化粧水とかボディクリームとか、あげくの果てには予備のヘアアイロンまで、男の子には無縁なものを綴くんの家に増やしたのは他の誰でもない私だった。
 殺風景かと思いきや、綴くんの部屋のふとしたところに色濃く残る生活感。
 たまに片鱗を見せる綴くんのがさつさは、私の化粧水やボディクリームを、まだ置きっぱなしにしてはいないだろうか。
 せっかくスーツをかっこよく着こなしているのに、踵をとんと大理石の床にぶつけて、むりやり革靴に足を押し込む。変わっていない綴くんを見て、ふとそんなことを考えた。
 結婚式場の教会の、冷たくてかたい椅子の上には、蔦を編んでかたどられた小さな籠があって、そこには溢れんばかりの花びらが詰まっていた。桃、白、黄色。宙に散らせばたしかにさぞ綺麗なのだろうと、私はそこに指を埋める。じゅわりと滲むような瑞々しさに、その花びらがホンモノだったことを知る。
 指をそっと引き抜いたところで、新郎側に座る女の子が「このお花ホンモノだ」とはしゃいでいるのが聞こえて、思わず周りを見回した。大げさにカールした横髪を振り乱すほどの勢いで振り返ったところに、彼がいた。

「……うわ、びっくりしたじゃないっすか。急に振り向くから」
「綴くん」

 立ち止まっていた綴くんが再び時間を取り戻して、私の隣に腰を落とす。

「久しぶりっすね」

 少しだけのためらいを、綴くんは隠したがっているようには見えなかった。控え室にいたときに、言葉は交わさないまでも何度か視線は合わせたのに、いざ至近距離でこの顔を見ると、心臓を掌握されたように呼吸がしづらくなる。
 どっかりと深く椅子に腰かけるところ、気を抜くと脚をがばっと開いて座るところ。半年ぶりに隣に来た綴くんの変わっていないところを馬鹿みたいに必死に探しては、心を撫で付ける。

「……久しぶり、綴くん。元気だった?」
「この通りっすよ。なまえさんも、元気そうでよかった。もっとみんな来てると思ったんすけど、仲間内だと俺らだけなんすね」
「人数の調整とか、いろいろあるんじゃないかな」
「ええと……先輩と旦那さん、俺らが別れたって、知ってるんすかね。俺、結婚する人に向かってこんな報告するのはどうなんだと思って、言ってないんすけど」

 ひそめた綴くんの声に、表情筋が固まる。
 綴くんは綴くんで、冗談めかしたかったようだけれど、その口元はぎこちなく歪んでいた。――困るくらいなら、言わなきゃいいのに。ちょっと笑ってしまった私が何かを言う前に、前列の友人から純白のすべすべの冊子が配られる。左隣の綴くんと同時に、それを開いた。やけに、ゆっくりと。

「――でも、変わってなくて安心したんすよね。フラワーシャワーの花びらで遊んじゃうところとか……俺さっき、思わず見入っちゃって。ああなまえさん、俺と離れたあとも変わってないんだなって」

 綴くんの横顔がぼやける。かぶさるように、オルガンの音と賛美歌を口ずさむ声々が鼓膜をやわらかに満たしていった。

「結婚とか、大学出て数年ぽっちの頼んない俺なんかには到底言い出せっこないことっすけど、なまえさんとは、ずっと一緒にいるんだろうなとか思ったりして……。ていうか、未来のことを想像したら当たり前みたくなまえさんが組み込まれてて。……あ、いやとか、言わないでくださいね、傷付くんで」

 綴くんが言った、いつかの昔の言葉もぼやける。脳内で、反響して、賛美歌と混ざり合う。何が現実か、何が過去か分からなくなりそうで、瞬きを何度もした。
 チャペルの下に佇む、大学時代の同級生だった女の子。純白のベールに包まれて、ふっくらと微笑んでいた。この友人が幸せになってくれてよかったと、心底思う。自然と緩む口角。
 ただひとつ、知らなければよかったと思う。隣で、賛美歌をあいまいに口ずさむ男の子のことを。知らないまま生きて、今日を迎えたかった。
 彼女が身に纏う純白のベールが、翼に見えた。
 私を遠くに、空を近くに。あの頃からずっと、綴くんはいつか遠くに飛んで行ってしまうような気がしていた。私がどうやったって繋ぎ留めておけないほどの、大きな翼を持っているように見えた。
 別れを告げたときの綴くんの姿と、花嫁のあの子が重なって見える。



「なまえ、皆木! 来てくれてありがと〜。ねえ、あたしたちとあんたたちの4人で写真撮ってもらおうよ。あんたたち、相変わらず仲良さそうでよかったー。あたしの次はなまえと皆木だったりして。ねえ、皆木? ふふ。とりあえず、ブーケトスはなまえのところに行くように祈りながら投げるからね!」

 新婦の彼女は無邪気に笑って、私たちの肩を抱いた。無知とは時に、爆弾となる。彼女も綴くんも私も、きっと誰も悪くはないのだ。どちらからともなく視線を絡めた私と綴くんとの間に、同じ色の空気が流れた気がした。
 あちこちに手を振りながら階段を下りてゆく新郎新婦の背中に拍手を送りながら、綴くんは言った。

