「……緑谷くんってさ、好きな人いる?」
放課後、何やら視線を感じるなと思えば、とあるクラスメイトに唐突にそう声をかけられた。持ち上げたばかりのバッグを思わず落としそうになったのは、今まで彼女とレンアイの話なんて一度たりとも交わしたことがなかったからだ。
「え? あ、え、ぼ、僕!?」
「もしいるならさ、協力するから……その代わり、私のほうも協力してほしくて」
「あ、な、なるほどね! でも……ええと…………こういうの僕わかんなくて、何すればいいんだろ……?」
裏返る声をどうにか抑え付けて、無駄に緊張して熱い頬を掻いた。
彼女はスカートを握りしめたまま、意を決したように結んだ唇を解いた。
「ほんとは好きな人がいるか聞いてほしい、とか言いたいところなんだけど……たぶんそれ以前の問題だから。恋愛とか、する気あるのかとか……それだけ知りたいな。たぶん、緑谷くんと仲がいい人だから、緑谷くんからそれとなく聞いてほしくって」
赤らんだ頬を見て、けっして変な意味ではなく素直に「カワイイな」と思った。
なんとなく、この子が幸せになれば僕もたぶん嬉しいな、と思って、バッグの取っ手をぎゅうと握りしめる。
「……わかった。僕にできることなら! で、誰、かな……?」
◇
僕も大人になったんだな、と当たり前のことに気が付いたのは、高校の頃のクラスメイトから結婚式の招待状が届き始めたころだった。
指の腹にざらりとした感触を与えてくれる封筒には、控えめにきらめく金色の箔押しがされていた。中には、薔薇色の半透明の紙が織り込まれていて、なんだかみょうじさんらしいや、と学生時代を思い出して口角が緩む。
『緑谷くんへ』と大人びた手書き文字のあとに、『ますますご健勝のことと思います』なんて堅苦しい挨拶が続いては、最後にふたつの名前が並んでいた。
半年前に上鳴くんから来た結婚式には新郎新婦の華やかな写真が載っていたけれど、シンプルな飾りと文字だけでデザインされたその招待状も、なんだか「この二人らしいや」と思った。
もしかしたら、写真を載せるか載せないかとか、誰を呼ぶか呼ばないとかででさんざん揉めたりしたのかもしれない。想像してとうとう吹き出してしまった。
さっそくボールペンを取り出して「欠席」を二重線で打ち消すけれど、ヒーロー関係者の都合なんて、山の天気よりも変わりやすい。きっとあの教室にいたみんなが欠けずに集まることはもう難しいんだろうな、と、誇らしくも寂しい時間の流れに、ふっと息を漏らした。
◇
「あー、デクくん! 無事に来られたんだ!」
「おー緑谷、久しぶり! ……けどそこまで久しぶりなカンジもしねーのは、お前がよくテレビ中継されてっからだな!」
「麗日さん、切島くん、久しぶり! 麗日さんは先月以来……かな。二人が受付だったんだね!」
にっこりと頷く二人は学生のころよりも正装がさまになっていた。自分もちゃんとスーツを着こなせているだろうか、と急に不安になってきたころ、切島くんがしみじみと鼻をこすった。
「……でもよォ、俺らのクラスから結婚までいくカップルが出るなんて、めでてーよな。アイツら喧嘩ばっかでヒヤヒヤしてたけど、なんだかんだ上手くいってよかったぜ。クゥ〜……俺、今日飲みすぎっかも!」
「私も。明日に響かないように騒ご騒ご」
「あはは! でもほんと、おめでたいね。僕もたくさん写真撮っちゃお」
「デクくんが撮ると高砂からでも構わず怒りそうやし、バレんようにね」
人差し指を唇にあてて、麗日さんは悪戯っぽく笑った。
「そういや緑谷、飯田はさっき入ったぜ。お前ら披露宴も席となりだろ。奥にウェルカムドリンクと軽食もあるみてえだし、先にゆっくり座っとけよ」
「あ、そうなんだ! じゃあ、一足先に行ってくるね。受付、よろしくお願いします!」
二人に手を振って会場に入れば、待機室に座る飯田くんと瀬呂くんが僕を見つけて手招きをしてくれる。
どことなく、さらに体つきが逞しくなったような気がする飯田くんに「うらやましいよ」なんて言っているうちに、どんどんと空席は埋まっていった。
それでもまだ空いている僕たちの円卓をぐるりと見回していると、飯田くんが眉を下げた。
