事にしてえって思える人と家族を作れるなんて。心のどっかで夢だと思ってた。バカみてえだけど」
ぎゅ、と両手の指がきつく握られた。
未来の話をするたびに、焦凍くんがずっと腑に落ちない表情をしていた理由がわかってまた笑ってしまった。
「夢だったら困るよ」と咎めたら、「そうだよな」と笑い返される。どれもこれも、自分が言ったくせに。
「……今こんな情けねえ顔を見せてんのは、やっと実感湧いたからだ。一緒にいてくれるんだな、なまえ。ずっと、俺と」
噛み締めるようにゆっくり告げたあと、絡めた指がほどける。
私の視界も歪んで、せっかく施してもらったばかりのメイクが滲んでしまう。
ヴェールがめくられてゆっくりと視界が開けていくのを、はっとしてダメだと咎めたら、彼はすこし赤らんだ目じりを細めて「ダメか」と笑った。