「まあ、主のことだ。心配せずとも、そのうち帰って来るだろう」

 三日月の一声は、本丸の空気をがらりと変えた。
 今朝、俺たちの主であるあの子が忽然と姿を消した。混乱し、騒ぎ立っていた刀たちは、三日月の一言で完全に口を噤む。
 この本丸において三日月の影響力がそれほど甚大なものであるということを差し置いて、奴が彼女と恋仲であるという、誰一人として触れないものの周知されていた事実が、重く食卓に圧し掛かっていた。

「三日月の言う通りだ。腹が減ったら帰って来るさ。きっと俺たちのこと驚かせようとしてるんだぜ。こちらから探し回ってやるのも、あんまり無粋だろう」

 いまだ、いまいち纏まりのない空気を醸し出す短刀たちに向かって、俺も言い助く。
 三日月と目が合えば、やれ弱った、という感じに頬笑みを送られた。
 ――が、おいおい。そんなに余裕ぶっていて、お前は本当に大丈夫なのか。



「おい三日月。皆にはああ言ったが、大変なことになった。どうするつもりだ」
「おお、鶴丸か。まあ座れ」

 普段通りの三日月の背中を縁側に見つけて足早に寄ったというのに、その緩慢な返答が俺とはちぐはぐで、すっ転びそうになる。

「まあ座れ、じゃないだろう。君、あの子から何も聞いていないのか」
「はて、俺は何も知らんな」
「……本当か? 君はあの子と特別、親しいんだろう」

 今まで、気付いてはいながらも触れることはなかったその核心を突っつけば、三日月は瞳を真ん丸くした。白々しいようにも、真に驚嘆しているようにも見えるから、この男は厄介だ。

「何と、お前には知れておったか。しかし主からすれば、戯れのようなものであろう……内密にとのことだったのだが」
「……どこまで本気で言っているのか知らんがな、大体の奴は気配で勘付いているだろ」
「そんなものか」
「それに、俺には戯れには見えなかったがな。あの子はそういうお人じゃないし、何より、あの子の人となりに関しては、俺なんかよりもお前が一番知っているだろうしな」

 ちらと一瞥した三日月には、翳りが見えた。口元に携えられている微笑みも虚しく、物寂しく、その睫毛は上下する。

「何も、俺は知らんのだ。しかし、主がそれを選んだのであれば、それに従うのが良いのだと思う。ただ、何かの折に主がもしここに帰ったなら、この懐に閉じ込めてやりたいものだな」

 三日月の声色は、穏やかすぎた。庭先の桜の花弁が散る、その速さよりも。
 手の中の湯呑に花弁が一片浮かんだのにも気付かずに、「いささか照れ臭いな」と俺にはにかみ笑いなど見せる。思わず溜息すら吐けた。計り知れないほど深い、まるで大海のような男だ。



 本丸内で暮らすことだけは、彼女が帰って来なくとも申し分なく進んだ。内番や厨当番さえ決めてしまえば、生活だけは嫌でも回る。
 しかし、出陣もせず、ただ暮らすだけの日々に、一定数の刀が違和感を覚え始めていた。

「かえってきませんね。あるじさま、まいごになってはいないでしょうか」
「ふむ、そうだな。道草をしているのやも知れんな。帰ってきたら、たっぷり遊んでもらうと良いぞ、今剣」
「たくさん……そうですね! ああ、あるじさま。はやくかえってきてほしいです」

 誰と言葉を交す三日月を見ていても、瞳に翳りなどは微塵も滲ませていなかった。
 そのせいか、誰一人として彼女に「捨てられた」だとか「逃げられた」なんて言い出すことはなく、俺自身もそうであった。
 何より、彼女にこれまで築き上げてきた信頼がそうさせるのだ。となると、より彼女が姿を消した理由が見えなくなる。
 彼女に何があったのか考えれば俺ですら気が気じゃあないのに、三日月は至って平静だ。きっと彼奴はその懐に、化け物のように大らかな大海原を飼っているに違いない。

「……なんて思っていたが、どうやら」

 真夜中、厠に起きてみれば、庭先の桜の下に人影が見える。雅さを欠かない程度に乱れ舞う花弁を、三日月はその袖で掬うように身動ぎしていた。そのまま、ずっと遠くの月光に吸い込まれるように、奴は門へと足を進めるのだった。
 きっと、あの子のことを待っているんだろう。
 薄桃の花弁に不釣り合いな寒さをも狩衣の袖に隠して、奴は一人で、毎夜、彼女を待ち続けた。

「……なあ君。早く、帰って来てやれよ。見てるこっちが桜よりも先に枯れちまいそうだ」

 俺の呟きも虚しく、主のいないこの本丸の桜は、もうほとんど木の幹を露わにしてしまった。日の高いうちは普段通り、縁側に佇む三日月の背中。心なしか丸い。

「三日月」
「何だ、鶴丸?」
「お前、ちゃんと休んでいるんだろうな」

 ぱちくりと瞬く瞳には、何も語る気がないようだった。

「心配に及ばん、毎晩ぐっすりだぞ。健やかに暮らしていなければ、戻って来た主を盛大に迎え入れられんからな」
「……そうか」
「早く、あの温かい笑顔が見たいものだ」
「ああ。皆、あの子を待ってる」

 深く頷く三日月は、柔らかに横髪を揺らした。三日月とあの子の二人のことを、ああ羨ましい、と思う。俺の知らない甘やかな幸福が、二人をくるんでいた。
 大海のような深さでもって、三日月は彼女を愛し続けているのだろう。そこには、何者が入る余白も存在していないように、俺には見えた。
 しばらくの後。三日月が、はたと、指先から視線の動きを停止するのと、「主!」という誰かの声が飛び込んでくるのは、ほぼ同時だった。



 庭先に「落ちていた」と言うが正しいか。
 彼女はすっかり身軽な格好で、薄桃の花弁を失った木の下に横たわっていた。寝間着のままのその身には傷などはなく、やがて開いた瞼も瑞々しい。
 駆け寄った俺たちを認めた刀たちは、至極当然かのように道を開ける。

「主、無事か」

 明瞭な言葉を、最初に彼女の耳に届けたのは三日月だ。彼はそのまま彼女の隣に屈むと、滑らかな背中にその手を添えた。視線を絡ませる二人の間には、俺たちとは異なる時間が流れた。
 彼女の瞳は揺れもせず、二、三度、瞬く。

「……どうして、私はここに」

 三日月の髪飾りが、ひらりと彼の動揺を知らせた。

「分からぬか」
「……どうして、桜が散ってしまっているの」

 困惑そのものを全身に映す彼女に、固唾を飲んで見守っていた者たちは低く騒めき出す。一月ぶりほどに姿を見る彼女から、そんな言葉を聞けば無理もないだろう。
 誰よりも三日月が動揺したって道理であるだろうに、三日月は彼女の額を、そっと一つ、撫でてやるだけだった。

「なに、主。少し眠り過ぎていたのではないか。あるいは、狐に化かされでもしたか」

 ゆったりと波打つような三日月の発音。急かされることなく、彼女は散り果てた桜の木と、見守る自分の刀たちの表情、それに愛する男の瞳を見て、何かを悟ったらしい。その唇に、解きがたい苦悩を露わにした。
 今にも泣き崩れそうな彼女の肩を支えるのは、奴の役目だ。

「主よ、俺たちはこの通り、元気に待っていた。無事に戻って来てくれたのなら、それで構わん。主が俺たちを捨てたなどではないこと、皆も重々に知っている。一つ確認だが、主は俺たちを愛してくれているな」

 彼女の肯定に、皆は頷く。一度全員を見渡して彼女は、今度はその唇に小さく感謝の言葉を灯した。未だ混乱しているらしい彼女を抱きかかえた三日月は、紐を解くように、恋人に微笑みかける。

「……疲れているだろう。何々を詳らかにするのは後にして、少し部屋で休むといいぞ。誰か、主に床を整えてはくれないか」

 まるで、大海のようだと思った。彼女を抱きながら、風に靡く狩衣の袖の色。何よりも、あの子を抱く腕が、その瞳が。消えた愛し子をかくまで穏やかに待ち続け、そして帰り来た愛し子をかくまで柔らかに抱くことが、一体、奴以外の誰に出来るのだ。



「三日月。主の具合は」

 主の部屋から戻った三日月の背中に問えば、依然として緩慢に、俺を振り向く。

「ああ、傷一つない。姿を消していた間の記憶もないがな」
「こりゃまた、随分と……本当に、狐に化かされたんじゃないか。けど、まずはあの子が無事で何よりだ。何かあったらと、気が気じゃあなかったぜ。君は、何だってそんなに冷静なんだ。懐が深くて吃驚だ」
「ふむ。本当に、そうであれば良いが」

 含みのある物言いのせいで、その視線を辿りたくなる。緩く弧を描く唇からは想像もつかぬほど、荒れた蒼い双眸がそこにあった。思わず、ぎょっとする。

「三日月?」
「主の様子を見るに、狐のような可愛いのの仕業である筈がない。どこぞの神の神隠しに遭ったか知らんが、そうやすやすと我が主を許せる話ではないだろう。こちらが付喪神だからと、舐めて貰っては困るな」

 なあ、鶴丸よ。そう俺に同調を請う三日月の口元に宿るのは、殺意か、独占欲か。いや、その両方ともが切っては切れぬ感情なのだと、それらをよく知らないなりに納得をした。こいつが冷静だなんて、誰がよく言ったものだと苦笑する。大海原はごうごうと渦を巻きながら、そこに佇んでいた。きっと、あの子以外には何人も生かさずに飲み込んでしまうのだ。そんな危うさが、あった。
 ああ、君、愛されているんだな。
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