「ああ、耳郎さんと蛙吹さんは任務で遅れるらしい。八百万さんはどうしても都合がつかなかったみたいだな。……この空席は皆、ヒーローとして第一線で活躍していることの証だ。もちろん誇らしいことだが、ちょっと寂しいな」
「うん、僕もすごくわかるよ。……ところで飯田くん、轟くんのことは何か聞いてる? 披露宴は僕の左の席のはずなんだけど」
「轟くんか。彼は来ると聞いていたけど、ちょっと遅いな。どこかで足止めでも食らっているんだろうか」
神経質そうに眼鏡のフレームを押し上げる飯田くん。ためしに最新のネットニュースを見てみても、事件が起きている様子はない。
「僕、電話してみるよ」
「まー来るっしょ。来なきゃ来ないであいつの選択だし」
やけに飄々としたようすでウェルカムドリンクに口をつける瀬呂くんに、「え?」と耳に当てかけたスマホを下ろす。
「そうだけど、轟くんはほら、みょうじさんとも仲良かったし……」
「ウン。だからでしょ」
瀬呂くんは複雑そうな表情で肩をすくめて、マカロンをひょいと口の中に放り込んだ。
「あっま! 体に悪そ〜」
瀬呂くんはもう轟くんの話を続ける気はないみたいだった。いまいちさっきの瀬呂くんの言葉の意味を飲み込めないまま、空気だけ曖昧に読んでスマホをポケットに仕舞った。
◇
少し息を切らした轟くんがやってきたのは、挙式の寸前だった。
ぞろぞろとチャペルに集まってくる人をかき分けて、前髪をすこし乱した轟くんが「緑谷、隣空いてるか」と言ったとき、背後にはもう、ヒーロー関係者以外の参列者――主に女性の――のざわめきが生まれていた。
「轟くん! うん、空いてるよ。スーツ着ると余計にかっこいいね!」
「そうか? わかんねえけど……それにしても、ネクタイなんて雄英を出て以来あんまり締める機会なかったし、ちょっと窮屈だな。どこか変じゃねえか」
「ううん、似合ってるよ。さっきまで、もしかしたら轟くんが間に合わないんじゃないかと思って、ハラハラしてたんだ」
乱れたネクタイを正しながら隣に腰かける轟くんが、会場中の視線のほとんどを集めているのがわかって、なんとなく僕まで気恥ずかしくなる。
急いで来たのか、こめかみには汗が滲んでいて、色素の薄い髪が張り付いていた。轟くんはそれを乱暴に拳で拭って、目を伏せたまま言った。
「悪い。……本当は来るかどうか迷ってたんだ、さっきまで。ぎりぎりまで迷って、急いで来たから……いや。きっと最初から、来るつもりではいたんだが――」
「ええ? どういうこと――」
支離滅裂にも思える轟くんの言葉の真意を聞く前に、背後から聞き覚えのある綺麗なメロディが流れる。夜の海みたく、自然と参列者たちが言葉を眠らせてしまう。
牧師さんの開会宣言はカタコトだけれど、かえって空気が引き締まって澄んでいくような心地がした。
やがて、新郎の入場とともに、よく知っている声で野次が飛ぶ。特大の舌打ちが返ってきたのは、気のせいだと思うようにしよう。
そして、拍手喝采が花ふぶきのようにいっそう華やかになれば、一点の汚れもない純白のドレスに身を包んだ新婦が、扉の奥に現れた。
「うわあ、はあ……なまえちゃん、ものすっごいキレイ……」
目を潤ませながらもうっとりとした声を漏らす麗日さんに、僕もしみじみと「ホントだね」と頷く。
ゆっくりと、一歩一歩を大切に彼女に踏みしめられるその道が「ヴァージンロード」と呼ばれている所以を思い出して、僕まで泣きそうになってくる。
白いグローブに包まれた彼女の手が、お父さんから、不愛想な目付きの彼にそっと渡る。義理のお父さんになる人に肩を叩かれて小さく頷いて応える新郎の表情は、十年単位の付き合いを振り返っても今までに見たことがないもので、まるで別人のように見えた。
ふととなりの轟くんからも
「……アイツのあんな顔、見たことねえ」
という、ふいに零れたような声が聞こえた。
並び立った二人の背中は、片方が片方に頼っているような感じがしなくて、支え合いながらそこにあるように見えた。切っても切れないような信頼感が、二人の通わせる視線に滲んでいる。
――ほんとに、素敵だ。
よく知る二人の幸せそうな背中に目頭がじんわり熱くなる。
ちらりと視界に入った右隣の飯田くんは、父親よりもレンズの下をべちゃべちゃに濡らしていて、すこし笑ってしまった。
左隣の轟くんも気付いているだろうか、と視線をやれば、草臥れた花のように頭を垂れていた。
「……轟くん?」
僕の声はたぶん、沸き立つような拍手喝采にかき消されていて、轟くんの色のちがう二つの瞳がこっちを向くことはなかった。
彼だけ切り離された空間にいるように、纏う空気の色がちがっていた。
けれど、艶のある横髪が隠しているせいで、その下にある表情はまったく読み取ることはできなかった。
◇
宙を漂うようにどこかおぼつかない轟くんの様子は、披露宴のあいだも続いていた。もっとも、掴み切れない独特の雰囲気があったのは昔からだけれど、どこか上の空のようにも見える今日の轟くんは、ちょっと心配だ。
声を潜めて「轟くん」と呼ぶと、丸い瞳がこっちを向く。
「轟くん。あのさ、体調とか悪い? 大丈夫?」
「……なんでだ。どこも悪くねえぞ」
「あれ、そっか。ならいいんだけど……ちょっと疲れてるようにも見えたから」
僕の言葉に、轟くんははっと息を呑む。拍手をする手のスピードが、緩慢になる。
「……そう見えてたなら、気ぃ遣わせてごめんな。そんなつもりはなかったんだが……良くねえよな、こんなめでてえときに」
なんでもねえから、という声はどこか自分に言い聞かせるようだ。
ちょうどプロジェクターで映し出される、懐かしいグレーの制服。赤いネクタイ。今以上に生傷の絶えなかったあの頃。
写真の中で笑う彼女の隣には、たまにしか現れない新郎の代わりに、僕や飯田くんや麗日さんがよく写っていた。
そして、それに負けない頻度で、轟くんの姿があった。
『そうだけど、轟くんはほら、みょうじさんとも仲良かったし……』
『ウン。だからでしょ』
数時間前の瀬呂くんの言葉を想い出して、緩んでいた唇を引き結ぶ。思わず横顔を眺めてしまっていたことに気付いてか、轟くんは首を傾げた。
「……轟くん、大丈夫?」
照明が落とされた薄暗い空間で、二人の築き上げてきた思い出が、ぼんやりと轟くんの頬を照らす。
僕の「大丈夫」に込められた意味を数秒かけて察したのか、轟くんは目尻を細める。
「……ああ、たぶんな。かろうじて」
「ごめん、なんて言ったらいいかわかんないけど」
「いらねえよ、別に。誰かに何か言ってほしいわけじゃねえ。俺はただ、あいつのことを終わらせるために今日ここに来ただけだ」
写真の中の轟くんが、あの子の隣で笑っている。口角だけ吊り上げる、すごくわかりにくい笑い方。降り積もって凍った雪が、じんわりと溶かされ始めた、春の始まりの日のような笑い方。
友達だからわかる。写真の中にいる轟くんはきっとこの瞬間、とても幸せだったのだろう。
「……轟くんのこんな顔、見たことないや」
口を突いて出てしまった声に、轟くんは自嘲気味に吐息を漏らしては、また俯いた。
「……ああ。俺も初めて見た」
◇
披露宴もクライマックスに差し掛かると、順々にテーブルに回ってきた二人を囲んで写真を撮った。もう二度と同じ構図で、同じ気持ちでは撮れない写真になるだろう。
同じヒーロー科卒のクラスメイトとあって、僕たちのテーブルがどのテーブルよりも盛り上がったのは間違いなさそうだ。ただ一人、どの場面を切り取ってもこの世の終わりのように不機嫌そうな顔の新郎の背中を、新婦が力いっぱいに叩いて
「みんな、本当に来てくれてありがとう。ほら、勝己くんもちゃんと挨拶してよ!」
と言えば、どっと笑い声が上がる。
「お前もうみょうじに尻に敷かれてんのかよ!」
「てかもうみょうじじゃなくて両方爆豪だな!」
「ダブル爆豪ー、もうちょっとイイ顔しろよな!」
口々に野次を飛ばす切島くんと上鳴くんに、何度目かわからない舌打ちがもたらされる。
昔から好きだと言っていた色のドレスに身を包んだあの子はこっちに、いっとう幸福そうな笑顔を向けた。
