――もういないと思っていた。おそらくこれが、今年最後に聞く蝉の声になるだろう。
 そんなくだらないことを考えながら、おぼつかない足取りで砂利の上を歩いた。くだらないけれど、ちょっと誰かに共感してほしいような気もする。ぼんやりとした頭の奥で、蝉の声が二重にも三重にも聞こえはじめてやっと、体がおかしいと気付いた。
 ずっと向こうの、先生たちが待っている民宿のほうが揺らめいているのも、蜃気楼のせいだと思い込んでいたのに、どうやら違うらしい。
 強化訓練のメニューがやっと終わって、これからは待ちに待った夕食だ。野菜を切るのは面倒だけれど、疲れ切った体で食べるカレーはさぞおいしいだろう。
 いつもより心なしか高い、自然に囲まれた空に向かって

「ようし、ちゃちゃっと準備して、早くカレー食べよう!」

と、右手を突き上げるお茶子ちゃんの声も、頭蓋骨の中でぐわんと分身した。

「……そうだね。でもちょっと、民宿についたら水飲んできていい?」
「もちろん! あれ……ひょっとして、暑さで気持ち悪いとか? 大丈夫? 私、付いてこっか?」
「大丈夫だよ。水分補給したら、すぐ戻るね」

 眉を下げて頷くお茶子ちゃんに手を振って、靴を脱ぎ、宿の縁側から上がった。
 古民家ふうの民宿はうちのクラスの強化訓練のために、三日間の貸し切りにしてある。古いけれど掃除は行き届いていて、緑に囲まれていて涼しく、それに静かだった。これがスパルタな強化訓練じゃなくて、たとえばお茶子ちゃんたちと来る、ただの女子旅だったなら。たくさんおしゃべりをしておいしいものを食べるだけだったら、どんなに楽しかったか……と思う。
 相澤先生に配られた、スパルタ極まりない工程表を見て、その空想は瞬時に砕け散ったのだ。むろん芦戸ちゃんなんかは「夜、女子で恋バナしよーね!」なんて目を桃色にしていたけれど……。
 ひたひたと冷たい床を歩いて厨房を探すものの、慣れないつくりの、それもだだっ広い建物のなか、想像以上に時間がかかってしまった。

「あーあ、こんな長い廊下、五十メートル走できちゃうよ……」

 馬鹿みたいな独り言を呟いている時点で、相当に参っていたのだと思う。
 ふいに、開け放たれたガラス戸から、ひんやりとした心地よい風が入ってくる。広がっている緑は裏庭のようで、その奥の岩間を流れ落ちる、糸束のような細い滝のおかげで、こうも涼しいのだとわかった。

「もう、ここでいいや、ここで寝よ……」

 喉はからからに乾いていたけど、この重い身体を引きずって水を探し回るだけの気力が尽きてしまっていた。
 畳に体を預けると、ほんのり香ばしいようなにおいが鼻先をかすめる。
 瞼がひとりでに伏せっていく。ああ、こういうお人形、昔持ってた。寝かせると重力で勝手に目を閉じる人形。まるで今の私は、それみたいだ。



 遠くで物音がしたのが先か、私が意識を取り戻したのが先か。わからないけれど、水面下から顔を出すようにゆっくりと、朦朧とする意識をかき分ける。
 耳に入るのは蝉の声ではなく、どこか物悲しいひぐらしの声に塗り替えられていた。

「……おい、起きろ」
「…………」
「起きろつってんだろうがクソが! 死ぬぞ!」

 ふいに耳もとで、爆発音にも比肩できる怒号が鳴り響いた。悲鳴とともに飛び起きると、同じ目線の高さに赤い瞳がふたつ、私を睨んでいる。

「……あれ、爆豪? なんで?」
「なんで? んなもんコッチのセリフだわ。オメーが帰ってこねーから見に来させられたんだよ!」
「……え、あ……ごめん! 私、どのぐらいここで寝てた!?」

 爆豪の言葉で、自分が意識を手放していたことに気付く。だとしたら、蝉の声がひぐらしの声に変わっているのも、肌を撫でる風がすこし冷たくなっているのも、当たり前だ。
 縁の外は何とも言えない夕焼けに染まっていた。

「寝てただァ? オメーはここに落ちとっただけだろうが」
「落ちて」
「ぶっ倒れたンだろ。なんで誰にも何も言わねえんだよ。勝手に野垂れ死んでんじゃねえ、胸糞悪い」

 え、と掠れた声を出しているあいだに、爆豪はどこから取り出したか、コップに並々入った水を差し出してくる。

「飲め」
「あ、ありがとう……」
「ンで寝ろ」
「あ、うん」
「いちいち吃ってんじゃねえ」
「ごめん」
「いーから寝ろ! 吐くほど水飲め!」
「どっち!」
「ウルセエ!」

 次々に出される指示、というか命令。されるがままに従っているうちに、頭が開けていく。おそらく私は、ほとんど気絶してしまっていたのだろう。
 喉を通る水は私は冷えていて、食道を滑り落ちていくのすらわかった。コップを唇から離すやいなや爆豪の固い手がそれを奪い取る。すこし性急なその動作に、二、三滴の水が畳にぱたりと落ちた。
 爆豪に言われるままに体を再び畳に預けると、そのまま赤い瞳も私を見下ろす。

「冷てェの乗せとけ。デコと首」

 ばさりと顔の半分ごと、冷たいタオルで覆われた。さすがに雑だと思ったけれど、ありがたいことには変わりない。むしろ、うちのクラスで一番看病に向いてなさそうな爆豪がここまでやってくれたというなら、三つ指をついて礼をすべき事態だと思う。大方、カレーづくりをサボっていたから代わりに私の様子を見に、というところだろうか。きちんとしたお礼は明日改めて言うとして、とりあえず。私はタオルを押し上げて爆豪を見上げ、言った。

「爆豪、ありがとう」
「全快してから言えや」
「あと、迷惑かけてごめんね。戻ったら、みんなにも伝えといてほしいな」
「もう言ってある」
「もう……? それは、ありがとう……」

 そう言えば、彼は仕事が早いのだった。何につけても。
 爆豪はやれやれ、と辟易したような顔を頬杖に乗せて、あぐらをかいた。なんとなくここに居付くような雰囲気に違和感を感じて、

「……向こう行かないの?」

と聞けば、「ア!?」と異論を示される。

「邪魔だっつーんか、アァ!? せっかく俺が――」
「ちがうちがう、みんな今ごはん食べてるだろうし、爆豪もまだ食べてないのかと思って!」
「……それなら、あとで持って来いっつってある。オメーの分も。オメーはメシ食えんのかよ」
「たぶん」
「……食えるだけでいーから食え。それまで寝とけ」

 一転、穏やかな声でそう言われるので、拍子抜けしてしまった。
 呆気に取られているあいだに、爆豪の大きな手のひらが、すこし擡げていた私の頭をそっと畳に押し戻した。ずり落ちかけたタオルをもう一度額のうえに置き直す、その動作がいやに繊細で、いつも粗暴ですぐ怒る爆豪とは別人みたいに見える。

「爆豪……?」
「ン」

 思わず確かめるようにその名前を呼ぶと、彼の喉ぼとけはすこし上下した。

「……なんでもない」
「……寝ろっつっとんだろうが」

 今まで、理不尽に怒鳴ってくる声と同じとは思えないぐらいに、その声は耳に心地よく馴染んでゆく。もはや子どもをあやすような柔らかさもはらんでいるようなその声に、私は素直に「うん」と頷いた。一度だけ、爆豪の視線がちらりと降りて来た気配がする。
 ほんのり火照る頬は、きっとまだ残る暑さのせいだろう。夕暮れどきの風に冷ましてもらおうと、そっと爆豪とは反対の、庭のほうへ顔を倒した。



 お盆のうえに置いた、カレーと七味。粥とお塩。
 爆豪くんに指示されたメニューが冷めないように早歩きで、部屋を覗いていく。

「なまえちゃん、体調悪いって聞いたけど、お粥で合ってるかな〜。爆豪くん、『病人でも食えるメシ』としか説明してくれんかったし……」

 訓練のあと「水を飲んでくる」と笑顔で言ったなまえちゃんが本当は無理をしていたことに気付けなかった自分を情けなく思うと同時に、そういうことにもずば抜けて目ざとい爆豪くんには感心した。
 民宿に着くやいなや、ふらりと消えたなまえちゃんの行方を私に聞いてきたかと思えば、すぐにブーツを脱いでずかずかと部屋の奥に消えて行った爆豪くんは、もしかすると訓練の最中から、あの子の様子がおかしいことに気付いていたのかもしれない。

「爆豪く〜ん、おる……?」

 もしかするとなまえちゃんは眠っているかもしれないと、潜めた声でそう呼びかけながら裏庭の正面の一室を覗けば、ふわりと心地の良い風が顔に吹き付けた。
 縁側の傍に横たわる人影がふたつ。そっと足音を立てないように歩み寄ると、規則正しいふたつの呼吸が、夕暮れの風に混じって聞こえた。

「ふふ、かわい〜! 二人とも寝ちゃってる」

 見る機会はそう多くない、クラスメイトの寝顔。思わずにやつく口角を抑えながら、ゆっくりとお盆を木目のテーブルに置いたところで、ゆらりと黒いTシャツが体を起こした。

「あ、爆豪くん。起きた? 一応ゴハン持ってきた。……なまえちゃん、まだ寝とるみたいやけど、体調、大丈夫そうやった?」
「……たぶんな。食ったら治ンだろ」
「そっか。ならよかった。爆豪くんが気付いてくれて助かった。私、ぜんぜん気付かんかったから」
「……別に、たまたまだ」

 寝ぐせのついた髪をくしゃりと直しながら爆豪くんはやおら立ち上がる。そして、そばにあったパーカーを宙に翻してから、あの子のうえに掛けた。
 その動作は、少女漫画に出てくる不器用なヒーローが意外と優しいシーンを彷彿とさせて、にわかにくすぐったさが胸を占める。

「っ! ば、バクゴーくん……!」
「ア? ンだよ丸顔」
「意外と優しいんやね! 今見ててキュンキュンしちゃったよ!」
「ア゛!?」

 沈みかけた太陽の下でも、爆豪くんが照れているのがわかって、堪えていた笑いが漏れてしまう。お前なア、と地獄から響くような声がして、怒られると確信。すぐさま逃げようとしたところで、今度は裏庭のほうから「爆豪〜」といういくつかの声が飛び込んできた。

「ア? お前ら何やっとんだ」
「何って、花火だろ? みょうじ、体調悪くなっちゃったって聞いたから、元気づけようと思ってさ〜!」

 裏庭で、色とりどりの花火を手にした上鳴くんたちがこちらに手を振っていた。
 その残像は、もうすっかりシーズンを終えてしまった蛍みたいで綺麗だ。爆豪くんにはその感性はなかったらしく、どすどすと窓際まで歩んでいっては、ガラス戸をぴしゃりと閉めてしまう。

「ウルセエ! みょうじ、起きンだろうが!」

 隔絶された向こう側では、すこしくぐもった声で笑い声が起こった。

「おーコエーコエー、みょうじのナイトかよ!」
「俺らは黙ってムード作りに徹するか!」

 いまだ茶化され続けることに爆豪くんが怒りを爆発させようとしたころ、横たわったなまえちゃんの体が身じろいだ。んん、と小さな母音が漏れたあとに、「……爆豪?」と弱弱しく呟かれた声は、本人の耳にもしっかりと届いたようで、爆豪くんはその体をぴたりと静止する。

「爆豪くん、あとはよろしく頼むね!」

 小さな声でそのセリフだけを部屋に残して、私はふすまをそっと閉める。
 みんなのところへ戻る足取りが、今にも弾みそうだ。なんだか甘いような、くすぐったいような予感が満ちている。
 今日の夜、もしなまえちゃんが元気になったら。布団に潜ったそのあとで、顔を寄せ合って、「爆豪くんとどーなん?」なんて、どきどきしながら尋ねてみたい。
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