「――今日だけは、恋人に戻りませんか。俺ら」

 穏やかで、優しい、私がいっとう好きな声だった。

「……そうだね。今日は幸せな2人を祝おう。ほんとうのことは、またゆっくり私から話すから」
「っす。分かりました。……ブーケ、しっかり取ってくださいよ。なまえさん、そういうのどんくさいからちょっと心配っす」

 綴くんは私を小突いてからかった。けれど、私は泣きそうになる。

「俺にはできなかったっすけど、なまえさんには幸せになってほしいっすから」

 だって私以上に、綴くんはひどく悲しそうな瞳をしていた。



 二次会には、懐かしい面持ちがたくさん連なっていた。
 披露宴でも二次会でも綴くんの隣にいて、会う人々も、そんな私たちを当たり前のこととして扱った。そのせいで、今でも綴くんの隣にいるのがほんとうに当たり前なのだと錯覚しそうになる。
 どこへ行っても皆木、皆木と名前を連呼される綴くんが「いい加減しつこいっすよ」と笑いながら溜息を漏らすたび、棘が増えてゆく。罪悪感でも劣等感でもあるような、じめじめした気持ちが私を覆ってゆく。
 それを晴らすように私の名前を呼ぶのも、綴くんだった。

「なまえさん、大丈夫っすか?」
「まだそんなに飲んでないよ。それ聞くの何回目?」
「うーん、すいません、つい。過保護っすよね」

 苦い笑みを浮かべながらはにかむ綴くんの表情を、「懐かしい」と思ってしまう。年下らしくてかわいいと思っていたそれを、綴くんは気に入らないらしかった。
 今思えば、普段は口や態度に出さないけれど、私より年下であることを彼はわりに気にしていたように思う。
 数年間一緒にいても抜けきらないくだけた敬語で、生意気なこともたまに言った。そのあとすぐに「自己嫌悪」だとか言って、拗ねることもあった。
 いつの間にか、スーツに着られずに着こなすようになったその広い背中を眺めて、やっぱり翼が見えるような気がして。

「綴ー、去年、お前が脚本書いた劇、観に行ったんだけどさ」

 どこからともなく聞こえた誰かの声に、とうとう笑顔をつくっていることがつらくなってきて、私はグラスの中の酒をあおった。
 体内を滑り落ちながら焦がしていくような感覚のおかげで、過去のこともこれからのことも、忘れられる気がした。

「ちょ、ちょっとなまえさん、飲みすぎっすよ!」
「いいの! 明日休みだし。オールオッケー」
「って、もう酔ってます? 明日は関係ないっすからね。ダメになる前提じゃないですか。俺は、なまえさんが今ここでダメになるのが心配なんすよ」

 眉間にしわを寄せて説教を垂れる、その姿が懐かしくて笑ってしまった。よく眉間に指をあてて、怒っている綴くんをもっと怒らせた。判断力が鈍っている私は、思ったままに人差し指をそのゆるやかな凸に宛がった。

「なまえさ……ああ、もう」

 ひゅうひゅうと囃し立てるような声々が遠くなりながら、綴くんの声を掻き消した。結局、どっちも聞こえなくなる。



「ほんと、いい加減にしてくださいよ」

 溜息まじりの綴くんの声が、背中を伝って、私の背中全体に響き渡った。

「綴ぐー……ん」
「……はいはい、ここにいますけど何ですか」

 見慣れた路地と、せまい階段。懐かしいにおい、温かい首筋。
 ここは綴くんの家で、私は綴くんにおぶられている、ということに気付くまでにはそう時間はかからなかったけど、私がどうして綴くんの家にいるのか、その違和感に気付くまでにはけっこうな時間を要した。

「分かりづらい酔い方するとこも、ほんと変わってないっすね。俺がいなかったら、会場出たところで野垂れ死んでたんじゃないっすか。なまえさん、ベロベロになっても会話だけは冷静だから、普通の人が見ても危ないって分かんないんすから」

 ――“普通の人”と、綴くんの違いは何なんだ。限りなく元彼らしい台詞を吐きながら、綴くんは私をベッドに下ろす。見苦しかろうと言い訳のひとつやふたつ、吐いてやろうと思ったのだが、だらしない呂律は綴くんの名前を呼んだだけで力尽きた。
 綴くんは眉を下げて、キッチンから戻ってくる。無言でグラス一杯の水を差し出す綴くんと、上半身だけわずかに擡げて、それを受け取る私。いつかの昔にもしたようなやり取りを思い出して、体の芯の部分がこそばゆくなる。
 ここには間違いなく、恋人だった者たちの空気が鎮座している。

「――ごめん。いろいろ」

 水を一滴残らず飲み干して、沈黙をも飲み込んで、ようやくわずかに晴れる意識。おそらく、いや確実に多大な迷惑を被ったであろう綴くんに、まず深々と頭を下げた。

「いえ。めったにないめでたい日ですから。……覚えてないだろうけど、なまえさん、二次会の最後まですげえ嬉しそうに祝ってましたから、主役の2人も幸せそうでした」
「……そっか。よかった」