「緑谷くんも、忙しいのに来てくれてありがとう。嬉しいよ。……あっそうだ、緑谷くんへの招待状にメッセージ書いたらって渡したんだけど、さんざん悩んだ挙句『やっぱいい』って突き返されたんだよね。でも、いちばん長いこと何書くか悩んでたよ」
「あはは、そうなんだ。……改めて、二人ともおめでとう。お幸せにね」
「うん! 轟くんも、忙しいのに来てくれてありがとう」
「……ああ、おめでとう」
歓声と、さっきから同じフレーズばかりが繰り返されているBGMに紛れて、彼女は柔らかな声を漏らす。
「ふふ……ありがとう、轟くん。これからもよろしくね」
時が止まったような軽い衝撃が、僕にも伝播してくる。罪のない笑顔を半歩後ろから睨む、もう一人の主役の彼も、何か言いたげに唇を波打たせていた。
何か言おうと、すこしだけ靄のかかった空気を吸ったと同時に、轟くんが伏せていた睫毛を上げた。
「ああ、こちらこそよろしくな。改めておめでとう。……お前と一緒になるやつが、爆豪でよかった。なあ、幸せにしてもらえよ」
照れ臭そうに笑う彼女の後ろから、
「……当たり前だろーが」
という、素っ気のない低い声が返ってくる。
「置きモンみてえになってた爆豪が、やーっと喋った!」
とげらげら笑い声を上げるみんなに怒鳴り声を上げるかっちゃんを見て、今日一番の懐かしさを覚える。
やがて、「また」と手を振って、テーブルを離れてゆく二人。その「また」が来るのはまた少し先になりそうだ。しんみりと一抹の寂寥感に胸の端っこをつつかれながら、やってきたデザートの皿にフォークをつけた。
「さ、轟くん、食べよ! おいしそうだよ!」
「この鳥の巣みてえなの、何だろうな。こういうときのメシって、凝りすぎてて何が何だかわかんねえ。いつも和食しか食わねえし」
「それ、僕もわかんない」
脱力したような笑みが、轟くんから返ってくる。
口角に少しだけ寂しさの鱗粉は残っているけれど、断ち切りたかった想いも思い出も、もう綺麗に轟くんの元からは飛び去ってしまったみたいだった。
きっと、さっき轟くんが彼女に贈った言葉はぜんぶ轟くんの本心で、最初で最後の告白だったんだろう。
数えきれないほどの拍手喝采とお祝いの言葉を贈られて、かつてのクラスメイト二人の、人生一度の晴れ舞台が幕を閉じた。
◇
「その……くん……なんだけど」
「えっ!? ご、ごめんみょうじさん、ぜんぜん聞こえなかったや! なんて?」
「と、轟くん……! 好きな人、轟くん、なんだけど……」
橙の夕暮れに浸かった教室。いたたまれないという様子で視線を迷わせる彼女を見て、思わず息を呑んでしまう。
「轟くんかあ……そうなんだ……!」
あのとき、並び立つみょうじさんと轟くんの背中を思い描いて、お似合いだと思ったのだ。
――将来、二人ともヒーローになったら、きっと片方が片方に頼っているような感じがしなくて、支え合いながらそこにあるようなカップルになるのかもしれない。切っても切れないような信頼感が、二人の通わせる視線に滲むんだろうな。
空想癖をこんなときにも発揮してしまったと、我に返ってぶんぶんと首を横に振る。
「僕にできることなら、協力するよ。轟くん、優しいし、カッコイイよね……!」
「……ありがとう、緑谷くん。うん……すごいかっこいいよね!」
あのときの、照れながらも弾けるような笑顔を、僕は忘れていないと言ったら。
ほんの一瞬、しまった思い出の紐を解いて、今の轟くんに見てほしいなんて思ったりもしたけれど、すぐに思い直した。きっとこの色褪せた思い出で幸せになる人はいない。
「緑谷。二次会行かねえのか?」
凛とした轟くんの声で、現実に引き戻される。
「……あ、ごめん轟くん。行く行く!」
「デクくん、まだ二次会まで時間あるから、みんなで一.五次会やろうって言っとるんやけど、来る? 百ちゃんももうすぐ合流できるって!」
「麗日さん、今、行くよ!」
引き出物の入った紙袋を揺さぶりながら駆け寄ると、ジャケットを片手に抱えた轟くんが、ぼそりと呟く。
「……今日は飲んじまいそうだ」
彼にしては珍しい発言を耳ざとく聞き付けられ、囃し立てられて囲まれる背中を見ながら、とある古い思い出のひとつに、そっと蓋をした。