「ねえねえ、七尾ー!」
「は、はいッス!」
廊下で女子の集団に絡まれる七尾は、さながらカツアゲされる中学生だった。カツアゲされるのが金銭じゃなく情報であるだけで、立派なカツアゲだった。
「いい加減、天馬くんのLIME教えてよ」
「そ、それは絶対教えられないッスよ! 個人情報ッスから!」
諦めの悪いこの子たちを怒鳴りつけたり無視したりしないで、毎度毎度、丁寧に断っている七尾はすごい。すごくてアホだ。
それとも、こんな用件でも女子に話しかけられるには変わりないと喜んでいるのだろうか。
七尾の、百面相みたいにぐるぐる変わる顔をじっと見て答えを探る。私の視線を認識した七尾は、助けを求めるように切なく瞬いた。
「うぅ、なまえちゃん……」
「ちょっと、なまえからも七尾にお願いしてよ」
「えー、私? 私、正直、天馬くんのLIMEにはあんまり興味ないかな。七尾が他のかっこいい子紹介してくれたら大目に見るよ」
「ウケる、なまえ、ハイエナか」
「じゃあかっこいい子見付けたら教えて。またね、七尾」
「え? ……は、はいッス!」
ひらりと手を振って廊下を颯爽と歩き出す、私。さすがだ。けれど、こんなのはその場しのぎに過ぎない。一週間後にはまた、七尾は廊下で情報のカツアゲをされてしまうんだろう。
どんな男が来てほしいか、なんて話題に切り替わっているみんなは単純で幸福な子たちだ。ぎゃははという笑い声に渦巻かれて、ふと振り向いたら、七尾はまだこっちを見ていた。嵐が去って、茫然と立ち尽くす。そんな様子の七尾は私の視線に気が付くと、背を向けて走り去っていった。
七尾は、かわいそうでかわいい。
…
「お前も、ちょっとは知りたがれよ」
ぷすぷすと煙が上がりそうに燻ぶった声を出す天馬くんは、明らかに不機嫌だった。
「なにを?」
「俺のLIMEだよ!」
「今日のアレ、見てたの?」
「見てたけど、隠れてたに決まってんだろ。あんな場面で俺が現れたらパニックになるだろうが」
やれやれ、と眉間に皺を寄せる天馬くんの酔いしれた感じはちょっと癪に障るけど、言ってることは間違っていない。
さっき開けたポテチを咀嚼しながらLIMEを開いて、ある人物のトーク画面にふざけたスタンプを押す。そこには何の脈絡も意図もない。ただ踊るヒヨコが一匹いた。
部屋の入口に凭れていた天馬くんはピコピコという軽快な音に導かれてポケットからスマホを出すと数秒後、私を睨んで「おい」と言った。
「俺の一連の動作とデータ通信料を無駄にするな」
ぶつくさと説教を垂れながら蠢く天馬くんの指先は、私のトークなんかは無慈悲にも削除した――と思いきや、今度は私のスマホが鳴いた。
「きゃ、皇天馬くんからLIMEだ」
「そうだぞ。感謝しながら音読しろ」
「“だまれ”」
「フン」
天馬くんは満足したように鼻息を漏らして、スマホをポケットにしまった。私も、ポテチで油ぎった指先を拭くと、用のなくなったスマホをテーブルに寝かせる。
手持ち無沙汰が何よりも苦手な私は、相変わらず入り口の壁に凭れたままの天馬くんに「こっち座れば」と言う。すると天馬くんは、何も言わずに唇を歪めた。
「天馬くん、なんか言いたそうだね?」
「……まあな」
「なに? 言ってみてよ」
「お前が言えよ」
「は?」
「言ってもいいんだぞ、俺と知り合いだって、幼馴染だって。学校のやつに」
「え、なんで。いやだよ」
即答したら、また天馬くんは不機嫌を隠さない顔になる。なんでだよ、と聞かないということは、やっぱり理由は分かっているらしい。
目を逸らしたら、負けである。私と天馬くんとの間にある、隠れたルールだった。いくら腹が立っていても、いくらきまり悪くても、無言で、ただ視線だけを苛烈に戦わせてきた。
「はあ」
しばらく経って、鋭く尖っていた天馬くんの双眸が伏せられた。年々、鋭利さを増してゆく天馬くんの瞳。逸らしてしまいそうなのを必死で堪えていた私は、ほっと息をついた。
今日の負けは、天馬くんだ。
「……そんなに自分が大事かよ。みんな友達だって顔して、お前、あんなやつらのこと本当はなんとも思っちゃいないくせに。俺より、あいつらを取るんだな」
「は? そんなこと思ってないし」
「思ってる。おい、何年一緒にいると思ってんだ。お前のことは、だいたいわかる」
「……むかつく」
「俺の方がむかついてる」
「天馬くんなんか嫌いだよ。めんどくさい彼女みたいなこと言って」
「はあ?」