 ばふんと、再び体を布団に預ける。天井が、まだ揺れていた。ネイビーのカーテンから漏れる誰かの車のヘッドライトが、定期的に時計の文字盤を照らしつけて、午前1時過ぎの時刻を静かな部屋に知らしめる。
 綴くんは、ベッドの側面に凭れていた。粗雑な体育座りをして、虚空を見つめている。何を考えているのか知りたくて口を開いて、でも知ってどうしようというのだ。口を噤む。

「……聞いてもいいっすか」
「う、うん?」

 まさか綴くんから何かを聞かれるとは思っていなくて、完全に不意を突かれる私。猫背っぽく丸みを帯びた綴くんの背中が、蠢いた。

「……恥ずかしげもなく、聞くっすけど。なんで、何も言ってくれなかったんですか」
「――ええと?」
「俺と別れるとき、何も言ってくれなかったから。いろいろ……いろいろ考えたりしましたよ。俺がもうちょっと大人だったら、こうはならなかったのかな、とか」

 ちょっと自虐的な語尾がちぎれて、床に落ちた。
 理由も言わずに綴くんに別れを告げたときのことが、いやでも想い起される。抜けない棘の存在を思い出したら、とたんに痛み出す。
 綴くんと出会った、その最初のときから、綴くんには才能があって、私には何もなかった。それを分かっていて綴くんと手を取り合って、たくさんの時間を消費してしまった。私の時間はいい。けれど、彼の時間を全てを食いつぶしているような気になってきたのは、ちょうど一年ほど前からだった。
 私を遠くに、空を遠くに。綴くんをここに無理やり繋ぎ留めているのは自分であると一度思ったら、止まらない。彼にとって、いちばんの幸せをあげられる私でありたかったのだ。

「――絶対に、綴くんのせいじゃないよ。私のせい」
「それしか、言わないんですね」

 膝を抱え込んだ綴くんは、少年に見えた。言ったら怒るだろう。けど、私は綴くんのことを“子ども”だなんて思ったことは一度もなかった。彼が好きじゃない彼のことも、ずっと好きだった。

「なにがなんでもって引き留めてたら、行かないでくれましたか」

 綴くんの声にじくじくと、抜けない棘の芯が疼き始める。腐る前に、忘れなければ。
 ゆったりと起き上がって、ひっくり返るような頭痛を堪えて、私は部屋の隅でふやけていた荷物の取っ手を掴んだ。たっぷりと弾けるような花々が見え隠れして、思い出す。
 ――ブーケ、しっかり取ってくださいよ。
 綴くんがそんなことを言うから、飛んできたそれをほんとうに掴んでしまったのだ。新婦の彼女は声を上げて喜んでくれたけれど、祝われるような関係は、私と綴くんの間にはもうない。皮肉なものだと、自嘲気味に笑った。

「ごめん、帰るね」
「……いやです」
「ごめん、綴くん」
「――なまえさん」

 立ち上がった綴くんは、せまいこの部屋の中で見ると、ひと回り逞しく見えた。ドアノブにかけた手がゆっくりと離れる。必死に顔を俯けて、背後から私を抱き締める綴くんから逃れようとした。
 痛々しいぐらいに優しいけれど、つよくつよく、彼は私を閉じ込める。

「なんで……。俺ですよね、振られたの。なのに、なんで泣くんですか」
「綴くん、ごめ……」
「いやですよ、もう。そんな顔されたら、俺だって。またなまえさんと離れるのも、何も言わないで納得するのも、もう」

 首元に埋まる綴くんの、懐かしい気配。じんわりと伝ってくる熱量に、瞼が溶かされて、止めることのできない涙が零れ落ち続ける。
 強いて前を見据えた瞳に、見慣れた景色が映る。
 化粧水とかボディクリームとか、あげくの果てには予備のヘアアイロンまで、男の子には無縁なものを綴くんの家に増やしたのは他の誰でもない私だった。殺風景かと思いきや、綴くんの部屋のふとしたところに色濃く残る生活感。たまに片鱗を見せる綴くんのがさつさは、私の化粧水やボディクリームを、あの日と変わらないまま、そこに生かしていた。

「……綴くん、どこにも行かないで」

 何かがぷつんと切れた。子どもみたいに震える私の声を綴くんは受け取って、一度その腕に力を込めてから、私を離した。頬を大きな両手が覆って、私は綴くんにまっすぐに向き合わされる。そこにあるのは、言いたい100のことをぎゅっと堪えたような、やりきれない表情だった。

「行かない。なまえさんのこと、どこにだって、連れて行きます」

 だから、と綴くんは続けるけれど、それより先は紡がれなかった。気付けば背中と壁がひとつになって、綴くんは逃がさまいとばかりに私の髪に指を絡めた。セットされていた髪が乱れていくのも気にしないで、子どもみたいな口付けを何度も繰り返した。
 ネイビーのカーテンから漏れる誰かの車のヘッドライトが、定期的に時計の文字盤を照らしつけて、午前2時前の時刻を、静かな部屋に知らしめる。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -