※現パロ

 彼の私への視線を一言で表すのなら「軽蔑」、それに尽きた。それ以外の何も混じらない、純粋な蔑みが私には常に送られていた。私は別段、彼に不利益を与えることなどしていない。ただ思い当たることがあるとすれば、彼に一度、キスシーンを見られたことであろうか。



 グラスのぶつかる音、フォークが白い滑らかな皿を引っ掻く音、すべて心地のいいものではない中で、彼の穏やかな声だけ浮いて聴こえた。
 空気に溶けるような笑い声は、彼がいくら屈託のない笑みを作っていようとも、どこか悲しく、私には聴こえたのだった。
 ふと本当に何気ない瞬間に、視線が絡む。淡いブルーの色彩の髪が、彼の擡げる顔に合わせて靡いている。

「あなたは、何か飲まれますか」

 ゆっくりと開いた彼の唇は、その傍らにあるワインで少し湿っている。空きかけの自分のグラスは見ないふりして、ゆっくり首を横に振ると、「そうですか」と柔らかに返される。まるで緩衝材みたいな受け答えをする人だと思った。

「彼と、仲良いの?」

 右隣の友人が訊ねてくるのに、私はううんと否定する。

「今、初めて話したよ」

 友人の期待には答えられなかったらしい。恍惚とした表情で、彼の存在は高尚なものなのだと教えてくれた。その崇高さから、恋愛対象には入り得ない。けれど、誰もが彼に近づきたいという欲を持っていた。それくらいは私にも分かったのだが。
 ただ、あの日から私に向けられる彼からの、穏やかなのに痛烈な視線が、忘れることはできないのだ。

「そう言えば、なまえは例の人とどうなの?」
「例の人って?」
「彼氏だよ。結構長いよね?」

 ああ、と吐き出した母音が曇る。先週、自暴自棄になって買った高価な、くすんだゴールドの腕時計を爪先で弄ぶ。何も誤魔化せやしなかった。私を取り巻く笑い声や話し声が、どこか遠くなる。

「別れたよ」



 きらきらとしていた気がする。当たり前になっていたから分からなかったのだ、大切にしている人がいる日々の尊さというものが。
 ヒールの踵が落ちる音すら、どこか惨めに聞こえて、溜息を吐きながら私は一番後ろの席にバッグを置いた。10分程前に買ったミルクティーは、まだ温かい。
 手のひらで包むようにそれを転がしていると、ふいに隣の椅子が引かれた。白く大きな、平たい手には見覚えがなく、思わずその人物を認めようと顔を上げるのだが、そこには彼がいた。

「なまえさん。おはようございます、隣、よろしいですか」
「え……あ、はい」

 反射的にどうぞと、隣の席に掛けていた上着を除ける。淡い空色は近くで見ると、ますます溶けそうに美しかった。

「失礼します」

 恭しく私に頭を下げながら腰掛ける彼の微笑みが甘美すぎて、私は言葉を失った。蕩けるような瞳に、これまでの苛烈な軽蔑が、一滴も含まれていなかった。
 机にノートを広げる彼の手と私のそれが、触れ合いそうなくらい近い。少し落ち着いて周囲に気を配ると、空席はまずまずに目立っていて。
 彼がわざわざここに座った意味がますます不明瞭になる。狼狽する私を気にも留めず、彼はその莞爾を、くるりとこちらに向ける。

「昨晩の集まりは、あなたもいらっしゃいましたね。楽しめましたか」
「はい、それなりに……ええと、あなたは」
「ああ、遠慮なさらず。一期とでもお呼びください。私も、楽しめましたよ」
「そうですか」

 本当にそれしか口にする言葉が見つからなかった。そこで終わり、とでも伝えるかのように、私は顔を下げて熱心にノートの確認をする振りに徹することに決めた。
 垂れる横髪の隙間から、彼がまだ、私を見守るように見つめている気配が感じ取れる。

「……なんですか」
「いえ。今度、ご一緒にお食事でもいかがですか」

 からん、と机の上にボールペンが落下する。全身の力が抜けた。つまるところ、私はあまりの事態に困惑していた。



 ――あなたは、私を嫌ってはいませんでしたか?
 そう聞くことができれば、こんなに狼狽える必要なんてなく、彼との接し方を決定づけられるというのに。
 嫌われているのが誤解だったならば、どうやら歩み寄ってくれているらしい彼と素直に親しくなろうと努力するし、本当であるならば、どうしてこんなに暖かい眼差しに衣替えしたのか、その理由を加えて聞かせてほしい。

「嫌いなものはおありですか」
「本当に食べられないものはないです。ざっくり言うと、野菜よりは肉気のあるほうが好きでしょうか……」
「なるほど。少女のようで、愛らしい答えですね」

 口元を手の甲で抑えて笑うのが彼の癖らしいが、そんなことを発見するくらいには彼と言葉を交わしてしまった。特に会話を断る理由もないのだが、別人のような態度は、いくらなんでも不審に思わざるを得ない。

「私の主観で申し訳ないのですが、美味しいお店を知っています。今夜、お連れしますね」
「今夜……?」
「すみません。ご予定も聞かずに」
「あ、いや別に」
「なければ、是非ご一緒させてください」

 あまりの驚きで、たぶん私の表情はひどいものなのだが、彼が気にする素振りを一切見せないというのは、そういうことなんだろう。



 半年程前、私はまだ夏の匂いのする街を、恋人と歩いていた。
 ふんわりとした生地のワンピースに身を包めばすっかり女らしくなった気になって、足取りも軽やかだ。絡ませた腕をきゅっと引きながら、ちかちか眩しい街灯やイルミネーションにおぼろげに照らされた睫毛を瞬かせる。
 いつも歩く街も、幾分輝いていた。路地に入って、遠くから人の話し声や靴音が聴こえたとき、私は彼と、なんとなくキスを交わした。
 夜道に降るそれは甘かったのに、浸る暇なく私は誰かからの視線に気付く。

「あ」

 彼のことは、同じ学部の人だ、ということしか知らなかった。けれどその美しい髪は彼だけのもので、すぐに分かった。
 はしたないところを見られてしまったのは確かなのに、その冷たい視線だけ私に張り付き、消えなかった。こつ、こつ、という重量を含んだ彼の靴音が響いていた。
 それからというもの、彼の私を見る瞳には、必ず軽蔑の色が宿るようになったのだ。



「はは、あなたはお好きなものを残される性分ですか」
「そうですね。割と」
「うかうかしていては、取られてしまいますよ。食事は戦いです」
「戦いですか。ご兄弟でもいらっしゃるんですか」
「はい。多くおりまして、自然と、譲りたがりの性分になってしまいましたな」

 自然と交わされる会話に驚いては、再び流されてしまう。彼の緩衝材のような受け答えは、違和感すらも吸って、隠してしまう。楽しそうに笑う彼を見ていたら、なんだかこの状況は楽しいものだと錯覚さえしてくる。

「これ、お好きでしたら、食べてください」

 デザートに付いていた小さなカップを、彼は私の前に差し出す。滑らかそうな白いババロアの上に、花束のような林檎のジュレがふるふると揺れていた。

「譲りたがりの性分ゆえ」
「いただき、ます」

 本当は大好きな類のデザートで、だけどそんなことはあらわにしていないはずなのに、彼の満足そうな微笑みを見ると、何もかも既に見透かされているような気分になる。

「……本当に、愛らしい人ですね」

 躊躇のない彼の言葉に、私はスプーンを動かす手を止める。
 穏やかな笑みは彼が兄であることを想起させた。
 私が知っていた彼と、この彼は、もしかすると別人なのかもしれない。有り得ない事象を思い起こさせる程、彼の瞳は温かい。

「少しでも楽しんでいただけたのなら、良いのですが。もし宜しければ、またご一緒させて貰えますか」

 帰り道、タクシー乗り場まで見送られながら、彼は柔らかに言った。半分以上を社交辞令として受け止めて、私は頷く。安心したように上気する頬には、さすがに見ない振りをした。
 何がなんだか、分からない。



「おはようございます、なまえさん」
「ああ、おはようございます」

 何食わぬ顔で、彼は私の隣へ座るようになってしまった。
 どこへ座っていても、私を見つけてはその傍へ腰掛け、毎週金曜日の最後の講義が同じと知ると、食事にも誘ってくるようになった。
 余りにも自然で、どこか有無を言わせない彼の物言いに私は上手く流されていて、と言っても、気が乗り切らない理由はかつての彼の態度のみなのだ。
 あれがもし私の勝手な思い込みであったならば、親しく付き合おうとしてくれている彼の善意をも無下にしてしまうことになる。

「どうかしましたか。悩み事でも」

 彼の視線は私の手の中のボールペンに向いていた。ぼうっとしていると無意味にかちかちとノックをしてしまう悪癖がある。うるさかっただろうか、と謝ると、とんでもないと微笑み返された。はあ、と溜息を吐くと、少し、何かが吹っ切れた気になる。

「……あなたはここに座っていて、いいのかなと思って」
「私が、ですか」

 彼はぱち、とその長い睫毛を伏して、また持ち上げた。額を隠す前髪を少し揺らして、不思議そうな表情を作る。その空色には、ずっと見覚えがあった。

「いや、私って不真面目だし、いつも後ろに座っているし、勉強を教えたりなんかもできないのに。それに、あなたはよく、別のところに……もっと前の方に、いつも座っていたと思ったので」

 遠まわしに、ここにいる理由を問いたかったのに、ちら、と見やった彼は、瞳の奥に恍惚を揺蕩わせていた。
 息を呑むように私から目を離さない彼に、こっちが狼狽してしまう。

「あの……何ですか」
「嬉しいのです」
「え?」
「以前から私のことを、ご存知だったんですね。てっきり、名前も顔も、覚えて下さっていないのだろうと……先月の集まりで、意を決して声を掛けてみたのですが。やはりこのように話し掛けたのはご迷惑でしたか」

 あなたは、何か飲まれますか。ワイングラスを傍らに、そう尋ねてきた彼の姿が思い起こされる。あの時には確かに、私へ向けられる視線に嫌悪はなかったように思う。

「けっして迷惑なんかじゃ……」
「……そうですか。安心しました」

 ゆらゆらと、止まることのない彼の瞳に、静かな昂ぶりが見て取れた。本当なのかと、信じそうになる。彼は本当に、私に好意を持って接してくれているのかもしれない、と。
教室のざわめきが消え入って、講義が始まったことに気付く。
 言葉を交わさず、ただ隣にいるだけなのに、いやに彼の存在を気にしてしまった。微かな息遣い、小さすぎて私にしか聞こえない咳払い、シャープペンの背をノックする親指の力み。この人が隣にいることは、あり得ないものだったのに、あっという間に自然に成されている。
 余計なことばかり考える私の耳は先生の声を聞き落として、目を落とすべきプリントを見失った。あたふたと一枚づつ捲る私の手の上から、隣の彼の大きな手が被さってきて、正解の一枚を引き抜く。

「ど、どうも……」
「どなたかのことを考えているのですか。いけませんな」

 掠れたまま紡がれる声。困ったように下がる眉。ふ、と漏らされる笑い混じりの吐息に、もう、乱されそうだ。



 気付けばきらきらとしてきた気がする。
 日々に、胸をはためかせる機会が多くなった。何故かと聞かれれば、理由が一つしか思い当たらないあたり、憎いと思う。

「寝不足、ですか」
「分かりますか」
「ええ、目が開いていませんから」

 そんなことはない、と言い返そうとすると同時に、彼はその顔をゆったり近付けて、鼻の頭が触れそうなところで停止する。蜜を垂らしたような瞳に影が落ちているのが、これでもかとよく見えた。
 思わず目を瞑ってしまった私に、はは、と軽い笑い声が漏らされた。

「余計、目が閉まってしまいました」
「あなたがいきなり、そういうことをするから……」
「申し訳ない」

 可笑しそうに私を笑っているはずなのに、不思議と不快感はなく、それでも不満そうな顔を作ってそっぽを向く。

「あ、怒らせてしまいましたか。気を悪くせんでください。今にも眠りそうなあなたが愛らしいので、つい」
「はあ、怒っていませんよ。怒っていましたけど、もう許しました」
「大らかなお人で、良かった」

 ははと私も笑い返して、時計を見る。まだ少し、講義が始まるまでには余裕があった。ごそごそとバッグから取り出した携帯に、不在着信が残っているのに気付く。着信元の名前を見るのは数ヶ月ぶりで、私はにわかに手汗をかいた。
 今更、何の用事があって掛けてきたと言うのだろうか。貸していたものを返せとか、もしくは、やり直そう、とか、もう顔が曖昧にしか思い出せないのは、たぶん人間の自衛本能からだろう。
 なぜなら、恋人に振られたのは私のほうだからだ。

「どうしましたか」

 画面を見て固まってしまっていたのか、隣の彼は不思議そうに私の顔を覗き込む。視線が携帯の画面に、不可抗力と言える自然さで落ちたのには気が付いた。その名前を見たのだろうか。みるみると彼の表情はくすんでいく。あ、と声を漏らした。
 彼の瞳には、軽蔑が宿っていた。懐かしい、なんて呑気に思ってしまう。

「何でもないです」

 そう言うと、彼は一瞬目を揺らめかせる。

「そうですか」

 机に向き直った彼と私の間に、見えない壁ができてしまったような感覚。もう近付けない気がして、同じに彼も、もう近付いてはくれないと、なんとなく分かった。
 肩の厚さ、柔らかそうな襟足、シャープペンをなぞる爪先、当たり前になりつつあったものが、途端に惜しくなる。結局のところ、彼との時間は楽しかった。
 戻ってしまった。彼が以前の彼に。蔑んだ目には確かに嫌悪が見えていて、隠されはしていなかった。私が彼に何をしたのだろう。もし謝れば、彼はこのまま親しくしてくれるのだろうか。短いような、長いような講義の終わりのチャイム音が鳴ると、ペンをケースにしまう彼の腕を、ほぼ無意識に捕らえていた。

「……なまえさん?」
「ええと……」

 驚いたように丸くなっている彼の瞳に、さっきのくすみはなくて、安堵する。そのまま停止する私と彼に、ざわめきを連れた生徒たちは目睹しながら、去っていった。

「あの、私」

 何かを言おうとした私を、彼が察したのがその表情の変化で分かる。私に捕らえられた手首をゆったりと返し、代わりに私の手首が、いつの間にか彼に捕われる。ぴりりとした空気が背中を走り、だけど、手首を包む力は穏やかで、優しい。
 強かな彼の決意が、容赦なく全てを通して私に伝ってきた。

「あなたに、あの男のところへ、戻ってほしくありません」

 あまりに真剣な声色に、きゅう、と首を締められるような心地がする。はあと息を吐く音に、自虐っぽさが見え隠れする。

「……ずっと、あなたのこと、遠巻きに打ち眺めていました。困らせまいと、あなたには関わらないようにしていました。恋人がいらっしゃるのは、知っていましたから。情けないとお思いになるかもしれませんが、並大抵の努力では、あなたを忘れられませんでした」
「……あなたは、私を嫌いなのかと思っていました」
「ええ、誤解です」

 一音一音、はっきりと紡がれる声は、心に染み込むように入っていった。恋人がいたから困らせまいとあの色を視線に携えていたのだとしたら。「別れたよ」と、友人に語ったあの飲み会を思い出して、腑に落ちる。彼の持つ色が変わった境だった。
 彼の言っていることが本当なのだとしたら。態度の豹変は彼のその、誠意の現れと取るのが適当か。

「並大抵の努力とは、それですか」
「……そう思わせるようなことをしたつもりはなかったのですが。悲しませたり、怖がらせていたのでしたら、何と言っていいか」

 こつ、こつと重量を孕んだ靴音。凍てついた軽蔑の目。あの時も彼は、そう思って私たちを見ていたのだろうか。ずっと、彼を誤解していたというのなら、私はもっとちゃんと彼に向き合い直したいと思った。
 はらはらと髪を揺らしながら彼は唇を噛んでいた。親指の力み。それを見るだけで、何よりも安心できた。

「嫌われていなかったなら、良かったです」
「はい、むしろ」
「私、あなたともう一度、やり直したいです。もっと素直にいろいろなことを話せたと思うんです」

 彼が息を呑む音が聞こえる。もう誰もかも出て行ってしまった教室の中では、それが鮮明に鼓膜に焼き付いた。さんざめく蜜色の奥で、淡い期待が息づいている。

「一期さん、友達になってくれますか」
「……友達ですか。もちろんです」

 ゆるく弧を描く唇が、どことなく蠱惑的で、どきりとする。かつて私を見つめていた彼の視線に込められた、軽蔑に似せた、何かの熱量。それに仄かに勘付いていながらも、私は彼の核心的な言葉を遮った。掴まれていた手首からなぞるように移動してきた指に、私のそれが絡め取られて、今度は私が息を呑んだ。

「私を友達に、と仰ったこと、後悔なさいませんように」

 もう遅い。意地悪に笑う彼を見て、私はつい先刻の自分を、もう後悔していた。
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