ぎりぎりと歯を食いしばる私を天馬くんは直視して、そしてぴたりと動きを止めた。目頭が熱く、拳がりきむ。
私が泣きそうになっているのは、天馬くんの言っていることがぜんぶ本当だからだった。
天馬くんの手が目の前まで伸びてきて、行き場を失う。不器用に握ったり開いたりを一度ずつやったあと、結局そのまま引っ込んだ。
「……帰る」
燻ぶった声を乱暴に私に投げつけて、天馬くんは部屋を出て行った。階下でお母さんの声がして、そのすぐあとに玄関のドアが開く音がする。「ちょっとなまえ、天馬くんと喧嘩したの?」という暢気な呼びかけを聞こえないふりしてクッションに突っ伏した。LIMEの来た音がするけど、ぜったい天馬くんからじゃない。
瞼の裏で、アホみたいに踊るヒヨコがどんどん増殖していく。
…
顔を合わさなくても、いやでも目に入るその勝気な目元。雑誌のぺらぺらのページに印刷された天馬くんが、普段よりちょっと大人っぽい顔で、こっちを見ていた。
「今日もやっぱかっこいいわスメラギテンマ」、「てか雑誌のより実物がそこの廊下通らないかな」、「うちら同級生なんだから他のファンより何倍も勝算あるくね?」、「付き合いてえ」、あちこちで紡がれる恍惚とした声に耳を塞ぎたくなりながら、曖昧に頷く。
「……ねえ、もし天馬くんと仲いいってこの中の誰かが言い出したら、どうする?」
区切りがついたらしいところで、私は涼しい顔をして切り出した。
「ハハなにそれ? いやおもろいけど、勘違いじゃねーのって」
「たしかに。ホントだったら今まで隠してあたしらのこと笑ってたのかって思う」
「独り占めしてないで紹介しろって感じじゃん」
けらけら笑いながら彼女たちがしている話は、あくまで“if”の話だ。私は「そうだよね」とまた頷いて、笑った。自分がただの臆病者で、結局のところは天馬くんの言う通りひとりだったのだと、思い知る。
急に虚しくなってぼんやりと視線を浮遊させたら、見慣れた赤い頭と目が合った。「あっ」と七尾は間抜けな声を上げて、肩をびくつかせる。
「なにあれ、七尾なんでうちのクラス来てんの」
「もしかしてこないだの合コンセッティングできたんじゃね」
数多の女子からの視線に耐えかねたのか、あたふたと空中でクロールもどきをしてから私たちに背を向ける七尾の背中。私は声をかけた。
「七尾」
「は、はいッス!」
「なんか用事あったんじゃないの?」
「え? あ、いや、やっぱりなんでもないッス! 大丈夫ッスから! ランチの邪魔してごめんなさいッスー!」
へらへらというか、デロデロというか、そんな感じに七尾は笑ってから走り去った。挙動不審すぎる七尾に、周囲はしいんと温度を下げる。
そして予鈴が鳴ると同時に、誰かが「てかさあ」と切り出した。
「ずっと思ってたんだけど、七尾ってぜったいなまえのこと好きだよね。今もあんたのこと見てたよ、ぜったいね」
「あー、確かに。うちらが絡んでるときもなまえのほうばっか見てるしさ、てかなまえと話すとき、うちらと話すときの一億倍ぐらいテンパるよねあいつ」
私が口を挟むひまもなく、畳みかけるような彼女らの口調は熱を帯びてゆく。それはないんじゃないかと否定すれば、なぜか私に火種がついた。
あんたも七尾のこと、放っておけないんでしょう。隙のないピンクのエナメルに覆われたすべらかな爪で、私は指をさされる。
何が何だか。私は苦笑しながら、上履きを床と擦り合わせた。隣の机に横たわる雑誌の中の天馬くんと、目が合う。目を逸らしたのは、私だった。
…
「じゃあ、うちら食券買ってくるしジャンケン勝者の名前は席取っといてー。何がいい?」
「チキンカツ定食」
「オッケー」
仮にもジャンケンの“勝者”だというのに7人分の席を私だけで確保するという難題を押し付けられてしまった。目印になるバッグやらも持ってきていないし、誰かが来たら「あっそこ友達座るんです」作戦で行くしかないか、と溜息をついたとたん、前の席に人の質量が降ってくる。
「あのそこ……ああ、七尾じゃん」
「あ、あの、なまえちゃん!」
「えっ、なに。びっくりした、大きな声出さないでよ」
劇団だかに入っているらしいのに、声量の調節が下手くそか。それぐらい、七尾の声はぐらぐらと乱れていた。そんなに緊張しなくても、と言いかけたところで、こないだから折につけては友人たちから言われる「七尾ってぜったいなまえのこと」以下省略の言葉を思い出した。
「ええと、ここで話すと……」
「あの! いっつもありがとうッス」
「……え?」
「なまえちゃん、いっつも俺を助けてくれるッスよね。ごめん、俺っち気付かなくて……なまえちゃんはあの子たちと同じこと言ってるように見えても、どこか違うなって思ってて。絡まれる俺っちをさり気なく助けてくれてたって、こないだやっと気付いたんスよ」
七尾は、照れを隠すように髪のうしろを触る。たどたどしく紡がれる核心めいた言葉に、私は唇を閉じられなくなった。
「……みんなと違うって、なにが」
「ち、違ったら申し訳ないんスけど……ちょっとだけ無理、とか、してないッスか。おせっかいって思われるかもしれないスけど、でも、ずっとなまえちゃんのこと見てたッスから……あ! 今のこ、こ、告白とかじゃないッスよ!」
ひとりで盛り上がったり盛り下がったり、笑ったり落ち込んだり、忙しいやつだと思う。追いてけぼりの私が茫然とただ頷いていると、七尾はハッと思い立ったように何かを取り出した。
「なに? これ」
「いつものお礼ッス!」
カラフルな箱は、なにかのお菓子のそれに見えた。いきなりお礼を差し出されて、さらに「劇団の人に教えてもらいながら俺っちが作ったんスよ」なんて七尾が言うから、さらにびっくりだ。開けてほしそうにさんざめく瞳に負けて蓋を開ければ、それはクッキーだった。店で売っているような凝った見た目。聞かなくても、それがヒヨコの形だとわかった。
「……ありがとう」
ニッコリと歯を見せて笑う七尾は、なんにも知らないみたいな顔をして。それなのに、天馬くんしか気付かないようなことに気付くから、よくわからない。今だって、私がひとりのときを見て、やってきてくれたんだろう。
かわいそうでかわいい、七尾はそういうやつだった。
「あれー、七尾じゃーん」
トレイを持った6人が戻ってくる。のんきにチワッスとか言っている七尾を今すぐ犬小屋にしまい込みたい気分になった。
「えー、七尾、やっぱなまえに会いにきたんじゃん? てか、さっきプレゼント的なの渡してなかった? え、七尾、もしかして告ったの?」
「え、マジ?」
つんとするような黄色い声で、彼女たちは騒ぎ立てる。
「え、ええっ!? お、俺っちそんなんじゃ……!」
違うよ、そうじゃない。七尾と一緒になって首を横に振る。がやがやと囃し立てる彼女らの声が渦を巻いて、こわい。「付き合えば?」という甲高い声が食堂に響いた。どこからともなく、まばらな手拍子が聞こえ出して、私はついにへらへらしていられなくなった。
七尾はいつかみたいに助けを求めると思ったのに、私の一歩前に歩み出る。さりげないその動作にはたぶん、私しか気付かない。
いつの間にか食堂中の視線が集中する。なにが最善か、どうすれば七尾を守れるか。七尾がかわいそうでかわいいせいで、こんなときにも七尾のことを案じてしまう。
――あんなに自分ばかり守っていたくせに。後先も考えずに口から零した「私」という声に、誰かの足音が重なった。「天馬くん」という黄色い声が、鳴り響いていた手拍子に突っ込んで、散り散りにして。
「おい、やめろ。ガキかよ」
割り入ってきたらしい天馬くんの前髪は分かれて、おでこが露わになっていた。天馬くんがなぜか掴んだ私の右肘。
天馬くんの登場が、なにもかもを掻き消す。七尾と私が囃し立てられていたことなど、誰もが忘れてしまっていそうだった。
「て、ててて天チャン?」
「……ああ」
「天馬くん」
こないだ家を出て行ったきりに見る、不服そうに尖った唇。
「天チャンとなまえちゃんって、知り合いだったんスか?」
周りの誰もが知りたがるだろうことを、代弁したのは七尾だった。
私は顔を伏せる。ほんとうはここから走り去りたい衝動に駆られているのだが、腕をがっしりと掴んだ天馬くんが、それを許してはくれない。
「――こいつは俺の、幼馴染だ。太一とも付き合わない。勘弁してやってくれ」
ざわめきよりも、沈黙のほうが残酷だ。
積み上げてきたものが、鼓膜の奥で轟音を吐きながら崩れてゆく。居場所なんて元からなかったようなものでも、私にとっては重要だった。もうなにもない空虚を掴むように、私は右腕に力を込める。天馬くんにしか伝わらないそれは、天馬くんひとりだけを振り向かせた。
――責任は取る。天馬くんがいっとう誠実な瞳とともに私に口ずさむ。守ってほしくはなかった。もう遅いけれど、天馬くんにも言いたい。
おい、やめろ。ガキかよ。