※主人公=女監督生

「あ、冬のにおいがする」

 ベンチに座って駄弁っているとき、たまに監督生はこういうヘンなことを言う。
 すんと鼻を鳴らすと、やれ「雨のにおいがする」だとか、やれ「夏の空になってきた」だとか。試しに監督生の言葉のとおりに空を見たり、においを嗅いだりしたって、オレには変化なんてわからない。ひどく解像度の低いその言葉について、

「カントクセーさ、たまーにそういうこと言うけど、ひょっとして感受性豊かな自分に酔ってんの?」

と揶揄ったとき、口をとがらせる監督生のことをかばったのはデュースだった。

「エース。べつにそういう言い方しなくてもいいだろ」

 昼休みのあとの魔法解析学のテストに向けて膝のうえで開いていたテキストを、デュースはぱたんと閉じてしまう。
 分厚いページがぶつかって生まれたかすかな風が、デュースの前髪をすこしだけ吹き上げた。

「……僕も最初は監督生の言ってることがわからなかったけど、よく一緒にいるせいか、わかるようになってきたんだ」
「フーン。たとえば?」
「夏のにおいが消えたな、監督生。代わりになんか……落ち葉みたいなにおいがするようになった。違うか?」
「あはは、すごい。だいたいおんなじ」
「だよな! よかった。僕もわかるぞ」

 デュースは身を乗り出して監督生の顔を覗き込む。
 監督生は「そんな動物言語みたいに言ってほしくないんだけどな」と不満を述べながらも、肩を揺らして笑う様子から、嬉々としていることは一目瞭然だった。

「エースは、ないの? 好きなにおいとか季節とか。私は、夜の――」
「どーでもいい。そんなん考えたこともねーよ。いっつも大体一緒じゃん」
「あ……そっか」

 ただ単に、おもしろくなかった。自分以外のやつらに、自分にはわからないことで盛り上がられるのが。いや、こんなくだらないことは、「あっそ」で流せばそれで済むのに、その三文字すらこぼすのを躊躇ってしまった。「こんなくだらないこと」を共有して笑い合う監督生とデュースのほうが、よっぽどなにかに優れていて、幸福そうに見えたからだ。
 はあ、と息を吐いてベンチを立ち上がると「どこ行くの?」と悪気のない声が背中に降りかかる。

「……昼寝」
「おい、テスト勉強はしなくて平気なのか?」
「魔法解析学ならオレ得意だし、そんな付け焼き刃いらねーよ。お前らが赤点取らないように夢んなかで祈っててアゲル〜」
「……くそ。僕にもあんな余裕があれば」

 我ながら子どもじみていると思った。
 ポケットに手を突っ込んで、校舎裏に静かにたたずんでいる、大木の下に寝っ転がった。植物園は実質、レオナ先輩の縄張りみたいになっていて面倒だし、昼寝のためにわざわざここまで足を運ぶ生徒は少ない。
 寝転がると、たっぷりとした大木の影が足先まですっぽりと、日差しからかくまってくれる。
 べつに眠いわけではなかったけれど、ふっと瞼を閉じた。
 そして一人になると、なんであんなことに苛立っているのかと、自分自身がますます不気味な存在に思えてきてしまった。
 この胸の騒めきは、羨ましいとかズルイとか、そういう感情に似ていることはわかっている。でも、なんで。昨日グリムが食べたツナ缶のフレーバーを聞いてるよりもどうでもいいことに、なんでオレが悶々とさせられなきゃならないのか。
 思わず額に手の甲を乗せてアーと唸ったところで、頭上から、風に舞い上げられそうな柔らかい声が聞こえる。

「……監督生、なんでいんの」
「来ちゃった」
「来ちゃったァ、じゃないでしょ。なに可愛いこぶってんの。テスト前の悪あがきはどーしたの?」
「今更足掻いたって仕方ないかなーって、吹っ切れた。エースの様子もヘンだったし」

 風に遊ばれる短い横髪を耳に掛けながら、監督生はオレの隣に腰を下ろした。
 ――なんかマジで拗ねた子どもみたいじゃん、オレが。
 途端に羞恥にまみれて寝返りを打つ。オレに背中を向けられた監督生が「あれ」と困ったように笑うのが聞こえた。

「……お前見てるとイライラすんの」

 気持ちが尖ったままじゃ、まるい言葉なんて吐けない。自分の喉元から出た声色も、濃度の高い煙みたいで、余計に嫌気がさす。

「……え……っと、それは悲しいな。悪いことしてたなら、ごめん」
「……正確には、お前とデュースを見てるとイライラする」
「言い直さないでよ」

 しゅるしゅると監督生の声が萎んでいくのがわかる。
 罪悪感に飲み込まれそうになりながらも、厄介なプライドはオレの体を監督生のほうへ向けてはくれないまま、しばらく黙りこくらせて。
 そして、やがて吹っ切れたように、半ば怒鳴るように

「……オレもお前と仲良くなりてえの」

と発すれば、監督生の「えっ」という間抜けな声がした。
 ようやく監督生のほうへ顔を向けるけれど、監督生は目を丸くしてポカンとしてるし、たぶんオレの顔はまだ拗ねてるしで、大木に穴でもあれば転がり落ちたいくらいだった。

「私は、エースと仲良しだと勝手に思ってたけど……」
「たぶんそーゆーんじゃなくってさ。お前にはわかんないかもしんないけど、オレもお前と同じもん見たいとか、感じたいとか……思っ…………いや、なんだこれ気持ちわり。忘れて」

 指先から水滴を払うようにひらひらと振ってみるけれど、監督生は頑固にも、オレから視線を逸らさない。

「……えっと、エースも私が好きなもの、見てくれようとしてるってこと? さっきはどうでもいいって」
「え? いや……もーいいって、忘れてって言ったじゃん」
「そんなすぐ忘れないよ。鳥頭じゃないし」
「……まー、そういうことも言ったけど、気にしないでよ。オレはべつにお前が何を感じてようが、どうだって――」
「行こうよ。今夜、時間ある?」
「は?」

 なに勝手に話進めてんの、と睨むのもバカらしくなるぐらい、監督生はにっこりと屈託のない笑みを浮かべていた。
 観念したオレは、照れを誤魔化すために後ろ髪をさわっていた手を止めて、

「……何時?」

と返事になってない返事をした。





「なあカントクセー、寒い」
「なんでなんにも羽織ってこなかったの?」
「こんな外出歩くとか聞いてねーし」

 二の腕がひんやりと夜風にさらされるのをさすって温めながら、監督生のあとを付いていく。
 ずんずんとオンボロ寮から離れていく監督生の足取りはやがて、昼に訪れたばかりの大木の下で止まった。

「……いやいや、いっつもなにしに来てんのお前、こんなトコまで」
「星、見に」
「ハア?」

 監督生は大木の根本に、昼間のオレがしていたみたく、体を横たえる。バカじゃないのと言いたくなったのは、そんなところに寝たって、頭上には木が屋根代わりに覆い茂っているから星なんて見えないに決まっているからで。ポケットに手を突っ込んだまま突っ立っているオレに気付いて、監督生は「あれ」と困ったように笑った。デジャブだ。

「エースも寝転んでみてよ」
「……ハイハイ、わかったって」

 こいつのバカに付き合うと決めたのだから、最後まで。そう思って、昼間よりもひんやりとした芝生の上に背中を預ける。
 バカらしくて閉じていた瞼を擡げて、はっとする。ちょうど真上が、ぽっかりとドーナツの穴のように、空に向かって開けていた。
 しばらく無言でその穴を覗いていると、監督生がすこし弾んだ声で切り出した。

「私のいた世界ではこんなにきれいでたくさんの星は見えなかったから、感動したんだよね」
「それで毎晩来てんの?」
「毎晩じゃないけど、眠れない日は」
「……ひとりで? 危ないじゃん。やめろよ」
「じゃあ今度からエースも付いて来てよ」
「………………ヤダ」
「エースは本当に嫌なときは、もっと間髪入れずに『ヤダ』って言う」

 図星だった。むっとしている間に監督生の勝ち確だ。
 監督生は羽織っていたパーカーを脱いでオレと自分の上に跨るようにばさりとかけると、「寒くない?」とオレのほうへ視線を向けた。「フツーは」というか「理想は」、オレが着てる服を寒がるこいつの肩にかけてあげる、そんな展開だと思うんだけど。
 つられて視線を投げ返してしまえば、時が止まったような感覚になる。
 重力に巻けてはらはらと垂れた横髪が、白い頬にかかっていた。すこし細められた瞳にも星空が映り込んで、きれいだ、なんてオレらしくもないこそばゆい感想が、頭のなかを占めた。

「……オレは、平気」

 ぼそぼそと答えるオレの声は「心ここにあらず」という言葉通り、覇気に欠けていて。
 「よかった」と監督生が空に視線を戻したあとも、その横顔から目を逸らせないでいた。
 あまりにも素直にものを言いすぎるやつだから、きっとその瞳が映すものにも、きっと嘘偽りはない。監督生の瞳越しに見た星空はきれいだった。今までの人生で一度も、星を見ようと思って空を見上げたことすらなかったのに。
 ――きっとオレは、監督生とデュースがこんな「やわらかい気持ち」を知っていることが羨ましかった。

「……オレらのいるトコの星空って、キレーなんだね。知らなかった」

 監督生に向かってそう言えば、再び視線がこっちに戻ってくる。

「すごいキレイだよ。エースたちが私の地元の空見たら、たぶんがっかりすると思うよ。……あ、エースの目にも星映ってる。キレイ」

 そう言ってこちらに差し述べられる手を、思わず絡め取ってしまった。
 ぴたりと、瞬き以外の動きを止めた監督生のまるい双眸に自分だけが棲んでいるのを、数秒かけて確かめて。

「なあ、オレにもっと見せて、お前の好きなもの。オレも見せるから。……そんで、いつかオレのことも見て」

 ――今みたいにさ。いつかでいいから。
 そう付け足すと、呆気に取られた監督生が、魚のように口をぱっくりと開いて、思わず吹き出してしまう。
 エース、と監督生が咎めるようにオレの名前を呼んだときだった。音もなく流れて色もない星が、かすかに色付きはじめたような気がして、頬を撫でる風も、早く目が覚めた朝のにおいを孕んでいる気がした。
 監督生がいなければ見ることも感じることもなかったものたちを、独り占めしたいし、されたいなんて思ってしまったこの本音を、別の言葉に乗せて伝えてしまう日はたぶん、そう遠くない。
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